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編集長の恋20

20
 
啓子は先程から着付けを何回も直している。
「お支度、早くしてください」
言い方は丁寧だがこちらを見ずに言う。今日はあなたの面倒を見ている暇は無いというわけだ。
のろのろとレンタルの燕尾服に着替えながらも、俊郎は室田から聞いた後藤の話を思い出していた。  
自分のバンドのファンと結婚をして、その奥さんに子供をおいて逃げられた。そんな内容を本にしようなどと、なんと軽い男なのだろうと思っていた。その後藤が、三人の子育ての上に重篤なアルコール使用障害の奥さんを抱えていたとは。
陽気にふるまっていてもどこか得体のしれないところがあった。それが何かがわかった。後藤は磊落に見えながらも、深い悩みや悲しみ、それに付随した少なくない嘘を隠し持っていたのだ。
出版を企画するという後藤の取った行動は最善のものではなかったのかもしれない。それでもその思いは、今になると理解できるような気がした。
次に会った時には、サックスを教えてくれたことを、やはりきちんとお礼をしよう。少なくともサックスを通して、後藤は正直で誠実だった。自分の取ってきた後藤への接し方を振り返り、申し訳ない思いが募った。
再度啓子に急かされ、いざ出発しようとなって、玄関に置いてあったサックスを忘れないようにと促された。
「あなた、これ」
「ああ……ありがとう」
啓子が少し驚いたようにこちらを見ている。何か変なのだろうか。久しぶりに目が合ったが、啓子はすぐに目をそらしてしまった。
乗り込んだタクシーの窓に流れる住みなれた淵野辺の風景も、この三十年ですっかり変わった。
結婚を機に思い切ってここに家を購入した。俊郎が三四歳、啓子二二歳の春だった。思えば娘の花江は、啓子と同じ歳で今日花嫁になる。
上司の紹介で印刷会社の部長の娘と会食をした。それが啓子だった。それからは周りから押し流されるように結婚に至った。結婚当初は働き盛りで家にはほとんどいなかった。そのせいかどうかはわからないが、長年子宝に恵まれずに、諦めかけた時に授かったのが花江だった。啓子は二十九歳になっていた。予想より早くに破水し入院が長かった。
見舞いへ向かう途中の相模川に、鮮やかなピンクの桜の花びらが沢山流れていた。母子を心配する心が見るたびに慰められ、穏やかな気分になった。そこから花江と名付けた。
難産だったがどうにか乗り越え、生まれた花江の本当に花びらのような赤い泣き顔と、慈愛にあふれた啓子の表情を今も思いだすことができる。
あらためて隣に座っている啓子を横から眺めた。結婚して三十年経った今、後れ髪にも白いものが多く混じり、もしかしたら五二歳にしては少々老けている方なのかもしれない。ということは自分は推して知るべしだ。広くなった額にそっと手をやる。
昨日電話で博章に言いはなった言葉を思いだした。随分きつい物言いをした。
自分は、はたしてどうだったのだろうか。啓子にとっていい夫だったのだろうか。花江にとっていい父親だったのだろうか。
俊郎は啓子越しに流れゆく街並みを見ながら脇に置いたサックスケースに手をやった。今日、四十年以上前に始めると決心したが結局はやらなかったサックスを、ついに娘の結婚式で披露する。俊郎の頭に、当時の思い出が去来する。
 
綾瀬日名子との雨の新宿での別れの後、日名子は俊郎の部屋に来ることはなかった。
一週間ほど経ってから、部屋にあった日名子の荷物をバッグに詰めて、俊郎は逡巡した。これをどうしようか。
本人に渡してしまえば、つながりが無くなってしまう。でも部屋から持ってきた衣類など身の回りのものが沢山入っている。これがなければ困るだろう。捨ててしまうようなことは到底できない。大学で誰かに託すのは気が引けた。説明が面倒だった。
日名子からは電話一本すらなかった。日名子の部屋には、おそらく電話があるはずだが、番号を知らなかった。上級生には聞けるはずもない。迷った挙句、意を決して沼袋の日名子のアパートまで行ってみることにした。
日名子がいたら、どういう話をすればいいのだろう。未練が無いはずはなかった。いや、未練しかなかった。
俊郎のアパートでの夢のような五日間。日名子の吐息、ぬくもり、すべてが俊郎の脳裏に焼き付いていた。そして、あの雨の新宿での光景も。相手が西本孝太郎では勝てるはずもなかった。でも……。
叶うならば、もう一度だけでも日名子に会いたい。それしか頭になかった。
日名子と二人で洋服を取りに戻った時にはあっという間だった距離が、いざバッグを持って向かうと、長く辛く感じた。
日名子のアパートが目に入ると心臓の鼓動が激しくなった。立ち止まって、深呼吸を繰り返す。午後の梅雨時特有のどんよりした蒸し暑い空気。まとわりつくような汗も沢山かいていた。
震えを抑えて、ドアの前に立つ。西本がいるという可能性もある。さんざん迷ってからドアをノックした。日名子も西本も出てこなかった。いないのか。ほっとするのと同時に残念な思いが強く湧き上がってきた。
どうしても、もう一度日名子に会いたい。会ってどうなるものでもないのは、わかっている。でも、もしかしたら……。
「君、誰?」
突然声をかけられ振り返った先には、階段を上り廊下をこちらにやってくる西本孝太郎の姿があった。
「そのバッグ、日名子のだね。そうか、君があの時の」
寄ってきた西本は、見上げるほど背が高い。咄嗟に声が出ない。西本は端正な顔にしわを寄せ、汚いものでも見るように言い放った。
「日名子はいないよ。それは僕が預かる。君はもう帰っていいから」
手を差し出されて、思わずバッグを両手で抱えた。
こいつに渡すわけにはいかない。そう思った。
「いえ、直接渡します」
声が震えているのが自分でもわかった。西本の顔にあざけりのような表情が浮かんだ。
「君、何年? 二年、一年? 学部は? それ日名子の衣服が入っているんだろう。僕から日名子に渡すから」
「これは日名子さんに自分で渡します」
今度は少し大きな声が出た。かまわず乱暴に手を伸ばしてきた西本ともみあいになった。西本は苛立ちを顔に出し俊郎を突き放すように押した。
「なんなんだよ、お前。日名子にちょっとくらい良い顔されたからって、調子に乗るなよ」
「調子になんか乗っていません。あなたには渡しません」
バッグなのか日名子のことなのか。その両方だった。西本は顔をゆがめ掴み掛ってきた。バッグを必死に守る。その時、目の前に星が飛んだ。後ろに倒れてから、殴られたとわかった。
「お前が悪いんだぞ」
西本は殴った右手の甲に目をやり、痛むのか左手でさすりながら言い放った。
殴ったのは僕のせいなのか? こういうふうにして、日名子さんをあんたは殴ったのか? それがあんなにあざになって日名子さんの身体に残ったのか。
日名子の白い肌に残ったどす黒い醜悪なあざを思い出す。
許せない。
頭に血が上った。
「うおーっ」
俊郎は自分でも気づかないうちに立ちあがり、バッグを抱えたまま、頭から西本にぶつかっていった。その勢いで、受けきれない西本もろとも廊下に転がった。
「やめて!」
その時悲鳴のような声が聞こえた。
「コウちゃん、もうやめて。伊藤君、大丈夫? ごめんなさい。本当にごめんなさい」
日名子だった。あんなに会いたいと思っていたのに、今は会ってすごく恥ずかしかった。
「伊藤君、なんともない? 大丈夫? けがはない?」
二人の間に割って入り、母親のように言われれば言われるほど、傷ついた。
ぼくはなにをやっているのか?
「こいつが突っかかってきたんだぞ」
西本は立ち上がり、衣服の汚れを払っている。
「暴力はやめてよ」
「お前のバッグを僕が預かろうと言ったら急に暴れ出して。こいつ随分お前にお熱のようだな。お前の下着の入ったバッグを抱えて離さないんだぜ」
日名子は聞こえないかのように、俊郎を気遣った。
「ありがとう。本当に大丈夫?」
優しくされればされるほど、どういうわけかみじめになった。
「わざわざバッグなんか持ってきてくれなくても、よかったのに」
褒められるとは思っていなかった。でも、その言葉は俊郎の胸に痛みを与えた。
やはり僕たちの恋は終わったのだ。いや、そう思っていたのは自分だけで、始まってすらいなかったのかもしれない。
「これ」
抱えていたバッグを日名子に手渡した。
「幸せになってください」
日名子は泣き笑いのような表情を見せた。
どうしてそんなことを言ったのか、俊郎は自分でも分からなかった。その時になって、西本に殴られた頬がジンジンと痛んだ。
その場からすぐにでも消えさりたかったが、俊郎は意地になって、ゆっくりと二人の元から歩き去った。
日名子は追って来なかった。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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