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編集長の恋3


 
家に着くともう十時を過ぎていた。
相模原市にある家は、淵野辺の駅から歩いて五分ほどだ。都心までは快足電車を使えば約五十分。東京のベッドタウンとしては良い方だと言える。
三十年前に新築した木造の二階建ては、今や住人と同様に古びており、脇に俊郎自らが〈猫額苑〉と命名した申し訳程度の庭がついている。そこの隅には、ほとんど手入れもしない金木犀の木が一本植えてある。
その奥には車庫があり、ゴルフの時以外はほとんど使われないシルバーのゴルフが入っている。それで全部だ。狭いが親子三人が住むには充分だった。
普段は目に見えないパワーなど信じないが、今日は家から漂ってくる無言の圧力を感じた。いつもは消えている玄関の明かりが、煌々とついている。
玄関に見慣れない大きな黒い革靴があった。できるだけ音を立てないように上がったが、啓子がすぐに居間から飛んできた。能面のようだった。
たじろぎつつも、風呂に入るぞ、とすりぬけようとすると、啓子は無言のまま廊下を塞いだ。やはり観念して話を聞くよりほかは無い様だ。 
ダイニングには、普段より多めのおかずが用意され、隣のリビングの座卓には花江と男が待っていた。
「お父さん、お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした。あの……今日はお話したい事があります」
「なんだお前、あらたまって」
ポケットからショートホープを取り出し、座椅子に座りながら火をつけ深く吸い込んだ。煙草を持つ指先が、少し震えているのが自分でもわかった。
「お父さん、飲んでるの?」
「いや仕事でちょっとな。酔ってはいないよ」
「そう……あの、タナベさん、タナベヒロアキさん、この間の日曜日の」
この間の日曜日とは、お父さん明日久しぶりに一緒にご飯食べようよ、なんてワケありの言い方をされ、翌日の夕方になって男を連れてきたあの日のことだ。
男は、見上げるほどに背が高くほっそりとして、髪が長い。おそらくは美容師仲間あたりだろうと思った。挨拶もそこそこに、花江はそいつの趣味が音楽だという話をしだした。いかにも唐突だった。
「お父さん、音楽好きでしょう」
花江は何とか話題を繋ごうとしたが、それとこれとはわけが違う。男は、自分からは何も話そうとはしない。なんだかだまし討ちにあった様な気がして面白くなかった。
そんな手に乗るものかと、その日の俊郎は用事があると言って逃げ出してしまった。
そして今日もまた、そのタナベは、こんな夜遅くまで人の家に上がり込んでいる。どういうつもりだ。 
俊郎がむっつりタバコを吸う間、タナベは花江の視線を受けずっと何かを言いたそうにしている。タバコを灰皿に押し付けたタイミングで、タナベはようやく言葉を発しようとした。
「あの実は」
「かあさん、お茶を入れてくれないかな」
台所に立っていた啓子がすぐにお茶を入れてきた。〈ダンッ〉と底が抜けそうなほどの勢いで座卓に湯飲みを置くと、花江の横に座り、珍しく会話に入ろうとしている。
どうやら外堀は埋まっているらしい。お茶はやけどしそうなほど熱かった。新しいショートホープに火をつけた。煙越しに、眉の薄いタナベの色白な顔立ちが浮かぶ。今時のとでも言うのか、いかにも線が細い。どうした? なんか話があるんだろう、君?
「花江、今日、仕事は休みだったのか」
「ええシフトを代わってもらったの」
「無理言ったんじゃないのか」
「大丈夫よ、いつも私も代わってあげてるもの」
「そうか、それでタナベさんだったっけ? 同じところで?」
待っていましたとばかりに話し始めた花江によると、タナベは美容師ではなく、このなりで普通の営業職らしい。次に花江は身を乗り出すようにして、ちょっと前まではプロとしてバンドでベースを弾いていた、と言った。
自慢にならないぞ。学生でもないのにバンドをやっているなんていう奴は、どうせろくでもない。
「バンドでベースね、へえ。で、どうなの、やっぱりベースって難しいの? うちの編集にも弾けるって奴がいて、丁度今日、散々威張られちゃったよ」
タナベは、答えに詰まった様子だった。あんた、営業職じゃないのか。こんな奴に、大事な話などさせてたまるものか。
「やっこさんはロックとかブルースとか何でも弾けますって豪語してたな。やっぱりそうなの」
「はあ」
タナベはようやく声をあげる。
「まあでも、ベースってのは、言葉は悪いけど裏方だよね」
「ええまあ」
自分の領域の話でタナベの表情が少し変わるのが見てとれた。
「こう、なんて言うの。メロディじゃないから、つまんないんじゃないの意外と」
「いや、そんなことはないですよ」
「でもやっぱり、本当は前に出て歌ったりとかメロディとか弾いて目立ちたいんじゃないの。バンドやってる以上は」
「ああ、はは」
タナベは声をあげて笑った。何にも知らないおやじが何言ってんだよ。その顔にそう書いてあった。ついむきになった。
「メロディ楽器が花形だろ、だって」
「ベースは基本単音なので、ある意味メロディなんですが……。お父さんは何か楽器をされていたんですか」
タナベが切り返してきた。おい、おやじ、知ったかぶりするなよ。
恥ずかしさもありついタナベをにらんでしまった。そして次の瞬間自分の口から出た言葉に、俊郎はうろたえてしまった。
「ああ、もちろんやってたさ、若い時分だけどね」
「何をやっていらしたんですか」
「……」
思わず、サックスだよ、と答えそうになっている自分を必死で抑えた。いや、だめだ。今ここでそんな事を言ったらだめだ。
「楽器は何を?」
タナベはかさにかかってくる。隣の花江がタナベの膝を押さえたのが見えた。
何の話してるのよ。もうやめて、お父さんが困ってるでしょう。楽器なんかやったことが無いんだから。それよりもっと大事な話があるでしょう。花江の言葉が聞こえたような気がした。    
「サックス、サックスだよ」
言ってしまって、自分でも青ざめるのが分かった。
「えっ、サックス……カッコいいですね、サックスですか」
「なんだよ」
「いや、うちのバンドのキーボードも、曲によってはアルトサックスをやりますよ。じゃあ今度僕らのバンドで吹いてくださいよ」
「ああいいよ、今度な」
「もういいかげんにして、お父さんもヒロアキさんも」
花江が我慢しきれないように声を発した。
 
結局、この後すぐに田辺は帰っていった。大事な話もされなかった。それで余計に気まずくなった。
またやってしまった。子供みたいな言い合いだ。しかもサックスをやっていたなどと、またしても。
何も言わない啓子の顔が俊郎の自己嫌悪に拍車をかけた。アルコールが胃の辺りでうずいていた。
田辺を送って出た花江がすぐに戻ってきて俊郎の前に座った。
「お父さん、大分飲んだの?」
「いや、酔ってはいないよ」
「そう。彼、ああ見えて将来の事とかしっかり考えているのよ。今、わたしたち、真剣にお付き合いをしていて……」
「博章さんはバンドって言っても、今回の花江との事で、仕事をかえて堅実な企業に勤めてくれたらしいんです」
横から啓子が助け船を出してきた。
「なんだお前、なんで知ってんだ」
「私は話を聞きましたもの。今回ばかりは花江も真剣にお付き合いしているって言うし、博章さんも根は真面目な方のようですし」
「真剣なお付き合いねぇ、そんなのおれは今初めて聞いたなぁ。啓子、お前はあのアキヒロくんてのと何回くらい会った事あるんだ」
「何回って、この間の日曜日と今日で二回目ですよ。半年くらい前から花江から話は聞いていました。でもお仕事がバンドの方だって聞いて、最初は私もちょっと心配して。けれど実際お会いしてみて安心しましたの。ベースをやっていた時はプロとして町田のお店に出ていたんですって。あと渋谷とかにも」
花江、ねっ、などと、あきらかに肩入れしているのがわかるだけにどこか面白くない。
「それで互いに真剣になって、将来の事をきちんと話し合って、博章さんは花江と結婚するために営業の仕事に転職したっていうことなんです」
「結婚? なんだ、花江は結婚するのか」
「あなた、またそんな事言って。電話でお話ししましたでしょう」
「そうだったけか」
「あなたったら……」
一瞬顔を曇らせたが、すぐに気を取り直したようだ。今夜の啓子はいつになく饒舌だった。
「花江は博章さんと結婚してもしばらくは美容師の仕事を続けるって言っています。そりゃ最初は大変かもしれませんけど、本人達さえいいのならって、私は思いましたの」
「アキヒロさんアキヒロさんって、なんだかお前が結婚するみたいだな」
「何を仰るんですか、真剣に聞いてください。花江の大事な話なのに」
「聞いてるさ、結婚するってことだろ。花江に仕事続けさせてバンドだから食わして下さいってんだろ。いいんじゃないか、髪結いの亭主ってやつで」
「あなたっ」
「お母さんありがとう、もういいよ。お父さんはいつもこう。私の話なんて真剣に聞いてくれないわ。どうせくだらない店でいっぱい飲んできたんでしょ。酔っぱらって、さっきだって博くんにサックスやってるなんてバカみたいなこと言って。わたし恥ずかしかったわ。もう沢山よ」
「酔っぱらってなんかないぞ、なんだお前はお父さんにむかって」
「なによ、都合がいい時だけお父さんお父さんて、風向きが悪くなるとすぐ人の話のこしを折って、何も聞かないじゃないの。お父さんは私たちの事なんかどうでもいいのよ。私がテニス辞めた時だって、美容師になる時だってそうだったわ。それに彼はヒロアキさんよ、田辺博章。わざとらしく間違えるのやめてよ」
「わざとじゃないぞ」
「お父さんは一体何が気にいらないの。私たちの何が」
「いや気にいらないんじゃないんだよ。心配してるんだ。お前ばっかり働いて亭主が遊んでいたら」
「なによそれ、遊んでないわよ。今は慣れない営業で一所懸命働いているわ。むしろ私はバンドを続けてもらいたかったくらいよ。もともと男の人に頼らないで生きていきたいから美容師を選んだのよ。だから博くんにもそう言ったのに。花江だけにそんなつらい思いはさせられないって、夢だったベースの道をあきらめてくれたのよ。それなのにお父さんは、博くんを馬鹿にして、私やお母さんも馬鹿にして、お酒飲んで、困らせて、迷惑かけて」
「おれが、いつ迷惑かけた」
「いつもよ、そんなことも分かんないの。今日だって私がどんな思いで待っていたと思うの。今日こそは結婚の事を報告して、親子で話し合って祝福してもらって……。そう考えていたのよ、悪いの?」
涙をためた花江を見て、一気に酔いがさめるようだった。
「そうか、お前は結婚するんだな。あのタナベさんと。お前はそれでいいんだな、幸せなんだな」
「もういいわよ、お父さんになんて分かってもらわなくても」
「そうじゃなくて、お前がいいなら」
「お父さんにはもう相談しない。私たちだけで決められるもの」
隣の啓子と同じ眼差しでこちらを睨み、涙を流している花江はもう昔の花江ではなかった。いつの間にか大人になっていた。いやもうとっくになっていたのだが、認めたくなかっただけなのかもしれない。
「そうか……じゃあそうしなさい。お父さんは風呂にでも入るかな」
俊郎は着替えも持たずにそのまま風呂場に行った。風呂は冷めてぬるかった。いつもなら大声で啓子を呼ぶのだが、今日ばかりはそのまま入った。
 
「あなたも機嫌を直して。式の事は落ち着いたら、またお父さんに話をしなさいよ。一応親なんだから」
〈一応親〉を強調するあたりに、長年にわたる母のあきらめを感じる。
「お父さんて、どうしてあんななの。私なら絶対我慢できない。お母さんが別れたいって気持ちもわかるわ」
「こらっ、滅多な事は言わないで」
「だって本当の事でしょう。私が小さい頃から、お母さん口癖のように言っていたじゃないの。この子さえいなければって」
「そんなこと言ってないわよ」
「言ってたわよ。聞こえてたんだからね」
「全くあなたったら、今は自分たちの事でしょう。お父さんだってきっとどうしていいのかわからないのよ。あんな人でも一人娘が結婚するってなったら、少しはおかしくなるわよ。きっと寂しいのよ」
「だとしたら相当にひねくれてるわ。一人娘が幸せになるかどうかという時に、真面目に話を聞こうともしないで、しまいには髪結いの亭主だとか悪口ばっかり。それで自分は寂しいって、ずるいわお父さんは。お母さんだってどうしてお父さんの前では本当の事を言わないの。それでいいの? 本当はお父さんとすぐにでも別れたいんじゃないの。私がお嫁に行ったらって思っているんじゃないの」
母の沈黙が、肯定を語っているように思えた。
「……いずれにしても、私はあなたの味方よ。いつだってそうだったでしょう」
父の話題になると最後はいつもこうだ。花江には母と言う人の奥が見えなかった。同じ女同士とは言え、母は娘に限らず他人には決して本当の自分を明かさないのかもしれなかった。
そしてそれは母の生来の性格というよりも、もしかしたら長年の結婚生活が母をそのように変えてしまったのかもしれない、とも思う。
老舗印刷会社の取締役にまでなった玉川の祖父のもと、祖父母の話によれば母は行動力のある活発な女の子として育ったらしい。
小さい頃から運動が得意で、ピアノも習っていた。中高を通じてクラス委員に選ばれ、はきはきと物を言い、高校時代は長距離走で大会の入賞の常連だった。その上、ギターを弾いて、女子ばかりのバンドを組んでいたとも聞いた。
今の母からは全く想像ができない。その頃の思い出や写真は、母は思うところがあって玉川に置いてきてしまったのだろう。あの父のことだから、おそらくはそんな母を知らないのではないか。
いずれにしても、そんな快活な母が、半ば見合いのような形で父と一緒になって、花江が物心ついた時には、わがままな父に従順な女性になっていた。しつけの一環として、男性に逆らってはいけない、とでも習ったのだろうか。それとも、一応良家(と言えるかはギリギリの所だと思うが)の出として、男性を立てることを良しとでもしているのだろうか。両親の年代ならばあり得ない話ではないが。
それでもさすがに今日のような理不尽な父の振舞いに接すると、こんな家出て行ってやると思ってしまうのは、花江だけではなく母もそうだろう。
でもそれは買いかぶり過ぎで、母は思い切った行動を取るには、あまりにも長く父と一緒にいすぎたと本当にあきらめているのかもしれなかった。
花江は、そんな良妻を演じてまで我慢ばかりの母のようにはなるまいと思っていた。その反面、もしかしたら自分もいつか子供を持つようになれば、この母の気持ちが少しは理解できるようになるのかもしれない、とも考えるのだった。

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