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編集長の恋25

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花江が珍しく啓子と一緒に台所に立っている。ヒロくんの好物のハンバーグを焼く、らしい。慣れない手つきで台所を占領していた。
啓子は先に、きんきの煮つけに鯛の刺身、俊郎の好きなけんちん汁、花江が小さい頃から大好きだったポテトサラダを用意していた。 
花江は当然のように何事もなかったような顔をしているが、俊郎は意識してしまって、買い物から帰ってきた啓子をまともに見る事が出来なかった。
先ほどからずっと啓子の後ろ姿を盗み見していた。
本当に別居するつもりだったのか、お前。そんな言葉を啓子のやや猫背の小さな背中に心の中で何回も語りかけた。
もしそんなことになったら、料理の全くできないおれの毎日の食事はどうしたらいいんだ? 洗濯だって何十年もやっていない。掃除は嫌いだ。当然下着も服もどこにあるのかよくわからない。花江もいない。
そりゃないよ啓子、俺がどうなってもいいのか。そんなうらみがましい言葉を心で投げつけた。
気がついてみれば、今まではずっと啓子と花江に支えられて生活をしてきた。これからどんどん歳を取って、日に日に自分で自分が思い通りにならなくなるだろう。その時、隣に誰もいないなんてことは考えた事もなかった。
頭から冷水を浴びせられ、それと同時に一気に憑きものが落ちたかの様だった。
あんなに輝いて見えた金色のサックスが、床に落ちた途端に一瞬にして役に立たない金属の固まりになってしまったように、自分の中で何かがひっくり返った。
突然目の前に再び現れた日名子が引き金となって、啓子と歩んできた時間や、啓子の存在の大きさ、大切さを、俊郎は痛感していた。
 
花江の焦げついたボールのようなハンバーグが丁度焼けた頃、博章が現れた。博章は両手にそれぞれ大きな黒いケースを抱えていた。その一つに見覚えがある。
結婚式の後、俊郎に頼まれてサックスを修理に出していたという。そういえばあの時、そんなことを言ったかもしれない。
食事の後、残った魚で博章と日本酒をちびちびやっていると、花江がそのサックスケースを目の前に持ってきた。
「お父さん、これヒロくんが修理に出してくれたわよ」
「ああそうか」  
「修理代は私たちからのプレゼントよ。結構しちゃったけど。でも安心してね、まがっちゃった首の部分は新しいのに替えて、本体はちょっとへこんだだけで音には影響ないって。良かったわね、お父さん」
「ああ」
「ああってなによ。嬉しくないの」
「嬉しいよ。ありがとうな」
「なによそれ、頼んどいて。ま、いいけどね……。そうだ、折角だから直ったこの自分のサックスであの曲、今やってみてよ」
「えっ」
「確か〈イパネマの娘〉って曲よね。あの時はじっくり聴けなかったし、お父さん、人のサックスだから上手くいかなかった、なんて言ってたじゃない。折角直したんだし聴かせてよ」
「ここでか? そんないいだろう。お前が思っているよりも音、大きいんだぞ」
「大丈夫よ、ね、お母さん……。お母さんももう一度聴きたいよね」
啓子はまゆを少し上げただけだった。  
「やるのか? いや、やめよう馬鹿らしい」
「あ、お父さん、もしかしてもう吹けないんじゃないの。忘れちゃったとか、歳のせいで」
「馬鹿にすんな、ちょっと待ってろ」 
一か月くらい前なのにもう何年も経ってしまったかのように感じる。久しぶりに持ったサックスは冷たく重かった。
「いいか見てろよ」
「ひゅー、ひゅー。伊藤俊郎さん、どうぞー」
〈ベフッ、べー、ベッベッ……〉
思った通りサックスは機嫌が悪い。
やっぱりやめよう、と言う俊郎の手を取り、花江は至極真剣な表情を見せた。
「お願いよ、お父さん。聴かせてよ」
花江のそんな顔は何年振りに見ただろう。
「わかったよ」
もう一度サックスを構えなおした。
すると花江が、一緒にお母さんも、と言った。
博章が持ってきていたもう一つの黒いケースを開いた。中にはアコースティックギターが入っていた。そのギターを取り出した博章はそのまま啓子に手渡した。
「はい、お母さんどうぞ」
どうぞってなんだ?
随分触ってないから、などと言いながらギターを受け取った啓子は、ジャラーンとコードを弾いてからチューニングを始めた。
ギター弾けるのか。
「お父さん驚いちゃってるわね、お母さんのギター。ヒロくんが玉川のおじいちゃんのところから持って来てくれたのよ」
てっきり博章のものだと思っていた。
「わたしだって、ギターくらい弾けますのよ」
啓子がこちらを向いて言った。
 
〈Tall and tan and young and lovely The girl from ipanema goes walking……And when she passes,each one she passes goes – ah〉
父のサックスから出てくるその音は、花江が想像していた通りぎごちなく、稚拙だった。父は、目を閉じながら赤い顔を膨らませ一心不乱に吹いている。母がその父を見ながらタイミングを合わせてコードを弾いていた。
花江は父のこんなにも一所懸命な姿を見たのは初めてだと思った。
正直父のことが好きではなかった。自分勝手な言動に反発して、口も利かなかった頃もある。
高校の頃、周りから少しは期待されていたテニス部を辞めた時に、父が一方的に自分を責めた態度はいまだに許せないと思っていた。母はこんな父をよくも三十年間も支えてきたものだと思う。
〈きっとお父さんは、歳をとってからみじめに後悔するのよ。その時じゃ遅いけどね〉
二人で父の悪口を言ったことも少なくない。
あ、また間違えた。もうひどい。聴くに堪えない。
それでもいつの間にか自分の頬に温かい一筋の流れが伝うのを感じた。そんな自分に驚き、指先で目頭をおさえつつ母を見た。
母は頭を前後に小さく振りながら、父に伴奏をつけている。その顔は泣いている様にも笑っている様にも見えた。今までに見たことのない母の顔だった。
この先どうなるかは分からない。それでも花江は、今日、両親の初めてと言ってよいほど息のあったところを見たと思った。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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