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編集長の恋13

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室田和也が俊郎より花江の結婚話を聞いてから四カ月が経った。
その間、うだる様な暑い夏があっという間に終わり、随分と台風の多かった九月も過ぎさった。
あと二週間で、その花江の結婚式になる。俊郎に、式でのカメラマンを志願していた。自分から言いだしたことだが、心が重い。
十月に入って最初の土曜の昼すぎ、室田は湘南、片瀬江の島駅に近い自宅の二階の部屋で、愛機のニコンを手に昔撮った写真を眺めていた。
「和也、ご飯食べちゃってよ」
母が珍しくドアをノックした。室田が出勤している時は勝手に入って掃除などしているようだが、部屋にいる時には寄ってこない。
「ああ、先にやってて」
ドアを開けた母が顔を出した。
「お父さん、我慢できなくてもう食べちゃったわよ。ほら早くして、片付かないから」
「わかったよ」
「じゃあ、食べたらお父さんの将棋の相手、ちょっとだけしてやって」
「はいはい」
「そういえば、伊藤さんのお嬢さんの結婚式が近いわよね」
「……ああ、二週間後」
「ところで伊藤さんのお嬢さんは何歳になるの?」
「二十二歳、来月二十三歳になる」
「あら、そんなに若いのね」
母は驚いた表情を見せたが、ドアを開けたまま下に降りていこうとしない。話し始めると止まらない方だ。なるべく花江の話はしないようにしていた。誰であれ、女性の話にはすぐに食いついてきてうるさい。
「まだやることがあるんだよ。食べたら片付けは自分でやるから」
ドアのところまで押しやるように促した。
「あんた最近、伊藤さんのところには、あまり行ってないようだけど、なにかあったの?」
「なにが」
母は何故か、フー、とわざとらしくため息をつきながら下に降りていった。
ノックをされて思わず裏返した写真を再び手に取る。二年前に、ずっと欲しかったニコンのデジタル一眼レフカメラ、D800を買い求めた時に撮った最初の写真だ。写真データはパソコンにぎっしり入っているが、これはと思ったものはやはりプリントしておきたかった。
室田のおにいさま、モデル代は高いわよ、と笑った花江が頬をピンクに染めて写っている。花江はこの時はまだ美容専門学校生。春先で、俊郎の家の咲いていない金木犀をバックに何ショットか撮った。
ベストショットを引き伸ばして額装し、俊郎に渡した。花江に直接渡すのは気恥ずかしかった。その時にじっくり自分の気持ちと向き合っていればよかった。
二週間後、その花江の結婚式で写真を撮る。
写真を机に並べ、目の前のD800を構える。すっかり手になじんで、身体の一部のように感じる。でも、もうこの時のような写真は撮れそうもない。
もうじき四十歳になる。これまで、結婚を考えた相手がいなかったわけではない。何人かの女性と付き合い、それぞれに思い出があったが、結局そういうことにはならなかった。その中でも一人忘れられない人がいた。
室田は、大学時代にカメラ同好会に所属していた。そこでは、学内でモデルを募集して撮影会を開いていた。そのモデルとして知り合った一学年下の女性、森下愛に夢中になった。当時の愛機のニコンのマニュアルで何枚撮ったかわからない。
一時はこの部屋中が彼女の写真で埋まった。彼女が卒業してからも交際は続き、それから二年経ったときに、親からお見合いを勧められていると聞いた。当時の室田は赤富士書房の前の大手出版社に勤めて三年目だった。
まだまだ仕事が面白かった。結婚はもう少し先のことだと思っていた。でも、本当にそうだったのだろうか。付き合って五年も経っていたのに、はっきりした答えを出さない室田に、彼女は心底失望したのではないのか。
〈お見合い、するのか?〉
〈……うん〉
〈そうか。もしかして、いい人だったら結婚を前提に付き合うのか〉
〈そうなると思う〉
〈……じゃあ、結婚式には、僕がカメラマンをやるかな〉
〈……馬鹿〉
彼女の頬が濡れた。その涙が、二人の終わりを告げていた。お前は本当にそれでいいのか? そういう自分の声を室田は聞こえないふりをした。
彼女の結婚式には呼ばれなかった。その時になって、失ってしまったものの重さに気づき、己の馬鹿さ加減を呪った。
それから十五年経っても、一つも成長していない自分を感じる。本当におれはこのままでいいのか? 森下愛の泣き顔に花江の笑顔が重なった。それでいいのか?
その時、机の上の携帯が鳴った。着信画面に伊藤花江とある。ドキッとした。あわてて取る。 
「室田さん、伊藤花江です。すみません、お休みのところ突然お電話して」
「いや、全然大丈夫よ。どうしたの?」
「あの、私の結婚のことは、父から聞いていますか?」
「ああ……もちろん伺ってますよ。二週間後だよね」
「はい」
言ってから、おめでとう、を言っていなかったことに気がついた。動転している。
「おめでとう……」
「あの、今日はあつかましいお願いなんですが」
言葉が被って祝いの言葉がしりすぼみになった。正直ほっとする。何となく、言い辛い。
「室田さんのご都合で構わないんですが、独身最後のモデルをやってみたいと思いまして」
「なんだ、オッケーですよ。むしろこちらからお願いしたいくらいだ」
携帯で天気予報を見て、早速明日の日曜日に決めた。場所は、いつもなら撮影スポットを探して車でいくのだが、結婚前の大事な身体を連れまわすわけにはいかないので、俊郎の家から歩いて行ける鹿沼公園にした。
この二年間、季節が変わるごとに撮影をしていたが、今年の夏は遠慮して撮影の依頼をしていなかった。花江から連絡がくるのは珍しい。待ち遠しいような、心が重いような複雑な心境だった。
 
鹿沼公園は淵野辺駅から二分くらいの所にある。十五分前に着いた。ここは春には桜が、梅雨時にはアジサイが見ごろだが、この時季は特にシャッターを切らせるものがない。白鳥池のあたりで撮ろうかなどと考えていると、花江が小走りにやってきた。
「お待たせしました」
「全然、まだ十分前だよ。張り切っているね」
「室田さんの方が」
からし色のニットや黒スカートにブラウンのブーツが秋らしい。いつもゴルフウェアばかり着ている自分も人のことは言えないが、着る物に無頓着な俊郎の娘とは思えないほど、センスがいい。
昨年の夏には小麦色に日焼けをしていたが、今年は結婚式を控えて、日光を避けたのか、肌が抜けるように白い。頬もつやつやと輝いている。
この四カ月、花江の結婚の話を聞いてからは、俊郎の家には行っていなかった。久しぶりに会った花江に、落ち着かない気持ちになる。室田は、今日は必ず言おうと思っていた祝いの言葉を口にした。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。まだ籍は入れていないんですが、そういうことになりました」
俺の顔は不自然じゃないだろうか。
「よかったね。幸せになってください」
「はい、わかりました。ふふ、なんかおかしい、室田さん」
そうだよな。おかしいよな。
すぐに白鳥池に移動して撮影に入る。自分も花江もいつもより言葉が少なめだ。ファインダー越しの花江は、天真爛漫な少女然としていたこれまでとは違う表情を見せた。女性として一皮むけた美しさを放っている。
結婚したら、こんな撮影もできなくなるだろう。その思いが一心にシャッターを切らせた。花江はそんな室田の気持ちを知ってか知らずか、最高の笑顔を向けてくる。室田は熱中した。
気がつくと待ち合わせから二時間近く経っていた。
「ごめん。つい休憩取るのも忘れていた。疲れたでしょう」
「大丈夫です。でもちょっぴりお腹がすいちゃいました」
カメラを外すと屈託がないいつもの花江の笑顔だった。今日は最後に家の金木犀をバックに撮ってほしいと言われた。俊郎の庭の金木犀もシーズンを迎えたらしい。その前にラーメンを食べてから行きたいと、普段の花江に戻っていた。
駅の方に少し戻って〈ライト軒〉という古びたラーメン屋に入る。花江は勝手知ったるかのように、二人掛けのテーブルに向かった。
「ここ、断然チャーシュー麺がお勧めです」
「じゃあ、ぼくもチャーシュー麺を」
カメラ越しでは大胆に迫れるが、ガタガタいう小さなテーブルに向かい合わせると気恥しい。花江は、ピッチャーからコップに水を注ぎながら、いかにここのチャーシューが旨いか、一所懸命に話をしてくれている。
間近に見るその表情は豊かで溌剌としており、結婚を控えると、こうまで女性はきれいになるのかと思わせる。室田は目を奪われ話は頭に入ってこなかった。話題はチャーシューのことだったが。
しばらくして本当に大きなチャーシューが六枚も乗ったチャーシュー麺が二つ運ばれてきた。
「この箸まだ使ってないですから」
花江はいきなり自分のチャーシューを三枚室田のチャーシューの上に重ねた。唖然として見ていると、私チャーシュー大好きなんですけど、いっぱいは食べられないんです、と照れたように笑う。
「おかげで、メガチャーシュー麺になったよ。すごいなこれ、麺が見えないね」
花江は慌てたそぶりで室田の顔を覗き込むようにして声を発した。
「ごめんなさい。またやっちゃった。最初にそれを言っておけば、室田さん、普通のラーメンを頼めたんですよね」
「いや、大丈夫よ。ぼくチャーシュー大好きだから。このぐらいぺろって食べちゃいますよ」
「前にヒロくんに、怒られたんです。考えなしだって」
ヒロくんか。幸せな男だな。
「ヒロくんは、怒るポイントがわからないんです。花江は後先考えないって、しょっちゅう怒られています。でも、さすが室田さんは心が広いなぁ」
ため息をつく様に言われてどきっとする。
「なんで?」
「ぼくがチャーシュー大好きだから大丈夫、なんて。あーあ、ヒロくんが室田さんみたいに大人だったらな」
「大人っていうか、歳を取っているだけだよ」
「そうじゃないんです。人間としての大きさが違うんです」
「そんなことないよ。ぼくはそのヒロくんを知らないけど、花江ちゃんが選んだんだから……絶対いい人だよ」
花江の父親の俊郎も自分で選んだのに食べられないなんてことはしょっちゅうだった。そんな時は、室田に、まだ若いんだからこれ食べなさい、などと押し付けてくる。この親子はやはり似ているな。
しばらく黙ってラーメンをすすっていた花江が、いたずらっぽく笑った。完全にいつもの花江に戻っている。
「私、本当は室田さんに憧れていたんです。知ってました?」
むせた。慌てて水を飲み、その水が気管支に入って大変なことになった。
「大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫」
変な声が出る。それにしても、憧れていたってなんだ?
「最初に写真を撮ってもらった時からずっとずーっと」
花江は遠くを見るような目をした。そうか、写真の出来がいいので、カメラの腕にということなのか。どうなんだ? 聞きたいような聞きたくないような複雑な心境だった。
「僕に憧れなんて……そんなことは、ないでしょう」
自分で口にして、やはりそれは無いと思う。あったとしても、大人への興味みたいなものだろう。
「本当ですよ。結構モーションかけてたんですけど、室田さん知らんぷりしてましたよね。子供は相手にしないんでしょうね。悔しいけど」
「またまた」
モーション? 嘘だろう?
室田の頭に花江を撮影に連れて行った時の事が次々と浮かんだ。
横浜の赤レンガ倉庫や鎌倉の長谷寺、あとはえーと、江の島の水族館にも行ったな。そういえば、しきりにこういう場所はデートで来たいって言っていたような。それって、モーションだったのか?
「初恋って叶わないものなんですね」
花江は大げさに頬づえをついて瞬きを多くして見せる。もしかして次は、デートで誘ってということだったのか? 本当か?
「大人を、からかうもんじゃないよ」
自分の声ではないようだった。花江との時間が、色々な場所が、頭の中をぐるぐる巡っていた。
「ほら、自分で大人って言った、室田さん」
コロコロ笑う。自分にはない物をすごく持っている。そこに惹かれたのか。
社内でも気難しい編集長で通っている俊郎と室田はなぜか馬が合った。自分勝手にしか見えない、また実際そうでもある俊郎だが、室田は少しも気にならない。
そのヒロくんとやらが、どんな男かはわからないが、俊郎の話や花江の話から推察するに、子供っぽい奴なのではないのか。内面が俊郎にそっくりな花江とうまくやれるのは自分をおいて他にいないのでは……。
ラーメンを食べ終えた花江が、あの、と改まった。
「式の日、十月二十日の水曜日ですが、もし室田さんのご都合が合えば、カメラマンをお願いできないでしょうか」
「……ああ、もちろんですよ。もう四か月も前からその日を空けてあります」
「うれしいです。ありがとうございます」
一気に現実に戻った。
結局なんとかチャーシューを全部平らげて、のびた麺は相当残した。

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