ラヴィアンローズ(薔薇色の人生) 8-⑵
*
日曜日の午前五時。
世界はまだ、しんと寝静まっている。
私は母の好きなラナンキュラスの花を、家じゅうにたっぷりと咲かせた。ちょっとしたサプライズだ。
リビング。ダイニングキッチン。母の寝室。ふわふわとしたやわらかな花がそこらじゅうに満ちて、家のなかが楽園になった。
疲れ切った母は、私が頬に触れてもぴくりともせずに眠っていた。
私のために人生のすべてを使ってきた母。どんな言葉を贈っても、あまりに陳腐で物足りない。
感謝のネックレスひとつ用意していない私に、ケチな子だねえと呆れて笑うだろうか。
いつか森へ来てくれたなら、私の木を探してほしい。どんなに苔に覆われていたとしても、母はきっと、私を見つけてくれるはずだ。赤いカーネーションを買いに来た少年に、私自身そういったではないか。
『忘れるはずはないよ。
きみのことはすぐに見つけられると思うよ』
どこにいても、私は母の子ども。
今度は私の木陰で母を休ませたい。
心地よい風が吹き抜ける、穏やかな場所を作るから。
ラナンキュラスに囲まれて眠る母は、すっかり小柄になって少女のように見えた。
「いってきます」
母に小さく声をかけ、玄関のドアをそっと閉める。
鍵をカチャリとかけた途端、私は崩れるようにしゃがみこみ、声を押し殺して泣いた。
*
今日は移動花屋の開店の日だ。
私はこの日のために用意しておいた中古のバンに、花屋として必要なものを積み込んだ。
バケツ。花たちのための水。花ばさみ。ブーケ用の包装紙やセロファン。リボン。などなど。
それから助手席にはモンステラの鉢植え。モンステラもいっしょに森へ行きたがるのだ。ちょっと皮肉屋だけれど、いい話し相手にはなってくれそうだ。
ここから知らない街を目指す。花を望む人に、私は会いに行く。
寒さが緩みはじめた季節は、はじめの一歩を踏み出すのにふさわしい。
冷えた群青色からほのかな紫色へと続く空では、明けの明星が道案内をする。
店の前に車を停めて、私はいつものように扉の鍵を開ける。バケツの水をかえて花たちの水切りを済ませ、ひと通り店のなかを見てまわる。彼らは私が去ることに気づいているようだった。
最後に私はここで、私の花を生んだ。
生まれたての花たちは、姿かたちは違っても、すべて白い花ばかりだった。
私にとっての薔薇色の人生は、朝の光のような真っ白なものなのかもしれない。
そこらじゅうにふりまいた花は、昇り始めた朝の光を反射してきらきらと輝いた。胸がつまるほどに、眩しかった。
私はこの花たちにユキオさんへの手紙を託す。
花よ、私の想いを伝えてほしい。
花は枯れてしまっても、跡形もなく消えてしまっても、心に咲き続けるのだと信じているから。
花が好きで花のために生きる性分は、あなたも私も同じ。血は争えないというでしょう。
あなたの鼻のかたちや、熱い飲み物に息を吹きかける時の唇の尖らせ方は、私とそっくりだ。
いつかきっと、鈍感でどうしようもないあなたが、生意気でどうしようもない私の木を見つけ出せますように。
どこにいて何をしていても、もう一度会えばわかると信じてる。
私の木の下で母と再会する時がきたら、少しだけ、仲を取り持ってあげてもいいと思ってる。
強情な母が、あなたを許すかどうかはわからないけれど。
ふたりが並んで私の木を見上げる姿を、思い浮かべる。そしていつかほんとうに、心の言葉で会話ができたら。
たくさんの花を咲かせて、ふたりを待っているからね。
床に置かれた花瓶の中で、桜の枝が蕾に力を溜めている。ふっくりとした春がくるのを待っているのだ。根を持たない桜の枝も、次の季節を迎える準備はできている。美しい春は、もうすぐだ。
私は植物たちにさよならを告げると、静かに店を後にした。
*
私は行けるところまで行く。
相棒のモンステラとともに。
何をして生きるのかを決めてしまえば私は強い。心に花を望む人のいるところならば、どこへでも行く。私はどんな花を生み、誰に花を手渡せるのだろう。想像するだけで心がバク宙する。まだ見ぬ誰かに会いに行きたくて、心が跳ね回るのだ。
そうして最後はモンステラと森に辿り着き、安らぎの場所で長く静かな時を過ごすのだ。千年でもいい。花を見上げて微笑んでくれる人がいる限り、私の時間は溶けたりしない。
坂の向こうから昇った太陽が、眩しく私の瞳を射る。
私がこの世に生まれた朝も、真っ白なはじまりの光がこんな風に世界を輝かせていたのだろう。
窓からの風が髪に絡んで、私から咲いた花がひとつこぼれた。
さあどこへ行こう。
誰に会おう。
楽しくてうれしい。
知らぬ間に頬を伝う涙を、乱暴にぬぐう。
それを振り払うように、カーラジオから流れる音楽に合わせて、私は大きめの声で歌いながら
車を南へ走らせた。
終
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✳︎
紙媒体の本を創りたい。という目標があります。
