トートバッグいっぱいの呪いを。5.
みんなが学校へ行っている時間、僕は自転車に乗って川を見に行った。
草の上に腰を下ろし、風に吹かれる。
鳥の歌と遠い歓声。
川はこの街の王者みたいに悠々と流れてゆく。
川に石を投げ入れると、一瞬だけ水面に穴があいた。だがその傷口はすぐにふさがって、なかったことになった。なんとかしてねばつく水面をかき乱そうと、僕は石を投げ続けた。石の攻撃など川にとっては些細なことだった。僕がすることなどとるにたらないことなのだと思い知らされただけだった。
「ねえ。そこで何してるの」
手当たり次第に石を投げていると、遠くから誰かが声をかけてきた。
ぎょっとして声の方を振り向くと、クラスメイトの半井(なからい)さんがいた。
制服を着た半井さんは、さくさくと青草をかき分けてこちらへやってきた。
逃げも隠れもできない僕は、手の中の石をぎゅっと握りしめて半井さんの到着を待った。
半井さんは教室で見かける時と同じく低めのテンションで気だるそうに言った。
「早退ついでにあんたんちに届けるものがあって、今行ってきたんだけど。前期のプリントとかテストの答案用紙とか」
「そう」
「フツー、ありがとうとか言うんじゃない?」
「ああ、ありがとう」
半井さんはあきれた顔をしたけれど、僕が学校に行かなくなったことについては何もいわなかった。
「あんたんちにいる、あの女の人、誰」
「ママのこと?」
「違う。もっと若い女」
「若い女?」
「あんたのお母さんにプリントを渡そうと思ったのに、部屋の暗いところに立ってこっちを見てるだけで玄関に来ようとしないの。そのうちに奥に引っ込んじゃって。そしたら代わりに若い女が出てきた」
「そんな人いないよ。怖いな。半井さん幻覚でも見たんじゃないの」
半井さんはしばらくの間、僕の顔をじっと見つめてきた。半井さんの深い緑色がかった瞳は、僕の体を突き抜けて心の奥底まで見通してしまいそうだった。
僕は気まずくなって、川の向こう岸を眺めるふりをして目を逸らした。
「あのさあ、ママって呼ぶのやめなよ。せめて人前では。クラスの奴らにマザコンって言われてたの知らなかったの?」
僕が黙っていると、半井さんは風に乱された長い髪を押さえつけながら、もと来た方へ歩いていった。それから振り返っていった。
「あんまり川に近づきすぎないほうがいいよ。
あんたに水は鬼門だから」
冷たい風が川を渡ってきて、のんきだった雲は厚みを増して灰色になった。
雨が降りそうだ。
僕は自転車を起こして帰ることにした。
半井さんが言った若い女の人って誰だ。親戚や知り合いの中に、うちにやって来そうな若い女の人がいるかどうか思い出そうとした。
当てはまりそうな従姉妹は遠くに住んでいるし、そもそも何年もつきあいがない。だいいち、
住んでいる僕が来客を知らないなんて、おかしな話ではないか。ママも誰かが来ているとは言っていなかった。
遠くで雷が鳴った。
ペダルを漕ぐスピードが速くなる。背後から追いかけてくる雨雲を振り切って、僕は自転車を鞭打つように走らせた。
全速力で自転車を漕いだおかげで、雨に遭わずにすんだ。
へろへろになりながら玄関を開けると、銀色の花のついたサンダルが目に入った。ママのものではない。
誰かいる。
半井さんの言った通りだ。
そっとリビングを覗きに行くと、ソファの背もたれの上に、まっ茶色のショートボブの後頭部が見えた。
その女の人は手にしたプリントを鼻歌まじりに読んでいた。たぶん半井さんが持ってきてくれたものだろう。
その人が急に大きく伸びをして立ち上がったので、僕は慌ててサイドボードの陰に隠れた。
女の人はキッチンへ入り、慣れた手つきで冷蔵庫の扉を開けた。そしてアイスコーヒーのパックを取り出すと、食器棚の真ん中の段にある客用のグラスに注いで、ごくごく飲んだ。僕だってめったに使ったことのないグラスだ。
竹馬みたいに細長い脚で、退屈そうにリビングの中を歩き回っている。壁掛け時計を見つめる大きな丸い瞳には見覚えがなかった。
この人は一体誰なんだ。
この家に対して、ずいぶんと馴れ馴れしい感じがした。アイスコーヒーが冷蔵庫のドアポケットにあることや、食器棚のグラスの場所をよく知っている。
女の人がトイレに行った隙に、僕は忍び足で階段を昇り、自分の部屋へ駆け込んだ。
「おかえり」
ママは相変わらず僕の部屋で帰りを待っていた。
「1階にいるあの人誰なの」
「まだいるんだ」
「ママはあの人のこと知ってるの?あの人なんだか嫌だな。人の家の冷蔵庫を勝手に開けたりしてさ」
ママは窓辺によってカーテンの隙間から外の街を眺めた。そうして長い間黙って立っていた。
「あの女の人はパパの知り合い。パパの彼女なのかも」
「何それ、どういうことだよ。パパにはママがいるじゃないか。言ってる意味がわからない」
ママは困ったような悲しいような顔で小さく笑った。
僕のベッドに体育座りしたママは、抱えた膝の間に顔を埋めて泣いているみたいだった。
ママは少しの間そうしていたけれど、気を取り直したようにトートバッグを持って立ち上がると
「ちょっと鶴撒いてくる」
と、部屋から出ていった。
ママの濡れた髪から水が垂れて、カーペットをボツボツ濡らした。
ママの言ったことは本当なのだろうか。僕とママが2階にいるのに、パパの彼女かもしれない女の人が1階で寛いでいるのは、異常事態だ。どう考えても普通の神経じゃない。
僕は自分のことで頭がいっぱいで、家の中で起きていることに気づいていなかった。ママは明るく振る舞っていたけれど、本当は悩んで悲しんで傷ついていたのだろうか。
ママを泣かせる人を僕は許したくない。
パパは何をしているのだろう。
最近はすれ違ってばかりで、パパとはまったく顔を合わせていなかった。僕が学校へいかなくなったことも、パパは知らないのかもしれない。パパは僕やママのことなど、どうでもいいのだろうか。パパは僕たちのものだったはずなのに。
パパ、どこにいるの。
日が暮れた頃、玄関のドアが閉まる音がした。どうやら例の女の人は帰ったらしい。
家の中がしんとしている。ママもまだ戻らない。パパの帰りは今夜も遅くなるだろう。
♢
僕はパパが大好きだった。
小さかった僕を背の高いパパが肩車してくれると、僕は山のてっぺんで深呼吸している気分に
なったものだった。
「カイはパパよりも高いところから見物してるんだぞ。何が見える?」
僕はパパの頭にしがみつきながら、遠くに目を凝らした。
「知らない建物のてっぺんに、地球儀みたいな丸いものがあるよ」
「なんだそれは」
僕のゆびが指し示す方をじっと見つめていたパパは、なるほどと言った。
「たぶん給水塔だな。あの辺のビルは古いから屋上に給水塔があるんだね。地球儀みたいって、たとえがいいな」
僕のあごの下からパパの鼻唄が聞こえてきた。それはとても珍しいことだった。
浮かれた太陽が輝く午後、僕たちの横を風がすうっと通り抜けていった。
パパの肩に乗った僕は無敵で、怖いものなど何もなかった。
変な色のTシャツを着てぼりぼり背中を掻いていても、僕のパパは世界で1番の男なんだと信じていた。
出張で1週間帰らないから、その間ママのことを頼むな、と言って僕の肩に置いたパパの手の大きさ。
パパから頼りにされていることが嬉しくて、僕はママを本気で守る、と誓ったのだった。
パパはとにかくいつも仕事をしている人だった。出張で家を空けることが多かったし、たまの休みに家にいても、職場からの電話がしょっちゅうかかってきていた。
珍しく夕食に間に合うように帰ってきても、仕事の続きをするためにすぐに書斎に引っ込んでしまう。
パパの仕事の邪魔をしないように、僕とママはなるべく物音を立てないように静かに遊ぶ方法を考えだした。ジェスチャーゲームでその日の出来事を報告し合っては、声を殺して笑った。
姿は見えなくてもたしかにパパがこの家の中にいて、僕たちのそばにいるのだと思うと安心できた。
パパとママと僕。3人揃う夜はほとんど奇跡だった。
スイミングを習いに行ってみないか、と誘ったのもパパだった。
「たとえば今、リビングの床の上でカイがジャンプする。はい、飛んでみて」
パパに促されて僕はぴょんぴょん飛び跳ねた。
「体の重さを感じるだろう」
僕はうんうん頷く。
「でも水の中なら体がぷかりと浮かぶんだ。手足の力を抜いてぼんやり水に浮かんでいると、人間って葉っぱみたいなものなんだなって思うよ。すごく自由な感じ。人間は何ものにも縛られずに、もっと自由でいるべきなんだ」
パパの話はいつだって意味深で、僕にはそのすべてをきちんと理解することはできなかった。
けれども実際泳げるようになると、パパの言葉の意味が少しはわかる気がした。
僕は葉っぱ。水の流れに乗る僕は、葉っぱのように自由だった。
パパの言うことはいつでも真実だった。
パパは誰よりもかっこよくて物知りで、パパのようになりたいと僕は思っていた。
♢
次の日。やっぱりパパはいなかった。
ひと気のないリビングの空気は、少し埃っぽい匂いがした。
女の人が使ったグラスが、流しの中にそのまま残っていた。
半井さんが持ってきてくれたプリントやテストの答案用紙を手に取ってみる。今となっては僕には用のないものばかりだ。
今日の予定表のなかの『プール』の文字だけが、なぜだか僕を落ち着かない気持ちにさせた。
僕は4歳からスイミングスクールに通っていたから、水泳は得意だ。それなのにプールのことを思うだけで胸がざわざわする。
水は鬼門。
半井さんが僕に投げかけた言葉が頭をよぎった。
(6.へ続く)↓
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✳︎
紙媒体の本を創りたい。という目標があります。
