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悲劇は何の為にあるのか?〜強い共同体とカタルシス

昨日、SPACの『王女メデイア』を観劇した。
ギリシア悲劇の最高峰を、明治時代の日本へと変換させた宮城聰さんの演出。言葉と身体を分離させる独自の表現と、舞台上の権力構造を鮮やかに転覆させる空間の仕掛けに圧倒される、非常にスリリングな体験だった。
さて、この物語も「悲劇」である以上、凄惨な復讐劇の果てに多くの人間が命を落とし、破滅していく。
悲劇の最たるものと言えば、『オイディプス王』だろう。実の父を殺し、母を妻にするという恐ろしい神託から逃れようとした男が、皮肉にもその運命をすべて実現してしまう物語だ。そこには、一切の救いがない。
ではなぜ、人々は古来より、あえてそのような「悲劇」を観るのだろうか?


■ 悲劇=シャーデンフロイデという仮説

当初、私は人々が悲劇を楽しむ理由は「シャーデンフロイデ(Schadenfreude)」にあるのではないかと思っていた。
シャーデンフロイデとは、他人の不幸や失敗を見聞きした際に生じる喜びや快感のことだ。「他人の不幸は蜜の味」というやつである。妬みや自己高揚の心理が背景にあり、特に嫉妬や羨望の対象となるような「上の立場の人間」が下に落ちていく様を見ることに、人間は快感を覚える。ワイドショーで著名人の不祥事が消費されるあの心理だ。
かつての王や英雄といった絶対的な強者が、運命に翻弄されて地に落ちていく。その姿を安全圏から見下ろすことで生じる暗い快感こそが、人々を楽しませてきたのだと解釈していた。
しかし、劇場の「空間構造」から歴史を捉え直してみると、どうもそれだけではないことに気づく。


■ 巨大な「包囲型空間」がもたらす生の再確認

古代ギリシアの円形劇場が持っていた、あの圧倒的な一体感。エピダウロス劇場のように数万人を収容する巨大なすり鉢状の「包囲型」空間で、市民たちは果たしてワイドショー的な俗っぽい快楽だけを求めていたのだろうか?
答えは否だ。そこには、もっと壮大で切実な目的があったはずだ。 それこそが、「共同体としての生の再確認と連帯」である。
圧倒的な不条理や、どうしようもない運命に抗う人間の姿。たとえ最後は破滅するとしても、その極限の姿を何万人という群衆で共に目撃する。「自分たちはまだ生きている」「この過酷な世界を共に生き抜こう」。悲劇とは、そんな強烈な連帯感や生へのエネルギーを逆説的に再確認するための、国家規模の儀式として機能していたのだ。
昨日の観劇は、思ったよりも寒くなく天候に恵まれていたが、ふと考えた。もしこれが吹き荒れる雨風の中での野外劇だったとしたら、どうだろうか。 過酷な環境下で悲劇を共に目撃した観客の間には、悲しく切ない感情と同時に、同じ場所を共有した者同士の強烈な「一体感」が生まれるはずだ。現代でさえ、その片鱗は確かに息づいている。
人間は、辛い体験を共にした仲間に対して強い連帯感を抱く。その過酷な体験を劇場という器の中で疑似体験させることが、古代ギリシア悲劇の最大の意味だったのではないだろうか。
そして、この魂を揺さぶるような一体感を生み出すためには、対象を客観視して笑う「喜劇」ではダメだったのだ。古代のすり鉢状の劇場で悲劇が上演され続けた理由が、ここに見えてくる。当時のギリシアの繁栄と共同体の強靭さが長く保たれた背景には、この演劇空間を通じた精神的な結束があったに違いない。


■ 芸術によるカタルシス

世界に平和が長く続かない要因の一つには、人間の「飽き」や「刺激への渇望」、あるいは「残酷な出来事を見たい」という生来の暗い欲望があるのかもしれない。
もし芸術が、そうした人間の邪な感情を満たし、安全に昇華させてくれるのであれば、悲劇の存在意義は計り知れない。「パンとサーカス」によって直接的で血生臭い娯楽を蔓延させた古代ローマよりも、悲劇という高度なフィクションを上演していた古代ギリシアの方が豊かであったとすれば、それは人間の持つ破壊的な感情を、芸術がうまく制御(コントロール)していたからではないか。
悲劇が求められるもう一つの理由として、アリストテレスが『詩学』で唱えた「カタルシス(感情の浄化)」がある。
観客は舞台上の悲惨な運命に対して「あわれみ」と「恐れ」を抱く。現実世界では避けるべきこれらの極限の感情を、劇場で疑似体験して一気に放出することで、心の中に澱(おり)のように溜まっていた日常の不安やストレスが洗い流され、精神が浄化されるという考え方だ。これは、亡霊の無念を語り直すことで生者の心をも浄化していく、世阿弥の「夢幻能」の構造にも深く通じている。
生のエネルギーを再確認し、暗い欲望を浄化し、共同体を繋ぎ止める。 そう考えると、空間を立ち上げ、芸術に携わる人間こそが、世界に平和をもたらすための一番有効な手段を持っているのかもしれない。

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