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「私は人に趣味の話はしない」 | 僕とカメラ | note


誰もが無趣味だと思っていた知人が、実はスポーツバイクを乗り回す趣味人だということが判明した。僕たちは彼がバイクの免許を持っていることすら知らなかったのだ。

「趣味の話は人にしないんです。わざわざ知られなくないっていうか…。」と彼は言った。


人に言えない趣味というのは確かにあるだろうと思う。
おじさんが少女漫画にハマっていたり、女子高生が将棋にハマっていたら、笑われるのが怖くて人に言えないこともあるかもしれない。

でもそういう事情なしに、「趣味を人に開示することに意味を感じない」「趣味を分かち合うことに面白さを感じない」感覚の人がいることを知った。

この感覚は正直僕にはないものだったので興味深かったのだ。
趣味を開示しないことで、彼は何を守っているのだろうか?あるいは、それは彼に何をもたらすのだろうか?少し考えてみたい。


2,100字です。







公共から引き離す


ドイツの哲学者 ハンナ・アーレントは人間の活動を「労働・仕事・活動」と3つに分けた。その中で「活動(Action)」は公共の場で他者と交わりながら行うものだ。

趣味を語ることも本来なら「公共の場に自分を差し出す」行為だろう。SNSで趣味を発信する人が多いのもそのためだ。例えば僕が「趣味はカメラです」とSNSで開示する。それは僕の属性を公共の場に差し出すことになる。

それによって僕の趣味性は変容するかもしれない。
人のカメラを見て「あのカメラの方がいいな」と思うかもしれないし、「自分の写真って意外と下手なんだな…」と思い、作風を変えるかもしれない。

そのことそのものが良いとか悪いとかではなく、「変容」してしまう可能性が生じていることは否定できない。



知人はそれを避ける。つまり趣味を公共から隔離し、「誰にも触れられない私的な領域」に置いている。これは何というか一つの在り方かもしれないなと思った。

それは防御である。
他者に消費されたくない、評価されたくない。趣味を「商品」や「肩書き」にされるのを拒否しているのだ。




バックステージを守る


カナダの社会学者 ゴッフマンは、人の社会的ふるまいを「演劇」に例えた。人は人前で役を演じる=フロントステージがある一方で、観客がいない場所=バックステージでは素の自分でいられる。

僕たちは上司の前では部下の顔をしており、親の前では子供の顔をしていて、妻の前では夫の顔をしている。無数の顔を使い分けて生きている。そ雨いった意味において「本当の自分」というものは存在しない。

この文脈において、一人でいるとき=バックステージにいるときはかなりニュートラルに近いの言えるだろう。


知人が趣味をあえて言わないのは、趣味を“バックステージ”に留めたいからだ。趣味を人に話せば、それはフロントステージに引っ張り出される。
質問されたり、興味を持たれたり、時には揶揄されたりするかもしれない。

知人はそれを望まない。趣味を守ることは彼にとって「演じないで済む空間」を確保することなのだ。



沈黙の価値


オーストリアの哲学者 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最後にこう書いた。
「語りえぬものについては沈黙しなければならない。」

趣味の魅力について語るのは難しい。自分の思った通りに言葉を尽くして語ったとしても、自分にとっての魅力は指の間をすり抜けてしまう。カメラについての面白さを語り尽くしたとき僕は思うのだ。「本当はそれが全てじゃないんだけどな」と。

写真、音楽、手仕事…それをやっている時間の楽しさや没頭感は、説明した瞬間に嘘っぽくなる。実際には嘘をついているわけではない。ただ、正確ではないだけだ。あるいは、精密に語り尽くすことが厳密には不可能であるだけなのだ。

だから言葉にせず、自分だけの沈黙の中で守る方が本質に近い。

知人が「言いたくない」と言ったとき、知人は自分の趣味の純粋性を守ることができたのかもしれない。





趣味を語らない自由


SNSが世界を覆い尽くした現代において、「趣味はシェアしてこそ価値がある」と発想するのは自然なことかもしれない。noteにおいても僕たちはインフルエンサーの構文をふんだんに使いながら、それらしく、人気が出るように、読んでもらえるように自分の趣味を"加工しながら"語っている。


このような現代において、「あえて語らない」という選択は逆にラディカルだ。

それは閉じた自己満足ではなく、「趣味を公共の演劇に巻き込まない」という自由でもある。他者によって簡単に自分の趣味を変容させられる現代の中で、知人は「沈黙」という手段を用いることでそれに対抗しているのだ。



見ての通り、僕は趣味を語る人間だ。
カメラに関する記事は400を超え、語りすぎているのかもしれない。僕は楽しいし、記事を楽しんでくれている方もいらっしゃるみたいだ。ありがたい限りだ。僕は自身の行動を否定しない。

一方で趣味を語らない人も否定しない。語らない人には語らない哲学があるかもしれないと思うからだ。

そんな人たちを見たときに僕は自分の「語り」を省みる。自分の趣味性が、SNSの空間によって必要以上に変容してはいないか?と。





今日はここまで。






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