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「エモい」とはどういうことなのか?


エモい写真が撮りたい



Xは相変わらず最低な場所だけれど、写真を見るには結構いい環境だと思っている。次から次へと綺麗な写真が流れてきてブックマークをする手が止まらない。


とにかく写真がエモい。エモすぎる。

情動に訴えかけてくる感じ。


懐かしさと儚さ、みたいな。こんな写真撮れたらいいよなぁ!と素直に羨ましくなってしまう。エモい写真が撮りたい。



ところで、「エモい」ってどういうことなのだろう。

エモい写真を撮るためには「エモい」がなんなのか理解している必要がある。でもエモいって悲しいのか、切ないのか、明確に説明できる人ってあまりいないのではないか。


それなのに、僕たちはエモを求めたり、感じ取ったりすることができる。エモの正体がわからないままに、意味に関する漠然とした了解が僕たちの間に横たわっていて、お互いに「通じる」不思議がある。


今回は哲学者の言葉とエヴァンゲリオンを往復しながら、「エモい」とはどういうことなのかについて検討したい。



「エモい」は情動のタグ


「エモい」という言葉は、「emotional(感情的な)」を語源としながら、日本独自の進化を遂げたスラングだ。

悲しみや喜びのような分かりやすい感情ではなく、もっと曖昧で、混ざり合った情動の揺れ…。

僕たちはそれを「エモい」と呼んでいる。


この語がここまで広がるに至った魅力の秘密はその曖昧さにある。


哲学者のモーリス・メルロ=ポンティは、「身体は世界を感じ取る場である」と語った。つまり、言葉で説明できない感覚や印象は、身体を通じて知覚される。それが「エモい」の正体だ。


「なんか上手くいえないけどエモい」のではない。
「エモいというのは上手く言えないもの」なのだ。

「エモい」は身体性がなければ感じることができない。
ゆえにAIには「エモさ」はわからない。



「エモい」は美しいと怖いの間にある


「エモい」は言葉になる前の感情をそっと差し出すための曖昧な器だ。

そしてそれは、写真にもしばしば現れる。
シャッターを切った理由を説明できなくても、「なんか良い」と感じることは確かにある。夕焼けの美しさが感情が言葉を悠々と通り越していくみたいに。




さて、このエモいの正体を解剖していくために、カントが『判断力批判』において提唱した「崇高」の概念について説明させてほしい。


「崇高(Sublime)」とは、人間の感性が処理しきれないような圧倒的な事物に直面したときに生じる情動である。


たとえば、荒れ狂う嵐の海、星々が果てしなく広がる夜空、切り立つ崖の断崖絶壁。これらは美しいというよりも、どこか畏怖を伴いながらも、人間の理性がそれを「なんとか理解できる/理解したい」と感じたときに、崇高として体験される。

燃えるような素晴らしい夕焼けを見たときに「うわ、理解しがたい!想像を超えてる!怖すぎ!」と思う。そしてその怖いという感情のカウンターとして沸々と僕たちの心に「でもこれも現実的にはあり得るから怖くない!」という反発が発生する。怖いからこそそれを乗り越えようとする気持ちが本能的に立ち上がるのだ。このときの情動を「崇高」という。


「怖い」と「理性的な優越感」が交錯する複雑な感情が、崇高なのだ。


この「崇高」の感覚は、「エモい」と呼ばれる情動と構造的に共通する部分を持っている。「エモい」は、ただの美しさではない。


切なさ、孤独、懐かしさ、不安、期待——そうした感情が複雑に絡み合いながら、どれにも分類されず、ただ“感じられる”情動として立ち上がる。


その体験にはしばしば、言葉にならないほどの深さと曖昧さが含まれている。

つまり、「エモい」とは、日常の中に潜む小さな「崇高」の感触であるとも言える。カントが語ったような自然の偉大さではなく、むしろ個人的で私的な体験—たとえば、夕暮れの帰り道や、ふと耳にした懐かしい曲の一節—そうした場面においても、人は自らの感性を超える情動に出会う。それを我々は、「エモい」と呼んでいるのかもしれない。


「エモい」の正体がわかってきたところで、僕たちがその「エモ」とどのように使っているかについて考えたい。



エヴァンゲリオン的情動の消費


1995年、エヴァンゲリオンが登場したとき、アニメは変わった。
明快な勧善懲悪やスカッとする展開よりも、「苦しむ主人公」「孤独な登場人物たちの感情の揺れ」が物語の中心となったのだ。

それは視聴者にとって、「ストーリーを理解する」よりも「感情を味わう」という新しい体験だった。


シンジの苦しみ、アスカのトラウマ、綾波レイの無表情。それらの「わかりづらい感情」がファンの間で共感や分析の対象となり、記号として消費される。

つまりストーリーそのものよりも、「感情の機微」を味わうゲームが始まったのだ。これが「エモ(感情)の快楽を味わう消費行動」として説明することができる。(東浩紀「動物化するポストモダン」によるデータベース消費)




これらを理解した上でエモい写真について考えてみる。

エモい写真には「風鈴」「入道雲」「コーヒー」「ビニール傘」などの記号が散りばめられている。その記号と写真の色調(フィルムライクやカラーグレーディング)の掛け算は「これはエモい写真ですよ」というお知らせを見ている側に伝えてくる。

それに応答して僕たちは写真の記号を読み取り、「エモい」ものとして受け取り、消費する。つまり「エモい」とは見せる側と見る側の双方がそれを「エモい」と認識しなければ成立しないのだ。


そういう意味で「エモい」は作れる。
もしかしたら「綺麗な写真」を撮るよりカンタンかもしれない。



結論「エモい写真を撮る方法」


では、エモい写真を撮るために必要なのは何か。


それは技術でも高価な機材でもなく、
「感情をすくい取るまなざし」なのかもしれない。


日常の中に潜む小さな「崇高」を見つけること。誰もが見逃してしまうような光や影の揺れ、何気ない仕草、季節の匂いを、身体ごと受け止めること。

帰り道に生えていたススキに夕日の光が衝突しているのを見て「うわぁ…すげぇ」と思うことがある。その時に僕は嬉しい気持ちになる。小さくて大きい感動を見つけた喜びだ。


素晴らしい写真を撮るためには海外に行ったり、遠くまで出かける必要があると思う人もいるかもしれないけど、少なくとも「崇高」は目を凝らせばどこにでもある。なぜなら世界は、人間を圧倒的に超えているからだ。



エモい写真は、被写体に宿る物語と、撮影者の感情が交差した一瞬に立ち上がる。だからこそそれは演出できると同時に、偶然にしか訪れない。


それこそが「エモい」という情動の核なのだ。


そして僕たちは、今日もシャッターを切る。
いつか、自分だけのエモに出会うために。



今日はここまで。


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