カメラ趣味って何の役に立つの?
仕事から家に帰ってくると急激に疲労が襲ってきて膝から崩れ落ちそうになる。定時きっかりで帰ってきているにも関わらず、だ。
あるいは休日になると一気に体調が悪くなったりする。
調べてみると仕事中に気を張りすぎらしい。えっ仕事ってプライベートとメリハリをつけて頑張るものじゃないの?などと思ったが、何事にも加減というものがあるみたいだ。たしかに僕は始業した瞬間からアクセルをベタ踏みしている。

そう、僕はプライベートは仕事のことを考えずに楽しみたいのだ。
カメラに手を伸ばして、次のフォトウォーク先を計画しよう。仮にカメラ趣味がなんの役に立たなかったとしても。
それがなんの役に立つんですか?
「趣味の写真ってわかんないんですよね。写真を撮ってそれをSNSにアップして…それでなんなんスか?ゴールはどこなんですか?」
と職場の後輩に言われて、うまく返せなかったことがある。
言い返せなかったのはある意味でおっしゃる通りだったからだ。
僕の写真は一体なんの役に立っているのだろう?
イギリスの物理学者マイケル・ファデラーが電気モーターの原理を発見したときに、当時の財務大臣グラッドストンに「それがなんの役に立つんですか?」と尋ねられた。
ファデラーはそれに対してこう返したそうだ。
「生まれたばかりの赤子が何かの役に立つでしょうか?」と。

たぶん役は立っていない(それでいい)
僕は写真をコンテストに出すために撮っているのではないし、それで生計を立てているわけでもない。バズってもいない。
僕の写真を見て「このカメラだとこういう写真が撮れるのかぁ」と参考にしている人も中にはいるかもしれないから、その瞬間くらいはちょっぴり役に立ってるかも?
でもそういった例外を除けば世の中の役には立っていないと思う。
一方で僕は仕事では役に立っていると思うようにしている。(と言っておかないとマズいのでそういうことにしておく)
「人間のやることなんて欺瞞だから、およそ人の活動なんて無価値だ」というニヒリズムはこの世にあるけれど、とはいえ働いた成果に対してお金を払っている人がいるのは事実なので、誰かの役には立っているはずだ。
哲学者マルクスは「人は自分の労働が他者の欲望を満たすときに、価値が生まれる」と説いていて、つまりは「価値」とは他者から与えられるものなのだ。

仕事をするときの価値観をプライベートに持ち込まないように僕は気をつけている。
妻が今日あったことを喋っている時に「話長そうだけど、それって結論はなんなの?」と言ったり、友人の愚痴に対して「それって解決策としてAとBとCと3パターンしかないんだからその妥当性を検討すれば済むんじゃないの?なんでだらだら話すの?」と言ったりしていたら関係性が破綻してしまう。
それはたとえば、経済合理性を突き詰めれば今すぐ死ぬとそこから無料なので一番お得」という言説と同じで、度が過ぎるとナンセンスに陥ってしまう。
世界も人生も合理性だけで構成されているわけではない。

「無駄なこと」が自分をつくる
自分の写真を見て、それが自分にとってどうか。
それは当然他人にはわからない。
カメラを構えて写真を撮って、その写真を楽しむこと。
この趣味には他者が介在しない。このときに「自分との対話」が駆動する。
この趣味の一連の動作に他者を介在させないことを僕は多少意識していて、例えばカメラ選びを人に相談しすぎたり、撮った写真の評価を他者に委ねない。まずは。

自分が撮った写真を見て、なぜ自分がそれを撮ったのかについて考えること。それは例えば写真集を作ったときに朧げに立ち上がってきたりする。
写真集の中でも述べているけれど、僕は植物の写真を月に1000枚くらい撮るのだけれど、どうやら植物が好きなわけではない。(笑)
自分が役に立つか立たないか、という評価軸ももちろん必要な場面はあるだろうけれど、同時になんの役にたたないことを面白がってやってみたい。
役に立つか立たないかではなく、自分が面白いかどうかで始めた趣味が、自分の中に実存価値を生み出すのだ。

今日はここまで。
