カメラを持っているのにカメラが欲しくなってしまう理由とは?
なぜカメラを持っているのにカメラが欲しくなるのか?
側から見ればこんなに信じられないことはないだろう。特にカメラ好きの旦那と結婚した奥さんなんかひっきりなしにカメラとレンズを買ったり売ったりしている旦那を冷ややかな目で見て「全部同じじゃん…」と呟いていることだろう。

カメラを持っているのにネットで新製品を調べてしまう。
今持っているカメラもロクに使いこなせていないのに、自分のカメラより性能の良いカメラのレビュー動画をチェックしてしまう。
お金もないのにマップカメラの中古ページを散策して、「お、これいいじゃん」などと言いながら状態を確認してしまう。
…なぜ僕たちはカメラを持っているにも関わらずカメラが欲しいのか?これは<カメラ>を<スニーカー>に置き換えても良いし、<バッグ>でも良いし、<ラジコン>でも良い。つまり「つい買ってしまう」人には誰しも当てはまる大きな問題といえるのではないだろうか。
今回はフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの消費社会論を参照しながら、なぜ僕たちが既に持っているはずなのに新たにモノが欲しくなるのかについて紐解いてみる。

記号化するカメラ
カメラは本来<写真を撮る>という機能を持つ道具だけれど、
僕たちが真に欲しいのは<写真を撮る>道具ではない。
なぜならカメラ機能はスマホに入っているわけだから。
つまり誰しもカメラは持っている。
カメラがあるのに新しいカメラが欲しくなってしまうのは、カメラにカメラ以上の価値を見出しているからだ。ではその価値とは何なのか。
「もっと高性能なカメラならもっと綺麗な写真が撮れるはずだ」
「あのスタイリッシュなカメラを持てば自分も素敵な人間になれる気がする」
「とにかく、あのカメラを所有している自分になりたい」
こういった欲望はもはやカメラそのものや、カメラが持っている機能に対する欲望ではなくて、カメラを取り巻く<記号>に対する欲望だと評価することができそうだ。

例えばクラシックなカメラが持つ凛々しさだったり、Nikonのカメラが持つ無骨さだったり、FUJIFILMのカメラが持つ優雅さだったり。
僕たちが手に入れたいのは本当に道具なのか?
ただ、今ここにないライフスタイルを欲望しているだけなのではないのか?

新しい差異のゆくえ
なぜ新しいカメラが欲しくなってしまうのか。
僕たちの欲望はなぜ一つ目のカメラを手に入れた時点で完了しないのか。
ボードリヤールによれば消費が消費を加速させるメカニズムは2つの概念によって説明できる。
消費社会において人々はモノを所有することで他者との「差異」を生み出そうとする。
僕たちは新しいカメラを手に入れることで、「最新の技術を手に入れているワタシ」「他人とは違うこだわりを持っているワタシ」といった他者との差異を得ることができる。

しかし、せっかく新しいカメラを手に入れたとしてもその新しさはすぐに古びてしまうし、他者が新しいモノを手に入れると、その差異は埋められてしまう。
すると僕たちは再び新しい差異を求めて次の消費へと駆り立てられることになる。
カメラ市場においては次から次へと新しいモデルが発表され、画素数・AF性能・動画性能など、わずかな違いが強調される。
これらの違いは一般的にはどれも同じで瑣末なものに過ぎないのだけれど、僕たちはこれらの差異を見ながら「より良いもの」「より新しいもの」という差異を求めて買い替えを検討する。
この際の無限のサイクルが消費を加速させる大きな要因となる。

ハイパーリアルへようこそ
カメラ広告のビジュアルや、YouTuberが喧伝するカメラの良さ、レビュー記事が語るカメラは、現実のカメラの性能以上にそのカメラの「理想の体験」や「完璧なイメージ」を提示してくる。
これをボードリヤールは現実よりも現実らしい「ハイパーリアル」が現実を支配していると述べた。
例えば「このカメラならフィルムっぽいエモい感じの、こんな綺麗な写真が撮れます」とか「このレンズを使えばこんなふうに劇的なポートレートが撮れます」という参考画像つきのレビュー記事は、現実の個人の能力や努力を飛び越え、あたかもそれを所有するだけで理想が実現するかのような幻想を生み出す。

僕たちはその幻想に魅せられ、あたかもそのカメラを買えば同じような写真が撮れるのだと錯覚する。
でも実際には新しいカメラを手に入れても自分の技術が向上しているわけではないのでハイパーリアルなイメージ通りの写真を撮ることは叶わない。
こうして僕たちはすぐに次の「より完璧なイメージ」を求めて新しいカメラ選びに駆動されていくのだ。

終わりなき旅
このようにボードリヤールの議論は、現代の消費がもはや実用性や必要性ではなく、記号の消費・他者との差異化・ハイパーリアルの幻想によって駆動されていることを示唆している。
僕たちが新しいカメラを追い求めてしまうのは、カメラの機能を求めているのではなく、そのカメラが象徴する「なりたい自分」や「理想の世界」を追い求める終わりのないゲームに巻き込まれているからだと言える。
そう、このゲームには終わりはなく、消費をしたとしても次の消費が待っているのだ。

あまり知られていないけれど、
ボードリヤールはこの消費からは逃げることができないと論じていたのだけれど、そのボードリヤールも実は写真が趣味だったのだ。
1980年代に来日した際にカメラを贈られて、それをきっかけに写真撮影にのめり込んでいったんだとか。
ボードリヤールは他人の価値観や評価が高速で流れ、ハイパーリアルに覆われたこの世界で、写真を撮り続けていたのだ。
この事実は、自分なりに考えて自分が見た世界を切り取ることができるカメラという趣味が、この消費社会に抵抗できるだけの力を持っている可能性を提示してくれる。

結論として、僕は「新しいカメラを欲しくなるのは幻想だ」と非難するつもりはないし、この話に明確な提示はない。ただ、カメラが欲しくなった時に、その欲望が何によって駆動しているのか?について考える価値はあるのかもしれない。

今日はここまで。
