写真を撮る意味とは? | 僕とカメラ | note
写真を撮る意味とは?
「カメラって写真撮って…それで何なんスか?…そのあと何かするんスか?」
と後輩が昼飯のうどんを啜りながら言った。
なかなかにショッキングな言葉だと思った。
「カメラ趣味ってピンとこないんスよね。撮った後に"で?"みたいな感じで。」と追い討ちをかけてくる。き、貴様ァ…!!
後輩に悪気はない。
思ったことを話しているだけで他意はないのだ。
そして、それはそれでおっしゃる通りというか、僕は明確な反論を持たない。「はいそうなんです…。」という感じだ。
別にコンテストに出すわけでもないし、撮った写真を売るわけでもない。
言ってしまえば外部に対しては全く価値を生み出していない。
僕はまだnoteで記事を書いては写真を投稿しているし、人との交流がある。また、ちょっとだけinstagramもやっているので発表の場がある。
でも一方でSNSに一切触れずに、ひたすらカメラや写真を愛している人もいるはずだ。カメラって孤独な趣味だから、僕たちが思っているよりもはるかに沢山いるだろうと想像する。
彼らは、あるいは僕たちは全く価値を生み出していないのだろうか?
僕たちのしていることは無意味なのだろうか?

承認欲求からの離脱
僕はnoteを毎日投稿していて、やっぱり「スキ」が付いたら嬉しい。でも「スキ」がつくから頑張っているわけではない。「スキ」はおまけのご褒美みたいな感じで、noteを投稿しているモチベーションの本質はそこではない。
そして同じように、noteで写真を発表するために写真を撮っているのではない。noteに投稿するのは写真を撮る理由の一部であって全体ではないのだ。
僕は写真を撮りたいから写真を撮っている。
カメラが好きだからカメラについて語っている。それ以外の要素は枝葉に過ぎず、やはり本質ではない。
後輩が口にしたような「目的がなければやっていても意味がないのではないか?」「それをやっていてどんな意味(メリット)があるのか?」という疑問はすごく現代的だ。
僕はこれを明確に反論はしなかったけれど、
しかし明確に反論することができる。

ナンセンスへの導線
「カメラで写真を撮ってもコンテストに出すわけでも写真展をやるわけでもない。それなのに写真を撮る意味はあるのか?」というストレートな疑問は
、実はあらゆる形でブーメランになる危険性を残している。
例えるならボーリングはただボールを転がすだけの競技だし、サッカーはボールを蹴飛ばしてネットに入れるだけ。山登りは山に登って降りてくるだけ。ドライブは車を運転して帰ってくるだけ。「それって意味あるんスか?」
ある意味ではそれは何の意味もないのかもしれない。
でもそれで言ったら僕たちだって生まれてきたことに意味はない。どうせ死ぬわけだし、結論同じだったら生きてても死んでも同じじゃん?みたいなナンセンスな結論に収束してしまう。
ナンセンスな結論に収束する主題はやはりどこかが間違っている。
ではどこが間違っているのか?

僕たちは行為そのものを面白がることができる
僕たちはコンテストに出すでもなく、写真展をやるでもなくカメラを楽しんでいる。あるいは写真を楽しんでいる。
僕たちは楽しい。満たされている。その感情に間違いはなさそうだ。
欲しいカメラがあるのに買えないあなたは満たされていないかもしれないが、その満たされていない様も含めて十分に楽しそうだ。
思うに、僕たちは目的によって駆動されなくても<楽しむ>ことができる。結果ではなく過程が面白いから楽しい。それで幸せになることができる。
サッカーの大会で優勝できなくても、仲間たちと練習通りのパスが決まったらすごく気持ちがいい。演奏会に出なくても、楽器が昨日より上手く弾けたらかなり嬉しい。行為そのものをそのままで楽しむことが僕たちにはできるみたいだ。
オートバイで行き先を決めずに、ただアクセルをひねってエンジン音を楽しむみたいに、過程を全身で味わうこと。これがすごく豊かな感覚で、下手すると後輩はこの楽しさを知らないのかもしれない。

カメラはまだ着地していない
アメリカの経済学者マックスヴェーバーによれば、行為には大きく分けて<目的合理的行為>と<価値合理的行為>があるという。
<目的合理的行為>はとある目的があって、それを達成するために合理的に行動すること。(1万円を貯めるために毎月500円を貯金する)
そして<価値合理的行為>は正しいと思うからやる、信じているからやる…といった効率を超えた行為だ。(困っている人がいるから手を差し伸べる、美を追求したいから創作活動をする)

後輩の価値観は極めて目的合理的で、それは間違っていないし、悪いことではない。でも同時にそれ以外の価値観があることを彼は知らない。
確かに僕たちのカメラ趣味というのはどこにも着地していない。
何かを目指しているわけでもなければ積極的な価値を生み出しているわけでもない。でもすごく楽しんでいる。承認を交換するでもなく、外部から与えられた報酬によって駆動されることもなく、純粋にカメラや写真を楽しんでいる。
どこにも着地しないまま、僕たちはカメラを楽しんでいく。

YouTuberが新しいカメラのプロモーションを始めたり、誰かが自分の持っていないカメラで凄まじい写真を投稿したりする。
それによって僕たちの欲望が駆動しようとする。その欲望の赴くままにカメラを買ってもいい。
あるいは自分のスタイルを横に置いて、上手い人のスタイルを真似することもたまにはいいだろう。それでも僕たちには行為そのものを楽しむ力がある。
そしてその力がある限り、新しいカメラを買わなくても、あるいは誰かと競い合うことがなくてもーそう、着地することがなかったとしても、空中でカメラを楽しむことができるのだ。
今日はここまで。
