見出し画像

ジャルジェ家の婿 34

トレヴィル家での研修は連日ハードだ。ここにいる間、手紙も禁止なのはあんまりだと思ったが、実際、リシャールが言ったように手紙を書く余裕はなかった。一日が終わるとベッドに倒れこむようにして眠ってしまう。ホームシックになる暇もなく、曜日の感覚もなく、ここへ来てからどれくらい経ったのかも手帳や暦を見ないとわからないくらいだ。
それでも、ドドトこと、ドミニク・ド・トレヴィル伯爵のスペイン史や政治、外交の講義は結構楽しい。
伯爵は講義をしながら登場人物を熱演してくれるので、自然に頭に入った。
これなら筆記試験も楽勝かと思ったが、問題文がスペイン語だったのでひっくり返りそうになった。解答もスペイン語で書かないといけなかった。
ああ、おれは甘かった。
あの、レニエ・ド・ジャルジェ将軍の少年時代からの親友というからには、普通の人のわけがなかったのだ。
それでも何とかがんばって回答し、辛うじて合格点が取れた。

スパルタで有名なカリスマダンス講師のマダム・スパルタンは、聞きしに勝るスパルタ講師だった。
うちのおばあちゃんと同世代だが、おれの知る中で一番厳しい人物であるおばあちゃんが天使に見えるほどだった。
「まず、ダンス以前に立ち方の問題だよ」
そう言って頭に分厚い辞書を載せて歩く練習から始まり、その状態で基本ステップをマダムの大音声の「右! 左! 前! 後ろ!、1,2,3,1,2,3!」と号令に合わせて練習。
ダンスの練習というより軍事訓練に近くないか? と思ったほどだ。
それができたら、頭に載せるのが辞書から水が9割くらい入った桶になった。
姿勢が崩れると
「ここ! ここがぶれてる!」
と、長い物差しで叩かれる。そのたびに揺れる水入りの桶。心臓に悪い。
そして、それを面白そうに眺めるトレヴィル親子。
「わしらもマダムの厳しいレッスンを受けたんだ。お前もがんばれ」
父伯爵から励ましの言葉がかかるが、ああ、そうですか、としか思えない。ジャルジェ家では重視されなかったダンスを、何で従僕のおれがやらなきゃいけないんだよ・・それは潜入捜査のために、貴族のスペイン通の外交官補佐になりすますためらしいが・・ダンスは苦手という設定じゃダメなのか?

ある程度ステップができるようになると、相手役が必要だが、それはここのメイドなどではなく、マダム・スパルタン先生だとわかり、おれは確実に寿命が縮まるのを感じた。
まず、ダンスを始めるしぐさからして
「色気がない!!」
と一喝され、物差しで脚の横を叩かれる。
そんなこと言われたって・・色気なんかどうやって出すんだ? おれは助けを求めるように野次馬をしているリシャールに目をやった。
「スペイン語会話と同じさ、ハンサムくん赤薔薇 今にも恋に落ちそうメラメラ、という気持ちになりきるんだ」
無理だよ! 祖母と同世代のスパルタ鬼コーチなんだぞ! まったく、この親子、無理難題ばかり言う!
おれは名優・アンドレになって、マダムに手を差し出した。
「マダム、一曲、お相手を・・」
すかさずリシャールから「スペイン語で!」と飛ぶ。最近はスペイン語の時間以外でも、スペイン語で話すように言われる。
「メ・コンセデ・エスタ・ピエサ、セニョーラ?」これで合ってる?
「もっと感情を込めて! 相手を誘惑するつもりで! 下心をにじませる!」
リシャールの語学指導というよりは宮廷マナー、というよりは演技指導? 恋愛指南? が飛んでくる。
だから無理だっつうの! 祖母と同世代のスパルタ鬼コーチだぞ! 今も怖い顔でにらんでるんだぞ! それでもやらないとここから最短の1年で釈放されない。もう、気分は捕虜か囚人だ。
「メ・コンセデ・エスタ・ピエサ赤薔薇、セニョーラハートメラメラ?」
「よし! もう少し柔らかいセリフで!」
ええと・・他の言い回し・・
「レ・グスタリーア・バイラール・エスタ・ピエサ・コンミゴピンク薔薇、セニョーラハートメラメラ?」
おそるおそるスパルタ鬼コーチを見ると、少し微笑んでいる・・?
リシャールはニンマリしてこっちを見ていたが、近くに置いてあったバイオリンを取ると一曲弾きだした。
それに合わせてマダムが踊るように促すので、ステップを必死に思い出しながら曲に合わせて動いた。
「うむ、まだ曲に合わせて踊るのはちょっと早いようだ。もう一度基礎から」
マダム・スパルタンはそう言うと、水の入った桶を持って玄関に向かった。リシャールと父伯爵も一緒に、おれに外へ出るよう促した。
「トレヴィル家名物総合演習だ。わしもリシャールもよくやったものだ。お前もがんばれ、アンドレ!」
「はい・・」
何だろう?
「塀の上に乗って。ハンサムくん」
え? 他の3人を見ると笑ってはいるが有無を言わさない目をしている。
おれが塀の上に乗ると、リシャールもひょいとおれの背後に上って、おれの頭に水の入った桶を載せた。
「こぼさないようにね・・うふん」
え? 何だって? リシャールは軽やかに塀から降りた。嫌な予感しかしないんだけど・・
「じゃ、今から掛け声と手拍子に合わせて動くこと!」
リシャールがそう叫ぶと、マダムが手拍子しながら「右、ツーステップ、左、ツーステップ!」などと始めた。
おれは頭上の桶の水をこぼさないよう姿勢に気を遣い、塀から落ちないよう動きを計算する。
「『マダム、今日は一段とお美しいですね』スペイン語で!」
「右、後ろにツーステップ!」
へ? ちょっと待ってくれ! 
「オイ・・えっと・・セニョーラ、オイ・エスタ・ウステッ・エスペシアルメンテ・エルモーサ」と言いながら右足で後ろにツーステップ。うわ、桶の水が揺れる!
「今のセリフをもう一度!」
「左、後ろにツーステップ!」
「セニョーラ、オイ・エスタ・ウステッ・エスペシアルメンテ・エルモーサ」左足で後ろにツーステップ・・変に力が入って背中が痛い。
「右、後ろにツーステップして右周りでターン!」
「今一番言いたいことをスペイン語で!」
な、なに? ここでターン? そんなにこの塀、幅が無いんだけど! 足を後ろに引いてターンしようとして、体が宙に浮き引き返せない旅へ出た。頭の上の桶も同じく宙に舞った。そしておれは万有引力の法則に屈した。一番言いたいことをスペイン語で叫びながら。
「アユデンメェェェ・ポル・ファボーーーーーーーーールッッ(助けてくれぇぇぇ、頼むーーーー!!)」
おれは地面に落下し、それに続いて水と桶が降ってきた。

いいなと思ったら応援しよう!