浅草橋・鳥越2丁目 酒屋しんかわやさんは、おしゃれなあなたを呼んでいる。
街はぼくらの頭のなかよりもはるかに広く、おもしろい。あたりまえのことだけれど、あらためてぼくはそうおもう。この日の午後ぼくはいつものガール・フレンドとデートで、ぼくらは上野の芸大美術館で歴史的な禅画~日本画など見た。京都の承天閣美術館提供の作品群だった。猿、ニワトリ、花々、坊主などが描かれ、そこには花鳥風月、地獄、はたまた天、地、人というような世界観が感じられた。中世の西洋絵画がキリスト教とともにあるように、日本画もまた仏教とともにあることをぼくは教えられた。ぼくはおもった、かつて仏教は知の最先端やったねんなぁ。しかし、(この展覧会の管轄外のことながら)そんな日本の中世は織田信長による比叡山の焼き討ちで終わった。その後はじまった江戸時代はゼロ成長の貧乏社会で、なるほどときには大地震や飢饉もあったとはいえ、しかし総じて破天荒にピースフルな社会で、仏教の威光が激減したこととともに、庶民の遊びはありとあらゆる方向に発展した。華道、茶道、義太夫、落語、歌舞伎、着物ファッション、おしゃれな小物が百花繚乱した。はたまたお上のお達しで武器を作ることができなくなった兵器屋は花火屋に転身することで生き延びた。花見の習慣さえも、その起源は江戸ではないかしらん。なお、この日は桜が満開でいくらか葉桜になりつつあるうららかな日だった。
さて、ぼくらが展覧会を一巡して時刻は午後3時25分。ガールフレンドは言った、あのね、ちょっと浅草橋までつきあってもらっていい? もちろんぼくはいいよと言った。彼女はインディ系のデザイナーでいま彼女は自分の商品につける皮紐が必要なのだ。彼女は焦っていた、なぜってどういうわけか彼女が贔屓にしている皮製品屋さんは午後4時で閉店なのだ。ぼくらは上野駅から山手線に乗り、秋葉原で総武線に乗り換え、浅草橋で降りて、急ぎ足で歩いた。そこそこ長い道のりである。目的のお店は蔵前に近く、店へ近づいてくると、彼女はぼくを置き去りにして小走りになって店へ向かった。白いニットのワンピースにキャメル・カラーのハーフコートを纏った彼女はぼくの視界のなかでどんどん小さくなってゆく。
さて、彼女は念願叶って革紐を一束入手し、満面の笑顔になってほっと一息ついた。そしてぼくらはのんびり浅草橋を散策した。彼女にとっては馴染みの街だけれど、他方、ぼくにとっては新鮮だ。浅草橋には服飾雑貨の問屋、各種の皮を売る店、皮を薄くなめすちいさな工房、バッグ屋、バッグのパーツとして金具など売る店、そして兜や武士の人形を売る店々がある。(もしかしたら日本のガンダム・カルチュアの起源はそこにあるかしらん。)
なお、ぼくは1960年代後半のヒッピー・カルチュアをひそかにかつひかえめに愛していて、そこには〈現実の夢化〉の実験があり、自由とはどういうものかという問いとともに既存の文化を手作りで新しく作り変えてやるという挑戦があった。シド・バレットはぼくのアイドルだ。この日のぼくは毛糸のキャップをかぶり、ネパールのコットンを使ったキルティングのシャツを着て、いつものようにネックレスをじゃらじゃらつけている。そんな浅草橋散歩のさなかにぼくの目に飛び込んできたのは、鳥越2丁目、酒屋しんかわやさんである。煙草屋兼酒屋でありながら、しかし店の前には日本酒屋の手作りの、日本酒製造元の作った帆布前掛けを使った正方形のトート・バッグがずらりと並び、しかもその酒屋のなかにはレースのワンピースを纏ったトルソが置かれている。こんな酒屋、見たことない。ぼくは確信した、この店はぼくを呼んでいる。
カウンターにはおじいさんが座ってらして、その傍らで明るくおしゃべりなマダムがてきぱき電話対応などなさっている。レジ・カウンターの前には、ちいさなヴィニール袋入りのネックレスが数々置かれていて、すべて千円なのである。しかもそのネックレスはけっしてたとえば渋谷センター街で売っているような怪しげなネックレスではなく、貝を使い革紐を通したものや、チェコのカット・ガラス(スワロフスキー)を用いたものなのだ。え!?? これがぜんぶ千円なの!??
白い貝と茶色い貝をともに五円玉状でありつつもそれよりも大きめな形状に成形して樹脂コートした皮紐を通したネックレスを選んで買い求めた。そしてぼくはこの不思議な店の由来をお訊ねした。するとまず最初におじいさんが答えてくれた。「もともとうちの先祖は新川で酒の仲卸をやってたんですよ。で、明治3年に酒屋しんがわやを開いて、タバコを商うようにもなって、いまに至るというわけでね。」ぼくは訊ねた、ではこのファッション展開は? するとおきゃんなマダムが笑って答える、「それがあたしが出張専門の美容師で、それからね、あたしお洒落が好きで、趣味でバッグとか作ちゃうし、洋裁上手の人たちと連携してお直し屋さんもやってるの。それからここは浅草橋でしょ、いろんな人と知り合うでしょ。このネックレスもね、作って百貨店に卸してた人が廃業しちゃったの、そこであたしがもったいないから全部買い取って、1000円で売ってるの。モノはいいのよ、百貨店だったら5倍10倍の値段なんだから。」
たしかにそれはまさにまったく額面通り、彼女のおっしゃるとおりだった。なお、もちろんそこにはコンビニとドラッグ・ストア、はたまた大手宅配安売り酒屋の台頭によって窮地に追い込まれている小さなお酒屋さん老夫婦による、生き残りを賭けた挑戦がある。それにしてもかつて朴訥な酒屋の青年が、おきゃんでお洒落な(anan 創刊当時の)若い女と恋に落ちたドラマをぼくは興味深くおもった。そしてまた浅草橋人民の創造性と底力はぼくを勇気づけた。浅草橋・鳥越2丁目 酒屋しんがわやは、お洒落なあなたを待っています。

酒屋しんかわや
