ひとりの私は私たち。ーーコントラバス奏者・岩見継吾さん七変化( "One I is many we")

昼下がりの新宿Pit Innへ福井亜実(ピアノ)、岩見継吾(ベース)、吉良創太(ドラムス)トリオの演奏を聴きに行った。あ、岩見さんだ、とおもって。これまでぼくは岩見さんの演奏をピアニストの石田幹雄さんとの共演や、はたまたアルト・サックスの石崎忍さんとドラムスの(イカしたスウィングじいさん)楠本卓司さんとのトリオで聴いていた。


岩見さんはコントラバスを抱き抱え、太くゆたかな音を弾き出し、ピアノやサックスが演奏するメロディの流れに、見事な対旋律を奏でる。絶妙のタイミングで弓弾きするときのフレーズがまた素晴らしい。さて、この日は福井亜実さんのトリオである。福井亜実さんの音楽はラテン系というかボサ・ノヴァ系である。ラテンはジャズのもうひとつの血脈であり、ともすれば芸術化しがちなジャズのなかでもっともポップで、ファンが多く、リスナーの美女率もやや高い。古くは渡辺貞夫さんが1970年代後半バークレー帰りに日本にボサ・ノヴァを持ち帰ったものだ。当時はチック・コリアはボサ・ノヴァでこそないものの、ラテンっぽさを濃厚に持った演奏で注目を集めていた。それでいてチック・コリアは時に12音の作曲までこなし、才人ぶりを見せつけたものだ。

他方、当時ジャズ・バーのオウナーをやってらした村上春樹さんは、大ヒットしていたチック・コリアのアルバム〈リターン・トゥ・フォーエヴァー〉だけはどれだけリクエストがあろうとも絶対にかけなかったというエピドードは有名である。スウィングからビ・バップまで、とくに(ゲッツ&ジルベルトを含め)スタン・ゲッツとジェリー・マリガンを溺愛する春樹さんらしいエピソードであり、同時にそんな春樹さんが80年代の新保守派のリーダー、トランペットのウイントン・マルサリスにはいい顔をしないところがまた、ジャズ・ファンの片意地なところでたいへん好ましい。

さて、ぼくは福井亜実さんの演奏で、ひさしぶりにロマンティックさが強調されたラテン系ジャズを聴いた。女性のなかに潜むおてんば、自由への希求が奔放に表現される。彼女の自作中心のライヴのなかでチック・コリアの『ワルツ・フォー・デイヴ』も演奏された。チャーリーミンガスの『ペギーズ・ブルー・スカイラト』もかっこよく演奏された。ドラムスの吉良創太さんとコントラバスの岩見継吾さんとの息も完璧に合っていて、とても楽しい。演奏中の岩見さんの表情がまたうれしそうなこと。

演奏を聴きながらぼくはたしか相倉久人さんだったかしらん、どなたかジャズ評論家の言った言葉をおもいだした、ロックはラテンのなれの果て。当時ぼくはどちらかと言えばロック・ファンだったので、「なに言ってんだ!??」と呆れたものだけれど、いまさらながらその言葉の意味がわかる。それはラテンの持つ調性の安定性のことを指しているのだ。対照的に、非ラテン系ジャズは曲の調を曖昧にしたり、ひっくり返したり、どこへ行くかわからないような冒険を好む場合が多い。むろんどちらが偉いというものではなく、好みと選択、音楽観の問題である。なお、アンコールは童謡の『赤トンボ』を官能的なジャズ和声づけしたものだった。

色っぽい赤トンボに送られた楽しい2時間を過ごし、帰りがけにぼくは岩見さんが、ピアニストの高橋祐成さん、ドラムスの吉良創太さんとやってらっしゃる世田谷トリオのCDを買った。これがまた高橋祐成さんの曲や岩見さんの曲とともに、モンク、コルトレーン、果てはジョン・レノンの『イマジン』に至るまで収録され、ビバップ、フリー、フュージョン、アヴァンギャルド、なにが飛び出してくるかわからないものの、不思議な一貫性が貫かれたジャズの自由の形を表現したものだった。

そしてぼくは思った、ひとりの私は私たち。

2025年9月15日、新宿Pit Inn昼の部



【後記】その後ぼくは note で、岩見さんが箏と共演なさっていることを知った。映画『国宝』を観てからというもの邦楽への関心が戻ってきたぼくにとっては、不思議なめぐりあわせである。


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