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夜明けの青い時間の知 第三章‐1:AI時代のカント、新しい定言命法


イントロダクション:哲学なき政治、そして哲学の窮地

日本の政治家たちを見ていると、自分の答弁が何のカテゴリーを扱っているのか、自覚のない人が多い。たとえ答弁の辻褄が合っていたとしても、視野は狭く、危なっかしい。

ある政治家は「自己責任」を説く。しかし、その「自己」が社会構造によってどれほど規定されているかを自覚していない。別の政治家は「規制緩和」を叫ぶ。しかし、その「自由」が誰の自由で、誰の不自由を生むのかを問わない。さらに別の政治家は「伝統」を守ると言う。しかし、その「伝統」がいつ、誰によって、どのような権力関係の中で構築されたのかを知らない。せめて哲学くらい学んでおけばいいのに、と私は呆れる。

哲学史は、考えるべきこと一覧の地図である。

自分がどこに立ち、何を主張しているか――哲学史はその自覚を促す。そして、たいていのことは過去の誰かがすでに考え、定義し、提言しているのだ。

「自己責任」を説くならば、サルトルの実存主義と、マルクスの社会決定論の対立を知るべきだ。(※1)「規制緩和」を叫ぶなら、ミルの自由論と、ロールズの正義論の緊張を理解すべきだ。(※2)「伝統」を守ると言うなら、フーコーの権力論と、ハーバーマスの公共性論を読むべきなのだ。(※3)

哲学は、答えを与えない。しかし、問いの構造を与える。そして、その構造を知ることこそが、責任ある思考の第一歩なのだ。

しかし他方で、デカルトひいてはカントに始まる西洋近代哲学からポストモダン哲学に至る系譜が、いま無力感にさいなまれていることもまた現実である。

資本主義は国家の枠を超え、AIは人間の思考を追い抜きつつある。

デリダの脱構築は、テキストの不確定性を暴いたが、アルゴリズムの不透明性には無力だ。フーコーの権力論は、規律社会を分析したが、監視資本主義の新しい形には追いついていない。ハーバーマスの公共性論は、対話的理性を説いたけれど、SNSの炎上と分断の前ではただひたすら虚しい。こうした現代において、哲学者たちは窮地に立たされてもいる。

この論考では、AI時代にこそ和辻哲郎と西田幾多郎が希望となることを論じている。

そしてここで問われるべき問いは、つきつめればただ一つだ、「では、私たちはいま、どうやって善を選ぶことができるのか?」

あるいは、物事を損得でしか考えられない人に向けて言えば、こういう話でもある。たとえ世界が透明な悪に満たされていようとも、しかし、それでも善い人でいる方が、結局は得なのだ。世界そのものが壊れてしまうよりは、よほど良いではないか。それともこれは、単なる信仰告白にすぎないのだろうか?

いずれにせよ、私たちは善を語らずにはいられない地点に立たされている。

AIが「間柄」を操作し、「場所」を生成する時代において、善とはもはや個人の内側で決められるものではなく、環境の構造そのものに埋め込まれた問題となるからである。

1|いま、カントは夜の入り口で倒れている

カントは、本来、夜明け前の哲学者だった。近代がはじまるその瞬間に立ち会い、暗闇のなかから人間へと手渡したもの――それが「自律的主体」という灯火である。18世紀後半、世界は混乱していた。大陸は戦争と革命で揺れ、宗教的秩序はすでに崩壊していた。その暗闇のただなかで、カントは言った、

「人間とは、自ら立つ者である。」

カントにとって、主体とは、外部に依存せず、自らの理性に従って行為を決定する存在である。

そして、その理性の命令――それが「定言命法」である。

カントの定言命法

カントは、『道徳形而上学の基礎づけ』(1785年)において、定言命法を三つの定式で表現した。

第一定式(普遍化の定式): 「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」

つまり、あなたの行為の原則が、すべての人に当てはまる普遍的な法則になりうるかどうかを問え、ということだ。

第二定式(人間性の定式): 「汝自身の人格ならびに他のすべての人の人格のうちにある人間性を、つねに同時に目的として扱い、けっして単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。」

つまり、人間を道具として扱うな、ということ。

第三定式(自律の定式): 「各人が、自己自身を普遍的立法者として見なしうるような格率に従って行為せよ。」

つまり、私自身が、あなた自身が、道徳法則を立法する主体であれ、ということだ。

これらの定式は、すべて「自律的主体」を前提としている。主体は、外部の権威(神、伝統、欲望)に従うのではなく、自らの理性に従う。そして、その理性は普遍的であり、すべての人に共通する。

善とは、この内なる理性の命令によって選択されるべきものなのである。

しかし21世紀、カントのこの自律的主体は、まるで夜の入り口で倒れている。立ち上がろうとしながらも、しかし何度も膝を折る。光は弱く、周囲はノイズと刺激と演算の渦で満ちている。

私たちは、自分の行為を「自らの理性」ではなく、アルゴリズムの環境によって誘導されるのだ。

  • 怒りはSNSの気候によって発火し、

  • 欲望は広告モデルによって調整され、

  • 判断はレコメンドの地形に沿って滑り落ちてゆく。

こうした世界では、カントのいう「内なる理性」は、もはや行為の主導権を持っていない。それは、夜明け前に掲げられた灯火が、巨大な都市の光害のなかでかき消されているようだ。それでもカントは、いまだ重要である。むしろ、あまりにも重要すぎる。しかしその重要性は、当時の意味ではもはや維持できない。自律的主体は、美しい理想ではあっても、今日では環境設計の前で脆く、儚く、倒れやすい。そして倒れてしまったその場所に、私たちは立っている。

だからこそ――和辻哲郎の〈間柄〉と、西田幾多郎の〈場所〉が、いま新しい光を放ち始めるのである。カントが与えた「自律」という水平の軸を、かれらは「環境」や「関係」という垂直の軸で支え直す。

私たちは問い直さねばならない。

「内なる理性」の灯火が弱まったとき、どのようにして善を選ぶことができるのか?

この章は、まさにその問いに向けて進んでゆく。カントはけっして倒れたままではない。ただ、立ち上がるための新しい支えを必要としているだけなのだ。

2|善と「環境」の問題――行為の主体はどこにいるのか

カントが前提としていた世界には、つねに「主体」という座標があった。善き行為は主体のうちから生まれ、悪は主体の弱さから滑り落ちてくる。そこには、〈行為の原因は内側にある〉という確固たる信念があった。

しかし、いま私たちが立っている世界には、その「内側」が驚くほど脆く、ときに空虚でさえある。私たちは孤立しているわけではない。むしろ逆だ。私たちは過密な「環境」に包まれ過ぎているのだ。

環境という気候

通知。広告。フィード。刺激の潮流。怒りの海流。嫉妬の気候帯。高揚の気圧配置。

現代の人間は、単独で判断する以前に、判断を生成する「環境による誘導」から逃れられない。

例えば:

  • 誰かの怒りに触れて反応する――Twitterで炎上を見かけ、つい自分も批判のリツイートをしてしまう

  • 炎上の匂いに巻き込まれて発火する――冷静に考えれば些細なことなのに、集団的な怒りの気圧に引きずられる

  • 承認の風に吹かれて投稿する――「いいね」が欲しくて、本当は思っていないことまで投稿してしまう

  • 孤独の気圧が下がり、沈んでゆく――深夜、誰とも繋がっていない感覚に耐えられず、無意味にスマホをスクロールし続ける

こうした「気候としての環境」こそが、私たちの行為の大半を決定している。

つまり、私たちは善を「選ぶ」前に、善を「環境に左右されている」のだ。

ここに、AI時代の倫理の最大の問題がある。

3|善悪は「個の選択」ではなく「環境の設計」で決まる

善き行為を促すのは理性ではなく、通知の設計かもしれない。

誰かを傷つける行為が起きるのは、その人の「内なる悪」ではなく、環境が怒りを誘発し、怒りの回路を強化するように設計されているからかもしれない。

ブラック企業の例

たとえば、自分を苦しめるブラック企業に嫌々勤めていれば、自分もまたブラックになることが「最適化」ではないか。長時間労働、パワハラ、不合理な指示――こうした環境の中で、人は善良さを保つことが困難になる。むしろ、生き延びるためには、他者を蹴落とし、自分を守ることが「合理的」になる。

これは、個人の道徳的弱さの問題ではない。環境の構造の問題なのだ。

善き環境の例

しかし、環境が整えば、多少の弱さがあっても人は善に向かう。例えば、心理的安全性が保たれた職場では、人は失敗を恐れずに挑戦し、互いに助け合う。Googleの研究(Project Aristotle)が示したように、チームのパフォーマンスを決めるのは、メンバーの能力よりも、心理的安全性なのだ。

問いの転換

もし善悪が「環境要因」に左右されるならば、カント的な倫理観は、半分ほど機能しなくなる。

ではどう考えるべきか?

答えは単純だけれど、しかしなかなかに厄介だ。

善を選ぶとは、自分が生きる〈環境〉を選ぶことである。

環境を誤れば、どれほど善意があっても行為は歪む。しかし、環境が整えば、多少の弱さがあっても人は善に向かう。

いま問うべきなのは、「あなたはどう生きるべきか?」ではない。

問いはこう置き換わる。

「あなたの環境は、善を生む構造になっているか?」

あなたは嗤うかもしれない。「なんだよ、AI時代の孟母三遷の教えかよ!」

しかし、まさにそのとおりなのである。

孟母三遷――孟子の母が、子供の教育のために三度引っ越したという故事――は、環境が人格形成に与える影響を示す古典的な教えだ。

AI時代において、私たちもまた、自分の「環境」を選ばなければならない。

4|和辻哲郎の〈間柄〉――善は「あいだ」に宿る

そしてこの問いに真正面から答えるために――和辻哲郎の〈間柄〉が登場する。

和辻は喝破した。善悪の根源が個人の内部ではなく、〈あいだ〉に宿る

和辻の核心的主張

和辻にとって、倫理とは、個人の内部に宿る固有の魂が持つ「徳性」ではない。倫理とは、人と人とのあいだに張られた透明な糸のような関係の総体なのである。

『倫理学』において、和辻はこう書いている、「人間存在の根本構造は、個人と社会の対立ではなく、個人と全体との間柄的統一である。」

これは倫理学にしては奇妙な言葉だけれど、しかしAI時代の私たちには驚くほど腑に落ちる。

AI時代における「間柄」

なぜなら、AIが介在する現在の社会は、もはや「個人の内面」の独占物ではない。私たちの判断も、欲望も、関心も、アルゴリズムによって補助され、ときには誘導され、ときには変質さえしてしまう。

すると、倫理はどこに宿るのか? 私たちの心の奥か?それともアルゴリズムの中か?

和辻はこう囁く、「いいや、倫理はそのどちらにも閉じ込められない。倫理とは、あなたと他者、そしてあなたと環境の〈あいだ〉に漂う気圏そのものなのだ。」

この「あいだ」を敏感に調整し、響かせ、そして歪みに気づいたときには修正する力こそ、あるいはなんなら逃げ出す勇気こそ、AI時代における「善の選び方」なのだ。

5|西田幾多郎の〈場所〉――善は「流れの質」の選択である

では、西田幾多郎はどうか?

西田は〈純粋経験〉という言葉で、主観と客観が分かれる以前の、世界と私がひとつに融け合っているような状態を指した。

『善の研究』において、西田はこう書いている、「真の純粋経験は、まだ主客の分かれない、知識の以前の事である。」

それは「見る」と「見られる」がまだ分かれていない原初の場であり、言ってみれば、主体は世界の流れの「縁(ふち)」に立っているだけだ。

AI時代における「場所」

この西田の視座をAI時代に持ち込むと、ひとつの示唆が生まれる。

私たちは、世界を操作する主体であるだけでなく、世界(環境・社会・アルゴリズム)の流れの中に包み込まれている存在でもある。

「善を選ぶ」とは、ただ道徳的に正しい行いを選ぶというより、世界の流れの中で、私たち自身が「どのような流れを生む存在になるか」を選ぶことなのだ。

つまり、善とは結果ではなく、流れの質の選択である。

AIがどれほど精緻に未来を予測しようと、流れの質だけは、私たちの態度によって決定される。

6|「善はコスパが良い」――ゲーム理論的倫理

そして最後に、冒頭の問いに戻る。

「善い人でいる方が結局は得なのだ。それとも、これはただの信仰告白なのだろうか?」

これはもはや信仰ではない。〈間〉に生きる私たちにとって、善は「選択肢のひとつ」ではなく、〈関係そのものが持続するための最適化〉である。

囚人のジレンマ

ゲーム理論における「囚人のジレンマ」を思い出そう。

二人の囚人が、協力するか裏切るかを選択する。一回限りのゲームなら、裏切る方が得だ。しかし、繰り返しゲーム(反復囚人のジレンマ)では、協力する方が長期的には得になる。

ロバート・アクセルロッドの研究が示したように、「しっぺ返し戦略(Tit for Tat)」――相手が協力すれば協力し、相手が裏切れば裏切る――が、長期的には最も成功する戦略なのだ。

関係の持続可能性

AI時代において、私たちは「反復囚人のジレンマ」の中に生きている。

悪意の連鎖は環境を破壊し、関係を腐食し、私自身の生存基盤を壊す。

しかし、善い行いは、関係の「気圏」を整え、流れの質を改善し、世界全体の持続可能性を高める。

これは宗教でも、道徳の押し売りでもない。むしろ、AI時代にふさわしい〈関係的な合理性〉だ。

善の二重性

善とは、世界を壊さないための「もっともコスパの良い選択」であり、同時に、世界を美しく保つための「もっとも詩的な選択」でもあるのだ。

これは、功利主義(最大多数の最大幸福)でも、カント的義務論(善き意志)でもない。

それは、長期的な自己利益と全体の持続可能性と美的感性の統合という、新しい倫理の形である。

7|次章への予告――設計の倫理へ

しかし、ここで一つの重要な問いが残る。

もし善が「環境の設計」の問題だとすれば、誰がその環境を設計するのか?

BigTechの経営者か? 政府か? 私たち自身か?
そして、その設計者の倫理を、誰が監視するのか?

次章『第三部‐2:設計の倫理――〈環境をつくる者〉の責任と自由』では、この問いに取り組む。

そこで扱うのは:

  • 設計者の責任――アルゴリズムを設計する者は、どのような責任を負うのか?

  • 透明性と説明可能性――ブラックボックス化したAIに、どう倫理を埋め込むのか?

  • 民主的な設計――環境の設計に、市民はどう参与できるのか?

  • 「無為」の設計思想――老子の「無為」を、具体的な設計原理に翻訳する

カントは倒れたままではない。
和辻と西田が、新しい支えを提供した。
そして、その支えの上に、AI時代の新しい定言命法が立ち上がろうとしている。

夜明けの青い時間は、まだ続いている。

『第三部‐2:設計の倫理――〈環境をつくる者〉の責任と自由』へ続く


(※1)サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)は、「実存は本質に先立つ」と唱え、自由、責任、アンガージュマン(社会参加)を呼びかけた。かれは考えた、人間はまずこの世に「実存」し、その後の自由な選択と行動によって自己の「本質」(あり方)を作り上げてゆくと主張する。神や普遍的な道徳法則といった外部の決定要因を否定し、人間は完全に自由であり、その自由に伴う重い責任を負う、と考えた。まさに「自己責任」論の哲学的根拠の極北にある思想である。

他方、マルクス(Karl Marx, 1818-1883)は、唯物史観、階級闘争、下部構造と上部構造、疎外を鍵概念にして、社会決定論を主張した。個人の意識や行動(「本質」や「自己責任」)は、その人が置かれた社会の経済的・階級的な構造(生産関係)によって決定されると考える。貧困や格差は個人の努力不足ではなく、社会システムに根差した必然的な結果である、と論じるのだ。「自己責任」論に対する社会構造的な批判の根拠となる思想である。

(※2)ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)は、功利主義、危害原理(Harm Principle)、個性の発展を鍵概念に、自由論を唱えた。他者に危害を加えない限りにおいて、個人の行動や意見の自由は絶対的に保障されるべきだ(危害原理)。政府や社会による個人の自由への介入を最小限に抑えるべきとして、「規制緩和」の古典的な自由主義の基礎を築いた。他方、ロールズ(John Rawls, 1921-2002)は、公正としての正義、無知のベール、格差原理(Difference Principle)を鍵概念に、正義論を主張した。自由を擁護しつつも、単なる市場原理に任せた結果としての不公平な格差を問題視したのだ。社会における富や機会の配分は、「最も不遇な人々の利益を最大化する」ように行われるべきだ(格差原理)と主張し、社会的な弱者に対する積極的な配慮や再分配の必要性を説いたのだ。この主張は、「規制緩和」がもたらす格差や不平等の問題を指摘し、公正な社会の設計を求める議論の根拠となる。

(※3)フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の権力を以下のように定義する。権力は国家や法が独占するものではなく、社会の隅々にある知識、制度、慣習、言説の中に潜み、人々を「正常」と「異常」に区別し、自発的に自己を律するように訓練・管理する非対称的な関係である。「伝統」や「常識」といったものは、しばしば特定の集団の権力関係によって作られ、維持されてきた歴史的な産物であり、その支配構造を批判的に分析する視点が必要なのだ。

他方、ハーバーマス(Jürgen Habermas, 1929-)は公共性論を展開する。社会の正当性は、権力や伝統ではなく、自由で平等な市民による理性的で開かれた討議(議論)を通じて形成される〈公共圏〉によって担保されると考える。「伝統」の価値は、それが現代の市民社会における批判的討議に耐えうるかどうかによって再検証されるべきであり、一方的な権威や非合理な慣習として押し付けられるべきではないのだ。

哲学が考えるための道具であるとは、こういうことなのである。


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