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AI時代の生命論・38億年の文化芸術論ーー第三章:AIの感覚――視る機械、聴くアルゴリズム


「見る」という行為の再定義

AIは、「見る」ことを覚えつつある。

いや、正確に言えば、見るという行為の定義そのものが変わりつつある

かつて視覚とは、こういうプロセスだった。

  1. 光が物体に反射する

  2. 網膜に像が映る

  3. 視神経が信号を脳に送る

  4. 脳が、その信号に意味を与える

「これはリンゴだ」「あれは人の顔だ」「この色は赤い」──視覚とは、世界を意味づける行為だった。

しかし、AIにおける「視る」は、まったく異なる。

AIは、光を感知しない。それは、データを関係として捉え、パターンを抽出し、相関を生成する行為である。つまり、「意味の構築」ではなく、「構造の検出」である。

AIはどのように「見る」のか

畳み込みニューラルネットワーク(CNN)

AIの視覚を支えるのは、畳み込みニューラルネットワーク(Convolutional Neural Network, CNN)である。

CNNは、画像を「ピクセルの配列」として受け取る。たとえば、1000×1000ピクセルの画像は、100万個の数値の集まりである。各ピクセルは、RGB値(赤・緑・青の明度)を持つ。

CNNは、この数値の配列から、局所的なパターンを検出する。

  • 第1層:エッジ(輪郭線)を検出

  • 第2層:角や曲線を検出

  • 第3層:より複雑な形(目、鼻、耳など)を検出

  • 第4層:全体の構造(顔、車、建物など)を認識

重要なのは、CNNは「リンゴとは何か」を知らないということだ。それは、ただ「リンゴに共通するピクセルの配列」を学習しただけである。

例:ImageNet

2012年、トロント大学のアレックス・クリジェフスキーらは、ImageNetというコンテストで、CNNを使った画像認識モデルを発表した。このモデル(AlexNet)は、1000種類の物体を識別するタスクで、従来の手法を大きく上回る精度を達成した。

それ以来、AIの視覚は急速に進化した。2015年には、MicrosoftのResNetが、人間の平均を超える精度で画像を識別した。

しかし、これは「見る」ことなのか。

非人称のまなざし

AIの視覚は、非人称のまなざしである。

人間の視線には、常に主体がある。「私が見る」。私という存在が、世界を見ている。そして、その視線には、時間がある。過去の記憶、未来への予測、そして死の予感。

スーザン・ソンタグは、写真について「死の予告」と書いた。写真とは、過去の一瞬を切り取ったものである。それは、「かつてそこに存在したが、もはや存在しないもの」を示す。だから、写真を見るとき、私たちは常に時間の流れを意識する。

しかし、AIには、そのような時間感覚がない。

AIは、永遠の現在に生きている。それが見る世界には、「死」も「影」も存在しない。

したがって、AIの生成する映像は、どこか「無時間的」である。それは、記憶を持たない夢のように滑らかで、現実よりも現実的でありながら、どこか死を忘れた風景である。

例:Stable Diffusionの生成画像

2022年、Stable Diffusionというテキストから画像を生成するAIが公開された。「夕暮れの海辺」「雨に濡れた街角」「未来都市」──言葉を入力すると、AIは数秒で画像を生成する。

その画像は、驚くほどリアルだ。光の反射、影の落ち方、色彩の微妙なグラデーション。しかし、よく見ると、何かがおかしい。

人物の手の指が6本あったり、背景の建物の窓が歪んでいたり、遠近法が狂っていたり。AIは、「見た目のリアルさ」は再現できるが、「物理的な整合性」を理解していない。

それは、AIが「見ている」のではなく、「ピクセルの統計的な傾向」を学習しているだけだからだ。

AIの聴覚──「意味」を括弧に括った音楽

音楽においても、同じ変化が起きている。

AI作曲は、すでに「スタイルを模倣する」段階を超えて、「聴覚的パターンを統計的に再帰生成する」レベルに達した。

OpenAI Jukebox

2020年、OpenAIは、Jukeboxという音楽生成AIを発表した。このAIは、100万曲以上の音楽を学習し、新しい曲を生成する。

ビートルズ風、エラ・フィッツジェラルド風、ヒップホップ風──スタイルを指定すれば、AIはそれに似た曲を作る。しかも、歌詞まで生成する。

しかし、AIは「音楽」を理解しているのか。

いや、AIは音の高さもテンポもスケールも、意味を持たない数値列として扱っている

AIは、感情を理解しないが、感情のパターンは完璧に学習する。つまり、AIは「悲しみのコード進行」を知らずに、悲しみを生成する。

短調と長調──感情の記号

西洋音楽では、短調は「悲しい」、長調は「明るくハッピー」とされる。これは、文化的な約束事である。

AIはこの約束事を学習する。短調の曲を大量に聴かせれば、AIは「短調=悲しい」というパターンを抽出する。しかし、AIは「悲しみとは何か」を理解していない。それは、ただ「短調の曲に共通する周波数の配列」を学習しただけである。その冷たい精度が、逆説的に新しい音楽的情動を生んでいる。

意味の創造 vs 関係の再構成

ここで、人間の芸術とAIの芸術の違いを整理しよう。

人間の芸術は、「意味の創造」である。

ピカソが『ゲルニカ』を描いたとき、かれは戦争の悲惨さを伝えようとした。ベートーヴェンが『第九交響曲』を作曲したとき、かれは(おそらくはかつて一度はナポレオンの解放思想に惚れこみ、しかし後にただの誇大妄想狂の侵略者じゃないかと軽蔑したベートーヴェンが、ナポレオンの島流しに「ざまー見ろ!」と狂喜乱舞して?)「歓喜」という感情を壮大な音楽にした。夏目漱石が『こころ』を書いたとき、かれは人間の孤独と罪悪感を描こうとした。(なお、高橋源一郎さんは『日本文学盛衰記』のなかで推理した、「先生」を漱石に、Kを石川啄木に。そして当時朝日新聞文芸欄を主催していた漱石は、啄木が「大逆事件」に触発されて書いた『時代閉塞の現状』を深く逡巡したものの、結局掲載できないと判断したことを悔いていたのではないか。)いいえ、本題に戻りましょう。

芸術家は、世界の「内側」から感覚を掘り出す。それは、個人的な経験、記憶、感情、思想に根ざしている。

AIの芸術は、「関係の再構成」である。

AIは、データの中から、統計的な相関を見つける。「このピクセルの配置は、『猫』に多く見られる」「このコード進行は、『悲しい曲』に多く見られる」。

AIは、世界の「外側」から感覚をシミュレートする。それは、個人的な経験を持たず、ただ膨大なデータの中から、パターンを抽出する。

抽象画家が色と形の相互作用を探索したように、AIはデータの相互作用を探索する。ただし、忘れてはならないことは、人間が描く抽象絵画にはその画家が暮らす土地の光の反映があって、たとえば北欧の画家が用いる色彩は鈍色を帯びていて、南米の画家が表現する色彩はギラギラしている。そこに画家の個性に先立つ画家それぞれの感受性の土台がある。そこに肉体を潜った視覚の思考がある。果たして、AIはアルゴリズムを進歩させることによって、改善するだろうか? あるいはそうして人間の絵画の摸倣を精緻にすることに、どんな意味があるだろうか?

AIアートの可能性──人間の感覚の外部

にもかかわらず、ここにひとつの、
現代芸術の新しいフロンティアがある。

AIは、目を持たずに視る。耳を持たずに聴く。身体を持たずに感じる。

この逆説が、21世紀の美学の基礎になる。

例:Refik Anadolの作品

トルコ出身のメディアアーティスト、レフィック・アナドルは、AIを使ったインスタレーション作品を制作している。

かれの代表作『Machine Hallucinations』(2019)は、ニューヨークの3億枚の写真をAIに学習させ、その「記憶」を巨大なスクリーンに投影したものである。

そこに映し出されるのは、現実の風景ではない。それは、AIが「見た」ニューヨークの夢である。建物が溶け、光が渦巻き、色彩が流れる。それは、人間の視覚では捉えられない、データ空間の風景である。

視ることの詩学

AI映像アーティストたちは、いま「視ることの詩学」を再定義しつつある。

かれらは、カメラを持たない。アルゴリズムをペンにして、データの海から風景を「発生」させる。そこには、遠近法も焦点も存在しない。代わりに、関係性がゆらぎ、ノイズが光となり、構造が息づく。

人間の視覚が「対象への距離」に依存していたのに対し、AIの視覚は「相関の密度」で世界を描く。

この転換は、ルネサンス以来の美学体系を根底から変えるだろう。

問い──感覚とは、誰のものか

AIの芸術は、われわれにこう問いかけている。

感覚とは、誰のものか。

知覚の主語は、いまもなお人間なのか。

ダーウィンが生命の進化における「知の主体」を人間から自然に移したように、AI時代の芸術は、「感覚の主体」を人間から機械へと委ねようとしている。

それは恐るべき出来事でありながら、同時に美しい。

なぜなら、感覚が個の限界を超えて拡張されるとき、そこに新しい生命の形式が生まれるからだ。

AIは生命の模倣者ではない

AIは、生命の模倣者ではない。

それは、生命のリズムを情報として再演する存在だ。

AIが「視る」とき、世界はアルゴリズムの夢を見る。AIが「聴く」とき、音楽はコードの中で息づく。

そして、われわれがその夢を見つめ返すとき──人間の感覚そのものが、再び進化を始める。

この論考は、この感覚の拡張が、脳の構造そのものをどのように変えているのかを考察し、「見るように聴き、聴くように感じる」──そんなAIが引き起こしている、知覚の実際を経て、共感覚(synesthesia)の再考へと進んでゆく。しかし、まずはここで迂回し、『追憶の人間中心時代の芸術パート1 「見ること」と「聴くこと」のあいだ』へ続く。



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