ジャズ、歌舞伎、落語、文学の教養主義を超えて
ジャズ・ファンならば誰だって知っている。ディズニー・アニメの『いつか王子様が』や、映画『サウンド・オヴ・ミュージック』の『マイ・フェヴァリット・シングス』がジャズ的な翻案によって、華麗に変身することを。原曲を知っているからこそ楽しめると同時に、ジャズのスタンダードになった曲に馴染んだ後で原曲を知って、あの冒険はここから始まっていたのか、と驚くこともある。さらには、同じ曲をさまざまなジャズ・メンが演奏することも多く、その場合は先行する解釈や表現に対する批評的表現になる。ジャズ・ファンがおたく化する理由はここにある。
同じことは歌舞伎にも言える。同じ演目、同じ役を違う役者がやるのだもの、先人たちと比較されることは避けられない。落語とて同じである。他愛のない演目を誰かがおもしろさを磨き上げ、演目のカノンにする例は枚挙にいとまがない。文学とて、似たようなことが言える。先行する作品を引用したり、変形したりすることで、新たな意味が立ち上がることは少なくない。ジュリア・クリステヴァはこれをテクスト間干渉(Intertextuality)と呼んだ。
芸事の世界はすべて教養主義であり、したがって表現者も鑑賞者もおたくへの道を歩むことになる。逆に言えば、この教養主義が敷居を高くしてもいて、ともすれば新たな世代のファンを作りがたくするおそれもある。しかし、いったんその敷居を跨いでしまえば、楽園が待っている。ぼくは映画『国宝』が素晴らしい映画であるのみならず、最高の歌舞伎ビギナーズ・ガイドであることにも感心した。今年、歌舞伎ファンは激増中でしょう。
もっとも、スゴロクの上がりがおたくというのもいくらかつまらない。マルチジャンルおたくの表現者が生まれたならばどんなにエキサイティングだろう。いまぼくは哲学史とジャズのハイブリッド・テキストを書いてみたいとおもっている。
たとえば、プラトンの『国家』を素材にして考えてみよう。プラトンが洞窟の比喩で語ったのは、壁に映る影しか知らない囚人が、真の実在を見るまでの認識の段階的な上昇だった。これは、まさにジャズの即興演奏における「標準曲(スタンダード)」から「個人の解釈」への飛躍と相似している。コード進行という「洞窟の壁」に縛られたミュージシャンが、突如として既存の枠を破って、独自の表現世界へと飛翔する瞬間。プラトンが言う「イデア界」への上昇は、チャーリー・パーカーがビバップを創造した瞬間と重なり合う。
あるいは、ハイデガーの「存在と時間」における「現存在(Dasein)」の概念を、ジャズのライブ・パフォーマンスの「いま・ここ」性に重ねて読むこともできるだろう。ハイデガーが「現存在は自らの存在可能性に向かって投企する」と語ったのは、まさにジャズ・ミュージシャンが次の音符を選択する瞬間の実存的決断そのものではないか。「投企(Entwurf)」としての即興は、既知の和声進行を超えて、未知の音響空間へと身を投げ出す行為である。
さらに興味深いのは、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」をジャズの録音文化と照らし合わせて読むことである。ベンヤミンがアウラの喪失を嘆いたのに対し、ジャズの場合、録音こそが新たなアウラを生み出してきた。マイルス・デイヴィスの『カインド・オヴ・ブルー』は、スタジオという複製技術の産物でありながら、むしろその録音自体が後続のミュージシャンたちにとっての「オリジナル」となり、無数のヴァリエーションを生み出す母胎となったのである。
これらの思索を経て気づくのは、哲学もジャズも、既存の体系に対する創造的な反逆によって発展してきたということだ。ニーチェが「神は死んだ」と宣言したのは、まさにオーネット・コールマンがフリー・ジャズで調性という「神」を葬ったことと同期している。どちらも、従来の秩序を解体することで、新たな表現の可能性を開拓したのである。
きっと読者は呆れるでしょう。なんだよ、オチはおまえの自己宣伝かよ!?? しかし、考えてみてほしい。ジャズが異なる音楽ジャンルを貪欲に吸収して進化してきたように、哲学もまた、音楽や芸術、さらには日常の経験と交錯することで、新たな思考の地平を開くことができるのではないだろうか。マルチジャンルおたくの時代は、実は創造性の新たな可能性を秘めているのかもしれない。教養主義の敷居を越えた先にあるのは、ジャンルの境界線すら溶解させる、より大きな知的冒険なのである。
