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フランス現代思想の黄金時代は終ってしまったの?――近代知との交差から考える

フランス哲学の国民的な「癖」

哲学は人文学のなかの数学である。ただし、普遍的な思考の形式を追い求めながらも、その方法と関心には必ず国民的な「癖」が刻まれる。フランス哲学にもまた、革命と共和政を経た歴史が育んだ、自由・平等・友愛の概念を絶えず刷新し、闘争するスタイルが刻印されている。

フランスは不思議な国だ。ルノーやプジョー、ソシエテ・ジェネラルなどの産業資本もあれば、マティスやピカソを貸し出すだけで膨大な外貨が流れ込む文化資本もある。ワイン、美食、香水、オートクチュールに加え、文学・映画・哲学までもが輸出産業となる。哲学を国家の顔にできる国は、そう多くない。

バカロレア(大学入学資格試験)では、18歳の受験生に「科学は真理への欲求を満たしうるか?」「幸福は理性に関わる事柄なのか?」「平和を望むことは正義を望むことなのか?」などの哲学的設問に4時間で答えさせる。正解はなく、ただし過去の哲学知を踏まえなければ論じることはできない。もちろん攻略本的参考書もあるとはいえ、それもまた哲学知の学びと活用の手引きになるほかない。すなわち、普遍知を若者に課すこの制度は、近代ヨーロッパの古典的教育理念――理性の涵養――を現代に生き延びさせているのだ。

もっとも、人文・社会科学を重視するあまり自然科学教育が手薄だとの批判もあるし、グローバル化の世紀においてフランス語への固執が「文化的ガラパゴス化」を招くという指摘もある。しかし、日本の戦後文化がジャズと並んでサルトル全集やカミュ、サガン、フランス映画を熱心に受容したことを思えば、その磁力はいまだ侮れない。

戦後文学から構造主義へ

戦後フランス文学の多くは、帝国の解体と植民地経験、対独戦争の屈辱を背景にしている。ヌーヴォー・ロマンの諸作家、フランス領アルジェリア出身のカミュ、ヴェトナム生まれのデュラス、ナイジェリアで育ったル・クレジオなど、その作品群は、近代国民国家と不可分だった「国民文学」を決定的に別の位相へ移行させた。

続く文化人類学者レヴィ=ストロースは、近代ヨーロッパの自己中心的普遍主義を解体し、神話や親族構造を普遍的パターンとして読み解いた。これが「構造主義」へと結実する。構造主義は古典的近代知――啓蒙主義的理性や科学の普遍法則――を継承しつつも、それを相対化する方法論だった。

フーコー、ラカン、そして逃走線

ミシェル・フーコーは、近代的主体の成立を歴史的言説の積層として描き、「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」と宣言した。『狂気の歴史』や『性の歴史』では、制度がどのように身体や性を規律化するかを暴き、古典的自由概念を根底から批判した。ただし、その史料運用の恣意性や解釈の妥当性については、今日でも議論が分かれる。

ジャック・ラカンはフロイトを読み替え、「無意識は言語のように構造化されている」と定式化した。主体は他者の言語によって構成される――これは近代的自律主体の理念を根底から揺さぶった。

ラカンに学びつつ反発したのがドゥルーズ&ガタリだ。『アンチ・オイディプス』で彼らは、資本主義と分裂症(=統合失調症)を同一運動の別位相と見なし、欲望を家父長制家族の檻から解放しようとした。『千のプラトー』では「逃走線(ligne de fuite)」をキーワードに、固定化された構造からの脱出の可能性を描いた。

浅田彰『構造と力』――日本的交差点

こうした思想潮流を日本において独自に編集したのが、浅田彰の『構造と力』(1983)だった。浅田はマルクス主義的資本主義史観と構造主義・ポスト構造主義を接合し、ラカンの精神分析を導入、さらにドゥルーズ&ガタリの「逃走」に解放の可能性を見た。

この書物は、フランス現代思想を輸入解説するだけでなく、近代日本の経済・社会構造を射程に入れ、資本主義の変容をグローバルかつ理論的に捉え直す試みだった。言い換えれば、啓蒙期から続く近代知の系譜にポスト構造主義を接続し、批判と可能性を同時に提示した、日本的「交差点」だったのである。

脱構築からポスト・ポスト構造主義へ

デリダの差延概念、ミシェル・セールの科学と人文知の架橋、ロラン・バルトの記号論拡張など、70〜80年代のフランス思想は、近代的普遍性の枠組みを壊しつつも、その遺産と格闘し続けた。その戦闘性は、古典的近代知と切断されるのではなく、むしろそれを反転させることで新たな思考の場を切り開いたと言える。

90年代後期から2000年代初頭にかけて、フランス本国でも思想の方向転換が見られる。アラン・バディウの『出来事の哲学』は、出来事(Événement)を、既存の状況を根本的に変革する可能性を持つ、突発的な出来事として定義した。ジャック・ランシエールの政治美学論は、従来の美学が〈崇高〉を評価基準にしたことを退け、代わってその対立概念としての美を擁護し、現実的で具体的なもの・卑俗なものをそれ自体として評価する。こうして新たな政治哲学の模索がはじまった。これらは先行世代の「反形而上学」を一歩進め、むしろ積極的な存在論的・政治的主張を展開する傾向を示している。

21世紀――多極化する思想地図

21世紀に入り、思想の重心は多極化した。日本では柄谷行人が『トランスクリティーク』(2001)でカントとマルクスを架橋し、資本=ネーション=国家の三位一体構造を批判的に分析、「世界共和国」構想へと展開した。これはフランス現代思想の遺産を受けつつも、グローバル資本主義の構造転換に応答する試みであり、浅田彰の『構造と力』が切り開いた路線をよりマクロな地政学的スケールに押し広げたものだった。

ヨーロッパではスロヴェニア出身のスラヴォイ・ジジェクが、ラカン派精神分析を武器に、ポスト冷戦後の資本主義とイデオロギーを再読。ハリウッド映画からヘーゲル哲学までを同一線上で論じるスタイルは、80年代フランス思想の批評性をグローバル・ポップ文化に接続し直した。

文学の側面では、英語圏でも活動するクンデラ、ブルガリア出身のジュリア・クリステヴァ、そしてジュンパ・ラヒリのような移民系作家たちが、言語横断的な自己形成をテーマにして世界文学の一角を占めた。かれらの作品は、国民文学の境界を越えた「トランスナショナルな近代知」の現代的形態とも言える。アメリカ人の日本語作家・リービ秀雄や、台北生まれ東京育ちの温又柔、はたまた日本語作家‐ドイツ語作家でともにあり続ける多和田葉子もまた同様の位相にある。

さらには、フランスではランシエールやバディウの後を継ぐ、フランス現代の若手~中堅哲学者(例えばブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論や、新しい主体を構築するエティエンヌ・バリバールの市民権論)も出てきている。


黄金時代の変容――終焉か、変身か

したがって、フランス現代思想の黄金時代は終わってしまったのか。その答えは単純ではない。

確かに70〜80年代のような圧倒的な影響力と新鮮さは薄れている。しかし、2000年以降の思想地図は、フランスを中心とした一極構造から、多極的・横断的ネットワークへと移行している。フランス現代思想がかつて果たした役割は終わったわけではない。むしろ、その批判精神と方法論は、言語、国境、分野を越えて新しい形で流通し、変容を続けている。

フランス現代思想は、近代の遺産と訣別するのではなく、それを抱えたまま別の地平へと押し出すための〈闘いのスタイル〉として存在してきた。この戦闘性こそが、今日でもなお世界各地の思想的営為に息づいている。黄金時代は「終わった」のではなく、地殻変動の末に別の大陸に連続し、新たな形で開花しているのだ。

つまり、フランス現代思想の役割は終わっていない。
国内外の新潮流をつなぐネットワークが形成されているからだ。





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