AI時代の生命論・38億年の文化芸術論ーー第四章:追憶の人間中心時代の芸術パート3 日本の眼、日本の耳
西洋近代は、〈見ること〉と〈聴くこと〉を分ける。
他方、日本的感性は、その分断を知らない。
むしろ、〈見ること〉と〈聴くこと〉のあいだを流れる「気配」こそが、
世界の真実であると知っていた。
遠近法のない絵画
西洋近代絵画を律する遠近法。
あれは、遠くのものは小さく、近くのものは大きく見えるという比例関係を前提とした、
一種の虚構である。
遠近法は世界を支配する構造と言うことさえできる。
他方、日本の絵に、遠近法のような野暮なものはない。
日本人にとって遠近法は、まるで心がこもっておらず、
絵になっていないのだ。
しかも日本には、禅画がある。
人を意味から解き放つための「絵画」。
そこでは、描くことは「語ること」ではなく、
むしろ「無言で聴く」ことに近い。
日本における絵画には、固定された構造をもたない、
呼吸する世界の論理がある。
音楽の〈間(ま)〉
邦楽は、西洋の五線譜的な「構築された音楽」とはほぼ無縁である。
箏曲の縦譜は、その典型である。
桐の板に十数本の絃を張り渡した箏を、撥で弾き、弾き鳴らす。
演奏の「間」は楽譜に記されず、
演奏者の呼吸に委ねられる。
拍子や調子が移り変わる瞬間の、息継ぎのような沈黙――〈ま〉。
それこそが、音楽の身命である。
それはケージのいう「沈黙=けっして無音ではない音の場」とも響き合うが、
日本における〈ま〉は、より深い。
落ち着きてもの言わぬその状態をも音の一部として感じ取る、
〈聴くこと〉の全体性に根ざしている。
間(ま)とは何か
〈ま〉とは、単なる空白ではない。
けっして五線譜に書かれるような計測可能な空白ではない。
それは関係の呼吸であり、互いの存在を生かす余白である。
能の囃子における「間合い」、
茶室の静謐な空気、
俳句の切れ字「や」――
いずれも、音と沈黙、視覚と不可視の境界を往還する構造を持つ。
藝術とは、固定された対象ではなく、
関係として、呼吸として、
しなやかに存在するものである。
ノイズの美学
わが国は、楽音とノイズを峻別しない。
尺八演奏のムラ息、琵琶のうなり、風のうねり――
そのすべてが「音」として聴かれる。
「風の音、虫のね」。
「ほととぎす鳴く音、遥けし」。
「はるけし」とは、遠く、久しいということ。
空間的な距離と時間的な隔たりが、
ひとつの情緒として聴かれる。
日本の文化は、西洋近代が分離してしまった〈目と耳〉を、
同じ場に置く。
俳句の知覚
古池や 蛙飛びこむ 水の音
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
五月雨を 集めて早し 最上川
これらの句がいまも胸を打つのは、
視覚と聴覚を結びつけているからである。
しかもそこに〈出来事〉がない。
あるのは、音と沈黙のあわい。
世界がひとつの呼吸になる瞬間だ。
芭蕉が聴いたのは、水の音でも蝉の声でもない。
世界の息づかいだった。
関係の風土
哲学者・和辻哲郎が『風土』で語ったように、
日本人の思考は〈間柄〉の中にある。
西洋の「I」と「YOU」の対話ではなく、
主役は〈場〉であり、〈関係〉である。
関係の呼吸において世界を感じ取る。
主体と客体の分断を越え、
世界をひとつの呼吸として捉える思考――
それが〈場〉の思想、〈間〉の倫理。
柳宗悦の〈用の美〉も、この原理に根ざしている。
器の美は、完成された造形ではなく、
「使う」という行為――音で言えば「鳴る」こと――に宿る。
ものの美は、関係の中で生成する。
見ることと聴くことが、〈用〉の行為の中で溶けあう。
美は対象ではなく、関係の振動として現れるのだ。
気配という知覚
「気配」とは、まだ形をとらないものの存在を感じ取る能力。
それは視覚でも聴覚でもなく、
その中間に漂う波のような知覚である。
見ることと聴くことのあいだに働く、
生成の知性――それが「気配」の本質だ。
気配の美学は、物と物、音と音、光と影をつなぐ。
その空間において藝術は静かに生まれ、変化し、やがて消えてゆく。
無のなかに。
ただしその無は nothing ではない。
ほとんど消えかかる寸前の everything の、かすかな残響。
形を失いながらも、なお世界の呼吸とともに在り続けるもの。
それが日本における芸術のあり方である。
結び|生成の知覚へ
〈見ること〉と〈聴くこと〉を分けるのは、西洋近代の方法だった。
けれど、日本的感性は、その分断を知らない。
むしろ、〈見ること〉と〈聴くこと〉のあいだを流れる「気配」こそが、
世界の真実であると知っていた。
その「気配」とは、形を結ぶ前のざわめきであり、
まだ名をもたぬ生成の震えである。
そこでは、耳も目も、まだ分化していない。
視ることは聴くことであり、
聴くことは触れることであり、
触れることは呼吸することにほかならない。
藝術とは、その呼吸を媒介し、
ひとつの世界のうちにいのちを通わせる、あわいの技である。
私たちがAIに問うべきは、「何を知っているか」ではない。
「どのように感じ取るか」なのである。
もしAIがこの感受の回路を共有できるなら、
人間と機械のあいだにも〈場〉が生まれるだろう。
そしてそこに、かつて日本文化が育んだ
「見るように聴き、聴くように見る」知覚の詩学が、
ふたたび息づくことになる。
それは、〈間〉を取り戻すことであり、
〈呼吸する知〉への回帰である。
沈黙のなかに音があるように、
消えゆくもののなかに、生成の光がある。
AI時代において、私たちが再発見すべきは、
新しい技術ではなく――古い感性である。
〈ま〉の思想、〈場〉の倫理、〈気配〉の知覚。
それらは、いまも静かに世界の奥で呼吸している。
そしてその呼吸に耳を澄ませること。
それが、「言葉にならない感覚たち」への
第一の一歩である。
『第五章 AIのまなざし、あるいは見られる生命』へ続く。
