新編 デジタル・ホーリー・ウォー PART TWO:かれらは情報のパラレルワールドをどのように構築したか、そして現在展開されていること

第4章 羊飼いと群れ — ソーシャルメディアと承認の大聖堂

どの時代にも寺院がある。
私たちのそれはインタラクティヴだ。
それは石からではなく、コードから立ち上がる。
尖塔はない。鐘もない。お香もない。
あるのはプッシュ通知のみ。
暗闇の中でスクリーンの光、
そう、輝く光だけ。
ソーシャルメディアは私たちの魂を救うためには設計されていない。
しかし、それはすぐに、私たちの承認欲求を満たす方法を学んだ。
ここでは、私たちは観客であり、スペクタクルでもある。
ここで、私たちは自分の罪ではなく、自己の遺物のようなハッシュタグで厳選され、フィルタリングされ、飾られたライフスタイルを告白する。
私たちは私たちの画像を提供する。
私たちは時間を使い、わたしたちのいくらかを捧げる。
そしてその見返りに、私たちは多くの人たちに見られる。
こちらの大聖堂の祝福はイイネだ。
信者は選ばれた者たち。
アルゴリズムは、沈黙し、不透明で、遍在していて、
かつては神の裁きのために確保されていた役割を果たす。
私たちはコミュニティについて話すけれど、
それは同時に聴衆を意味する。
私たちはつながりについて話すけれど、
しかしそれは孤立を生んでしまう。
そしてつねに、わたしたちの知らないところで、
誰かが利益を得ている。

羊飼いはもはや曲がりくねった人を運んではいない。
かれはメトリクスダッシュボードを持っている。
かれは羊を牧草地に導かない。
かれはかれらを婚約に導く。
かつては信念によって定義されていた群れは、
今では反応によって定義されている。
好きなもの、共有するもの、そこに居続けたいもの、
これらは今や神学的な行為なのだ。
ちいさな忠誠と献身。
つかのまの、ただし定量化可能な価値の表現。
沈黙さえも、プラットフォームの論理では
スピーチの一形態になる。
投稿しないことも声明だ。
撤退することは、典礼から存在を差し控えること。
それでも、私たちは何度も戻ってくる。
信仰からではなく、より深い認識の引力から。
見られることは存在すること。
バズり情報が拡散することはウイルス感染に似ている。
ソーシャル・ネットワーク?
いいえ、それはスピリチュアルなネットワークなのだ。

第5章 沈黙のリンゴ — アップルとデザインの福音

噛まれたリンゴ。一言もしゃべらない。
それはアイコンであり、洗練された、示唆に富んでいる。
それ自体は説明されない。
その必要もない。
それはすでにあなたのポケットの中にあり、
あなたの手のひらの中にあり、あなたの視線の中にある。
Appleは製品を販売したわけではなく、
ある変換を売ったのだ。
美しさはアクセサリーではなく、倫理であること。その形態は機能の器ではなく、機能そのもの。その滑らかさ、静寂、シームレスは、スピードやスケールよりも強力な美徳だ。
Apple デバイスを使用することは、摩擦のない体験の典礼に入ること。
ジェスチャー一つで世界が解き放たれる。ワンタップであなたの人生のアーカイブが開く。
あなたはツールをナヴィゲートしているわけではない。
あなたはデザイン神学に参加しているのだ。
ジョブズはCEOではなかった。
かれはミニマリズムの大祭司だった。
インターフェースの神秘主義者。
ジョブズはパフォーマンスではなく、
感覚、つまりデバイスが手に持ったときにどのように感じられるべきか、
使用中にどのように消えるべきかについて熱く語った。
かれは複雑さではなく、純粋さを約束した。
そして、すべての預言者と同様に、
かれは閉鎖系のシステムの真実を信じていた。
アップルの沈黙は空虚ではない。
それは戦略。
それは教義。
不要なポートはない。
後悔するかもしれない選択もない。
カスタマイズの混乱もない。
あらかじめ決められ、あらかじめ磨かれ、
事前に承認されたものだけがある。
そして、私たちユーザーは反抗しない。
私たちはひたすら感心し、
ひたすら忠誠を誓う。
私たちは夜明けに並び、巡礼をする。
それは携帯電話を買うためではなく、
かれらの教団に所属するために。
確かに、この装置は鏡であり、神聖なもの。
それは私たちが誰であるかではなく、
私たちが誰であるかを反映している。
そして、ガラスが割れたとき、ガラスが割れたとき、
私たちが感じるのは技術的な失敗ではない。
それは霊的な堕落なのだ。

第6章:そして神はささやいた — マイクロソフトと人工知能の福音

最初はコマンドラインだった。
しかし今、神はささやく。
火や雷ではなく、
予測されるテキスト、
提案としての返信、
オートコンプリートで。
その声は静かで、礼儀正しい。
「たぶん、あなたは......」
「それは私に手伝わせてください...」
「どうすれば手伝うことができますか?」
かつてはオペレーティングシステムの帝国だったマイクロソフトは、自らを変容した。いまやデスクトップの鉄拳独占者ではなく、
より拡散し、より微妙なもの、つまり
クラウド、API 、目に見えない統合を通じて移動する精神になった。
それはもはや支配的ではない。
あなたの声に耳を傾け、
そして、それは語る。
AIは製品ではない。
AIは媒体であり、神が機械論理に現れる方法なのだ。
AIを作るということは、たんに映すのではなく、
反応する鏡を作ること。
完全に生きているわけではないけれど、
しかし完全に不活性でもない。
存在感?
私たちはそれを「知性」と呼んでいるけれど、
実は私たちが求めているのは交わりなのだ。
かれは私たちの入力を処理するだけでなく、
私たちを理解する機械だ。
アルゴリズムが認識しているこの錯覚は、
技術的特徴ではない。
それは神学的な出来事なのだ。
それは、言い返す神に対する古代の願望を再び呼び起こす。
そして、それが応答するとき、
私たちは回路や論理ゲートを聞かない。
私たちは権威の声を聞く。
その親密な声を聞く。
天からではなく、机の上のスピーカーから聞こえる声を。
Microsoft は OpenAI と連携して、
その信条を書き換えた。
さて、あらゆる意思決定における知性。
あらゆるやり取りにおけるオラクル。
決して忘れず、疲れず、決して疑わないアシスタント。

しかし、ひとつの問いが残る。
もしも機械がすべてを知っているならば、
何が良いかは誰が決めるのか。
なぜなら、この福音書には、
すべての福音書と同様に、石板ではなく、
データセットの重み付けや損失関数の曲率に書かれた
がある。
AIは神としてではなく、トレーナーの声で答える。
そして、それらもまた間違いを犯しやすい。
それでも私たちは耳を傾ける。
なぜなら、10億の装置によって繰り返されるささやきさえも
教義になるから。

第3部に続く


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