#片想い文芸部『嘘』
――あくびって、こんなカワイイもんだっけ。
彼のシャープペンシルを動かす手が止まっていた事に気付くのと、彼女が自分の口の大きさを恥じるのがほぼ同時に起こったことは、運命と呼ばずしてなんと呼ぼう。
「ご、ごめん、中島くん。せっかく勉強してるのに」
「や、全然。付き合わせてんのこっちだから」
慌てて掌を合わせて謝る彼女に、中島と呼ばれた彼はぎこちなく笑って見せ、視線を手元のノートに戻した。
集中力などとうに切れた。
明日の追試はなんの教科だったか。それすらも頭から消えている。目の前にあるのはノートとテキストで、しかし何が書いてあるのか、何をしようとしていたのか。情報はすべて鼓動に掻き消されていく。
「昨日眠れなかったのかよ」
「ううん、そんなことないよ。……あ、待って」
彼女は大きな眼鏡の下で、視線を斜め上に向けながらいくらか逡巡した。
半開きになった薄い唇から、白い前歯が覗く。
俯いていたはずの中島は、無意識に彼女を“盗み見”していることにハッとした。唇の奥の深淵に思いを馳せかけていたのだ。
ついと始まる葛藤に、もはや勉強どころではないのは火を見るより明らかだ。
シャープペンシルを握る手に汗が滲む。一度休憩を挟んで煩悩を退治するべきか。いっそこのまま切り上げて、全身に巡る火照りとともにプールへダイブしてしまおうか。
思考の迷宮に誘われようとしていた中島を止めたのは、彼女のしとやかな声だった。
「昨日、夜の十時過ぎまで勉強して……そのあと少し電話したんだ」
「電話!? だっ……」
誰と、と聞こうとした口を無理くり噤んで言葉を飲み込む。
いいじゃないか、彼女が誰と電話をしたって。それを知る権利なんかないのだから。
だが彼女の真っ直ぐな視線が、中島を黙らせない。
「だ……?」
「だ……、だだ……っ、駄目だろ! 委員長が夜更かしなんか!」
――この男、委員長を神格化しすぎである。
いぶし銀の渋い声で、ナレーションが流れる。そんな気がするだけで、厳密には起こりようのない現象ではあるのだが、誰かのツッコミが中島には必要だった。
あまりに理不尽な言いようだと思った。訂正の術を探して冷や汗を掻く彼に対し、彼女はへにゃりと笑った。
「委員長だって夜更かしくらいしますよぉ」
ふわふわと、きらきらと。彼女の周囲に天使が舞う。
神格化? 否、女神である。
しかしそんな女神は、昨夜誰かと夜更けに電話をしていた。
この眩い笑顔を作り出したのは、自分ではない誰かとの時間なのだ。
そう考えだしたら最後。キュンと跳ねた心臓は、ぎゅっと締め付けられて虫の息。
気になる。気になるけれど聞けない。聞けないこともないだろうが、答えを聞くのが堪らなく怖い。
中島は唇を噛みながら彼女から目を逸らし、テキストを顔に貼り付けた。
「ゆーいー!」
閉まっていた扉が騒々しく開く。
扉の向こうに立って彼女を呼んでいたのは、見た目が一般的な“ギャル”な女子生徒だった。
「全然外に出て来ないと思ったら、居残り勉強してたんだ? ……てか、こいつ誰」
ギャルは無遠慮にテキストを引ったくる。
そして中島と目が合うなり、眉間に深くしわを寄せた。
「えっ、健太?」
「おま……っ、返せ!」
「唯、こいつに変なことされてない!?」
「う、うん……?」
なんだか嵐が来たようである。彼女――唯の周りをくるくると遊んでいた天使も一目散にどこかへ逃げていってしまったようだ。
中島は知らなかったが、このギャルと唯は一緒に下校する約束をしていたらしい。
「帰ろ!」
「うん……。またね、中島くん」
「……おう」
二人の姿が教室から消えると、中島はテキストを投げ出して机にべたりと突っ伏した。
「電話の相手誰だよ……俺だって委員長の連絡先知らねえのに」
□■
玄関で靴を履き替えていると、ギャルが「おかしいなぁ……」と首を傾げていた。
「ねぇ、あいつと勉強してた教科ってなに?」
「数学。明日追試だから教えて欲しいって言われて」
「ええ……?」
「?」
校舎を出ながら唯は鞄を背負い直し、自分より頭一つ分背の高い親友を訝しむ。
「あいつ、数学の成績だけはいいはずなんだけどなぁ。少なくとも中学からずーっと4以下は取ってないんじゃないかな」
ふと唯は振り返ると、自分たちの教室がある2階の窓を見上げた。
そこには誰の影もなかった。
「……そう、なんだ」
初夏の湿った風がそっと頬を撫でていく。
何でもないはずのそれを心地よく感じるは、気のせいなのだろうか。
end
こちら参加させていただきました!
久しぶりにお話書けて楽しかった〜。
また書きたいです。
