見出し画像

已讀的海(既読の海)

このジャンルのマガジンはこちら↓


「既読」が付くたびに、ひとつずつ、私の生活の断片が向こう側へ削られていった。

1|台南の夜と、一行の中国語

最初のメッセージは、台南の夜市の写真だった。

「今天真的很開心,謝謝你帶我逛一整天。」
—— そんなふうに、彼女は送ってきた。

名前は、イーレン。
台南のゲストハウスで同室になった台湾人の女の子だ。
日本語は少し、英語はそこそこ、中国語は私が勉強中。
三つの言語を寄せ集めた、不安定な橋の上で仲良くなった。

旅のあいだ、私たちのチャットはよく動いた。

  • 「你今天去哪裡玩?」

  • 「好熱喔~出門前就想回家。」

  • 「夜市の臭豆腐、意外といけた!」

返事が早いときもあれば、数時間あくときもある。
それでも、吹き出しの往復は、確かにそこにあった。

帰国の日、台南駅の改札で、イーレンは笑って言った。

「回到日本之後,也要跟我聊天喔。」
—— 日本に戻っても、ちゃんと連絡してね。

そのときの私は、「もちろん」と答えることに、何の迷いもなかった。

2|静かになったチャット欄

日本に戻って二週間。
チャット欄は、静かに沈んでいった。

最初の一週間は、お互いに旅の写真を送り合った。

「ここ、覚えてる?」
「你那天的表情超好笑。」

ところが二週目に入ると、タイムラインは一気に「日常モード」に変わる。
上司からのメッセージ、プロジェクトチャット、家族グループ。

——仕事が立て込んできたから、あとで落ち着いたら返そう。

そう思ったまま、イーレンの吹き出しをタップする回数は減っていった。

「最近還好嗎?」
ある日、彼女から来たその一行に、私はその日じゅう返信できなかった。

タイムスタンプの横に、小さく「已讀」の文字が並ぶ。
既読は付いている。
でも、その下に自分の吹き出しが増えない時間が、やけに重たく感じた。

——明日、ちゃんと返そう。
——週末に、まとめてゆっくり返そう。

そうやって伸ばした週末も、結局仕事のメールに潰された。

気づけば、最後のやり取りから、二週間以上が過ぎていた。

3|「你現在在哪裡?」と打った夜

その夜は、どうしても寝つけなかった。

ベッドの上でスマホをいじっているうちに、台南の写真フォルダを開いていた。
夜市のネオン、台南駅のホーム、ゲストハウスの談話室——そして、
紙コップのコーヒーを持って笑うイーレンの写真。

「……今、どこにいるんだろう。」

衝動に近いものが、指先を動かした。

你現在在哪裡?

ローマ字入力で打って、変換して、その一行を送信する。
深夜一時過ぎ。台湾は一時間遅いから、まだ零時。

——さすがに、こんな時間に返事は来ないよな。

そう思って画面を閉じようとした瞬間だった。

「……え?」

通知音が、すぐに鳴った。

4|知りすぎている返信

画面には、彼女の名前と、短い一文。

在你房間門口啊。

——あなたの部屋のドアの前だよ。

背中を、冷たいものが走る。

冗談かと思った。
時差ボケでテンションがおかしくなっているだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、「哈哈」スタンプを送ろうとして、指が止まった。

続けて、メッセージが流れ込んでくる。

你家門口右邊有一個紅色的滅火器,旁邊是藍色的回收箱。
今天你回家的時候,鞋子踢到了一下,忘了擺好。

(あなたの家のドアの右側に赤い消火器があって、その横に青いリサイクル箱があるでしょ。
今日帰ってきたとき、靴で軽く蹴って、そのままちゃんと戻してないよね。)

心臓が、一拍遅れて動き出す。

——そんなこと、話したことはない。

さらに追い打ちをかけるように、メッセージは止まらない。

你今天晚餐吃的是便利商店的炸雞跟啤酒。
你猶豫了很久要不要買沙拉,最後還是沒有。
因為你心裡想:「明天からでいいか」對不對?

(今日の晩ごはん、コンビニのからあげとビールでしょ。
サラダ買おうかどうかすごく迷って、結局やめた。
心の中で「ダイエットは明日からでいいか」って思ったよね?)

喉が、うまく動かない。
確かに、さっきコンビニでそう考えていた。
声に出したわけでも、メモに残したわけでもない。
頭の中だけのつぶやきだ。

私は震える指で、日本語のまま打ち込んだ。

「どうやって知ってるの?」

送信ボタンを押すか迷う。
迷っている間に、また「已讀」が付く。
そしてすぐに、返事。

我一直都在看啊。
你的訊息、你的草稿、你刪掉的那些話。

(ずっと見てたよ。
あなたのメッセージも、下書きも、消した言葉も。)

5|「既読」の向こう側

チャット欄が、急に明るくなった気がした。

イーレンとのトーク画面の履歴が、上から順に書き換わっていく。
見覚えのない吹き出しが、次々と間に挟まれていくのだ。

「ごめん、仕事が忙しくてさ……」
「ほんとはもっと連絡取りたいんだけど」
「旅行のテンション、もう冷めちゃったかな?」

全部、私が「送らなかった文章」だった。

あの日、返信しようとして打っては消した言葉たち。
誰にも届かないまま削除した、日本語と中国語の混ざった文。

それらが、なぜかすべて「彼女からのメッセージ」として差し込まれていく。
吹き出しの色も、向きも、タイムスタンプも、勝手に組み替えられていく。

「やめて……」

声に出した瞬間、画面の上部にあるイーレンの名前が、すっと変わった。

已讀的海

——已讀の海。

チャットの背景色が、じわりと暗く沈む。
まるで、画面全体が深い水槽のようになり、
吹き出し一つひとつが、底から浮かび上がる泡みたいに見えた。

這裡很安靜。
也很熱鬧。
每一個沒有被回覆的訊息,都會游過來。

(ここはすごく静かだよ。
すごく賑やかでもある。
返事をもらえなかったメッセージが、全部ここに泳いでくるから。)

言葉の意味を理解した瞬間、通知が立て続けに鳴り始めた。

職場のグループチャット、家族 LINE、大学時代の友人グループ。
すべてのトークルームで、過去のメッセージが勝手にさかのぼり、
「既読」の印が、一斉に付いていく。

——私がまだ開いていないはずのトークまで。

スクロールバーが勝手に動き、未読マークが次々と消えていく。
それなのに、どの画面にも、新しい吹き出しは現れない。

ただ、「已讀」という小さな文字だけが、延々と並んでいく。

6|招き声と、最後の沈黙

イーレン——いや、「已讀の海」は、優しい声で誘ってきた。

你不是一直很怕「打擾到別人」嗎?
在這裡,不會喔。
這裡沒有忙碌的人,沒有已讀不回。
每一句話,都會被確實看到。

(あなた、いつも「相手の迷惑になりたくない」って怖がってたでしょ?
ここでは、そんなことないよ。
ここには忙しい人も、已讀不回もない。
どんな言葉も、ちゃんと見てもらえるから。)

画面の向こうから、いくつもの吹き出しが重なって現れる。

「最近還好嗎?」
「ごめん、返事遅くなっちゃって」
「また遊びにおいでね」

台南で出会ったイーレンだけじゃない。
返信しそびれた友だち、うまく距離がつかめずにフェードアウトした相手——
その全員の「最後のメッセージ」が、泡のように浮かんでは消えていく。

私は、震える手で、一行だけ打ち込んだ。

真的有人在那裡嗎?

(本当に、そこに“人”がいるの?)

しばらくタイピング中のマークが点滅し、「已讀」がついた。

返事は、一文だけだった。

你也可以來看看。
只要,再多幾個沒有回出去的訊息就好了。

(あなたも見においでよ。
あと少しだけ、返さないメッセージを増やすだけでいいから。)

その瞬間、スマホ全体から通知音が消えた。

翌日から、誰からもメッセージが来なくなったわけではない。
タイムラインは普通に動いている。
しかし、私の画面には、そのどれも「届かなく」なった。

職場の連絡はメールになるだろう。
家族は電話してくるだろう。
友だちは、別のグループチャットで私抜きの会話を続けるだろう。

ただ一つだけ確かなのは——
私が誰かに送るメッセージの半分ほどが、送信ボタンを押せないまま、画面の下で固まっていくようになったことだ。

夜、眠れないとき。
私はつい、イーレンとのチャット欄を開いてしまう。

そこには、相変わらず「已讀的海」という名前と、
あのとき送った一行が、最後の吹き出しとして揺れている。

你現在在哪裡?

その下に、新しい文字を打ち込んでみる。

我在這裡。

(私は、ここにいる。)

指が、送信ボタンの上で止まる。
押せないまま、画面の上の小さな文字だけが光る。

——已讀。

誰が読んでいるのか、もうわからない「既読」だけが、
静かな海みたいに、いつまでも消えずに残っている。

余韻のひとこと

沈黙は、ときどき相手への思いやりにもなる。
でも、「理由のない沈黙」が積み重なるとき、
誰かの言葉は、海の底に沈むみたいに、二度と届かなくなるのかもしれない。

内部リンク & 次回予告

前回④「根本原因:旅のあと『連絡の温度差』が生まれる初期設定」

 ——日本と台湾の「時間感覚」「礼儀テンプレ」「オンライン文化」「ハイ/ローコンテクスト」の違いから、沈黙の意味を整理した回です。今回の物語の“裏側のロジック”として、あわせて読むと世界観がつながります。

  • 次回⑥「旅行者ガイド:旅のあとも“ちょうどいい距離”で続ける連絡のコツ」
     ——旅先で出会った台湾の友だちと、帰国後どんな頻度・どんな言い方で連絡を続けると楽になるか。
     「最近還好嗎?」「有空再慢慢聊。」「你忙完再回我就好。」などの台湾華語フレーズを使った具体的なメッセージ例と、既読スルーが怖くなりすぎないための距離感の整え方を、旅行者目線でガイドしていきます。

いいなと思ったら応援しよう!