見出し画像

ホラー短編|見間違いの連鎖

このジャンルのマガジンはこちら↓


― 人手が足りないホテルの夜

導入


深夜二時。相澤(あいざわ)はロビーの時計の音を数える。ワンオペの夜勤。セルフ端末の画面は青白く、監視モニターは九分割で、彼のまばたきよりも冷静に世界を見ている…はずだった。


本編


0:12

自動ドアに近づく影が、雨粒を連れて滑り込む。モニターにはスーツ姿の男と、その半歩後ろに小柄な影。
フロントに現れたのはスーツの男だけだった。
「チェックイン、予約の田村です」
相澤は名簿を確認する。予約は一名。子ども用アメニティの欄は空白。
(さっきの影は…外のガラスに映った通行人か、遅延映像?)
視界の端で、濡れた床に小さな足跡が一瞬ついて、すぐに消えた気がした。モップを取りに立ち上がるのを、彼はやめる。

0:41

清掃アプリに英語のチャットが届く。

“Room 708 towel please.”
708は“空室”のはずだ。
(780のタイプミス…? いや、うちは700番台は東棟。780なんて部屋はない)
ログを見ると、708の廊下センサーが三度、低い反応を出している。風か、配管か、あるいは。
「確認だけ…」
彼は立ち上がるが、フロントのベルが「チリン」と鳴ったように聞こえて足を止める。鳴っていない。耳の癖だ。

1:07

エレベーターのモニターに女性の横顔が映る。
フロントに降りてくるはずの扉は開いて、誰も出てこない。
(上行きに切り替わった?)
もう一度モニターを見ると、同じ女性が、同じ動きで映っている。巻き戻しのような、しかし操作はしていない。
夜間モードのカメラは、時々“記録を追いかけながら”現在に追いつけなくなる。相澤は前の職場で学んだ。学んだつもりだった。

1:33

相澤は躊躇して、マスターキーと無線だけを持つ。
東棟、七階。廊下の照明が足元で順に点く。ホテルの夜は、どこも教会のように静かだ。
707。無人。
708の前で、相澤は足を止める。ドアの下に、薄い水の影が滲んでいる。
(配管? どこから…)
ノック。返事はない。
「館内メンテナンスです。失礼します」
開錠。
冷たい、空気だけが出てくる。
洗面の鏡は曇り、指でなぞった跡が乾きかけている。
《まだ?》
ひらがな二文字のようにも見えたし、ただの筋のようにも見えた。

1:54

肌寒さに背中を押されて廊下に戻ると、清掃ロボが走行ルートを外れて停止していた。
画面が告げる「障害物検知」。
ロボの正面には、誰もいない。
ただ、カーペットがうっすら濃く濡れている。小さな足の幅で、エレベーターへ向かっているように。
(見間違いだ。湿気だ)
相澤はロボをリセットし、帰りのエレベーターに乗る。鏡に映る自分の顔がやけに血の気を失って見える。
「…ミント、買いすぎかな」
独り言は、天井に貼りついて消えた。

2:12

ロビーに戻ると、ソファの端に、淡い水の輪が残っていた。
「お客さま、傘は…」
と口に出しかけて、そこに誰も座っていないのを見てやめる。
自動ドアの外で、誰かの影が立ち止まる。モニター越し、薄い輪郭が、ずっとこちらを見ている。
相澤は解錠ボタンに指を添える。
開いたドアから入ってきたのは、冷気だけだった。
足元に、子ども用のスリッパが片方。濡れて、きゅっと鳴った。

2:21

「忘れ物…」
拾い上げると小さな冷たさが指に移る。タグのバーコードは、館内のものだった。客室アメニティの予備? だが、こんなサイズは入れていないはずだ。
PCの宿泊台帳に、見慣れない一行が走る。
708 チェックイン
相澤が瞬きをすると、取消に変わり、行は白く消えた。
(バグだ。夜間バッチの…)
ベルが鳴る。今度は確かに。
フロントに誰もいない。
ただ、ガラスの向こうで、雨粒の列がひとつだけ乱れる。そこに“人の輪郭”があるように。

2:44

相澤は自分でも気づかない早さで、もう一度七階へ向かっていた。
エレベーターの箱が上昇する間、天井のスピーカーから、ごく小さく鼻歌がする。気のせいだ。気のせいであってくれ。
708。
ドアは、今度は内側から、ゆっくりと数センチ開いた。
(誰かが宿泊しているなら、こちらのミスだ。謝って、フロントに戻して…)
ドアの隙間から、細い空気が抜ける音。
中は暗い。
洗面の鏡に、曇りでできた大きな楕円が二つ並ぶ。目の高さ。
相澤が一歩踏み出したとき、足元のマットがぐじゅ、と鳴った。
床には、客室用のモバイルキーが落ちていた。
それは708のキーで、発行時刻は2:44。
彼が七階に着いた、まさにその瞬間だった。

3:10

相澤はフロントに戻れなかった。戻らなかった。
ロビーの椅子の端には、もう片方の小さなスリッパが、無地の影のように置かれていた。
自動ドアがまた開く。
外から入ってくるのは、冷たい風と、濡れた呼吸。
「…チェックインを、承ります」
相澤の声は、相手が“いる”前提で整っている。
夜勤マニュアルにない相手を、ホテルはいつも完璧に迎え入れる。





引き継ぎに来た同僚は、ロビーの湿ったにおいに眉を寄せた。
「昨夜、満室でした?」
「いえ…」
PCの台帳に、708のログはない。
失物管理表に、**子ども用スリッパ(片方×2)**と走り書きが増えた。
相澤の制服の裾は、乾くまで、昼前まで、ずっと冷たかった。


次回予告(実践編へ)


次は⑥旅行者ガイド。「列を伸ばさないチェックイン」「連泊時の清掃の頼み方」「夜間チャットのコツ」「到着時間の工夫」「地方スポットをひとつ混ぜる」など、今日のテーマを“やさしい共助アクション”として具体化します。ロビーの静けさを壊さず、旅をもっと軽やかに。お楽しみに!

前回の記事はこちら↓

いいなと思ったら応援しよう!