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マイルドヤンキー的全体主義

「マイルドヤンキー」という空気の文化

原田耀平というマーケターが2014年に上梓した『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』という本がある。この本の出色の部分は「マイルドヤンキー」という概念を提唱したことであろう。この用語は確かに日本のある「層」を捉えており、それ以降、マイルドヤンキーという言葉は一般語として定着した感がある。説明は不要だろうが、定義としては地元志向で生まれ育った地元から離れることを嫌い、地元の同年代や家族との仲間意識が強く、ショッピングモールやラーメン屋でよくみられる層である。いまはどうだか知らないが、2010年代のこの層はEXILE/浜崎あゆみをよく聴いていた。

私は1975年に東京は世田谷あたりで生まれたので今年で50歳(!)になる。私の年代はいわゆる就職氷河期世代であり、東京の城西エリアでは古典的な暴走族が生息していた最後の年代であろう。ただ私の同年代はあまり暴走族→反社というような方向性ではなく、公立中学の同級生の半分くらいが、概ねマイルドヤンキー的になっていった。彼/彼女らも同じく今年で50歳なわけである。時々、SNSなどで彼らの様子を眺めたりもするが、平たく言って「何も変わっていない」感じがする。いや、性格には以前は「反体制風味」が彼らの同調圧力だったのだが、今はなにやら「させていただく」を連発するような「善人風味」が同調圧力らしい。

別段、敵視などしてはいないが、この層が得意でない。結局、何かを自分で考えている訳ではなく、若いころは「ヤンキー的自己演出」、中年になると「過剰な礼儀正しさ」として、仲間内の同調圧力への適応をしているだけに見える。同じ50歳とは思えぬほどに、彼らの態度には、ある種の幼さが滲んでいるように見える。その幼さは、半世紀も生きているのに、いまだに「仲間内での相互承認」以外の価値を知らぬが故の幼さに見える。

礼儀と忠誠:内面の自由を放棄する構造

「過剰な礼儀正しさ」と書いたが、では彼らの礼儀作法が正しいかというと私の目から見て、あまり正しくない。彼らの礼儀作法は、形式より「心」を重視するがゆえに、ぎこちなさを感じさせることもある。
礼儀というのは徹頭徹尾外面/外見であり、心からの敬意であろうと、社交辞令であろうとその見分けがつかないようにするのが(礼儀という技術の)本質である。ただ時折、マイルドヤンキー的地元の古い知人と接すると感じるのは、彼らは「礼儀とは心の底からのものだ」と信じているということだ。それが故に彼らは「敬意を払う必要がない」と判断した者/物に対しては無礼である。

言い換えれば、本心からの忠節/忠義、或いは仲間/絆などへの絶対的な帰依の同調圧力が彼らの特徴であるということもできるだろう。つまり「いい人であることを様式で示す」ことで自分もそうなれる/見なされるという素朴な信仰ともいうべきものである。要するに内面と外面の一致を前提にしている訳である。ここまでくれば、全体主義まであと一歩であろう。

何を大げさな、というかもしれないが、マイルドヤンキー的心情が、物事を俯瞰的に見ることを忌避(或いは能力的にできないだけ)し、仲間内への帰依を中心の価値とし、その結果としての同調圧力に外面を合わせ、さらに、内面と外面の一致を要求するというものとすれば、これは端的に「内心の自由の否定」であって「腹の中で何を考えていようが構わない」という近代では当然の前提を理解できていないということである。そして、恐らく社会的には彼らは多数派である。

アナロジーとしての内務班

ここで少し、彼らの特徴を考えてみよう。

  • 地元志向/地縁重視

  • 上下関係・年功序列の内面化

  • 空気に対する高度な感受性

  • 自己主張より「場の調和」優先

  • 「迷惑をかけない」ことへの過剰な信仰

概ねこんなところだろうか。一見穏当な市民性にも見えるが、これは結局

  • 内面の自由の放棄(≠抑制)

  • 権力の形式的な否定と実質的な内面化

  • 個の倫理より場の道徳

  • 形式への従属と従わせ合い

であり、これは全体主義社会の特徴であろう。そしてここから連想するのは大日本帝国陸軍の内務班である。祖父の話や山本七平、司馬遼太郎の著作などで見聞したに過ぎないが、要するに徴兵した初年兵をリンチなどを含む手段でしごき上げるための存在である。そんなに難しい話ではない。例えば現代でも運動部の「先輩の絶対性」「逆らうとヤバい」というのを極端にしたものと考えればよい。怖すぎて近づかれるだけでもピリピリする先輩(たいてい3年生)が「軍曹」に変わっただけである。実際にはこの内務班的在り方が、部活動に残っているということなのだろう。

この内務班的在り方は実にマイルドヤンキー的在り方と似ているように見える。自分の頭で考えることを良しとせず、場への服従や忠誠を要求、或いは強制し、そして妙に「家族主義的」であり、兵隊は同郷で固められることもあって「地元志向」である。そして、恐らく日本人の軍事アレルギーの根幹はここにある。昭和10年以降の「軍隊の忌まわしさ」は徴兵後にあった「内務班的リンチ」への忌避だったのは間違いない。つまり、自衛隊が軍隊となるということは内務班の復活、マイルドヤンキー的な在り方に主導権を握られることを意味しており、その議論をすると必ず制度でなく情緒の問題にすり替わるのは、これが国民的なトラウマであり、しかも形を変えて現代にも残っているから、ということなのではなかろうか。

マイルドヤンキー的な在り方は無知だとか野蛮だとかの問題ではなく、内面を空気(≒同調圧力)に明け渡すという意味での危険性を孕んでいる。彼らは多数派ではあるが、概ね社会の上層部に出てくることはない。しかし、中下層においては、マイルヤンキー的在り方による支配、自覚なき、なんというか、庶民的全体主義のようなものがその数の多さから蔓延しているのではなかろうか、と思う。

最初に書いたように、私は彼らが好きではないから、どうでもよい、ということもできるが、多数派であり、また中年になって社会の中核を担い始めている以上、この「マイルドヤンキー的文化の放置」はあまりよくない結果を生むだろう。つまり、大して何も考えていない多数派による息苦しい支配ということである。

日本型エリートと「騎士」不在の国

だが、彼らを軽蔑したところであまり意味はない。なぜなら彼らは自然発生的であり、土着的であり、多数派だからである。問題は「内務班的マイルドヤンキー」を支配できるだけの「エリート」がいない、或いはエリートを作ることができていない、ということであろう。

欧米においては古代ローマのパトリキ、騎士階級、近世貴族へと繋がる「武力と統治の両立者」としての系譜がある。彼らは暴力を抑える者であると同時に、それを自ら体現できる存在であった。それが欧米の為政者の原型である。

故に、欧米のエリートは肉体的にも強さが求められるように思う。現代においても長身であったり、明らかに背広の下に筋肉を隠しているような男性が多い。これはその背景に「騎士」が求められているのではなかろうか。つまり、武力と統治の両立者の匂いである。

対して日本では、貴族は早期に「穢れを忌避する儀礼官僚」となり、権力は形式に従属するようになる。鎌倉武士は確かに「戦士としての貴族」に近かったが、武力よりも「主従秩序と家格」で統治を構築したため、「暴力の統御者」というよりは「共同体の中での役割保持者」となった。明治維新においては欧米世界を真似て士族(旧武士)がエリートとなったが、彼らが死に絶えてすぐに内務官僚的秩序に国家が覆われた訳である。

上は内務官僚的責任所在不明の学歴主義、下はマイルドヤンキー的内務班という構造、そしてそれを当然視する男女問わず「庶民」と呼ばれる人々。これがおそらくは戦前~戦中の悲劇的で滑稽な「情緒としての軍国主義」の正体だったのではなかろうか。

上も下も変わらない

日本では今も上層と下層はあまり接点がない。分断・断絶、というよりも、お互い住む世界が異なる、というところであろう。これはそのまま、帝国陸軍の「陸軍大学出身者の世界」と「兵隊の世界」の焼き直しである。両者は同じ帝国陸軍でありながら、接点は薄く、住む世界が異なる物であっただろう。そして上層部は「学業の成績は優秀だったが、現実が見えていない者が幅を利かせる」世界、下層部は「マイルドヤンキー的な何も考えていない同調圧力が幅を利かせる」世界というものであった。現代はここから少しでも変わったのだろうか。私にはそうは思えないのである。

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