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家父長制を破壊しようとしたら、弟がフェミニズム最強の「悪魔」として覚醒してしまった件 #アリ・アスター #ヘレディタリー

第一章:葬列の異様さ

【ブログ記事アーカイブ】 記事タイトル:【毒親育ち】私の母が「名誉男性」だと気づいた日、あるいは祖母の葬儀で見た希望について
投稿日:202X年6月15日
タグ:#毒親 #HSP #フェミニズム #AC #解毒 #JFK (地獄の家族計画)

雨か。ついてないな。 私が前世を去った日も、こんな雨が降っていた気がする。……なんてね。HSP特有の妄想癖が出ちゃった。 でも、あながち間違いでもない。今日、私の「生物学上の祖母」が死んだ。 だからこれは、ある種の転生(リボーン)の記録になると思う。

自己紹介が遅れました。 私は愛理。23歳。HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)で、毒親サバイバーです。 こう書くと「またその話?」って顔をする人がいるよね。分かるよ。その「うんざり感」こそが、あなたが強者の椅子に座っている証拠だから。 誰にも分からないよね、この皮膚が全部剥がれた状態で塩水を歩かされるような感覚は。

私の家は、地獄だった。 暴力? いいえ。そんな分かりやすいものなら、警察に行けば終わる。 私の家には「ケア」という名前の別の形の暴力があった。 母さん──あえて美和子と呼びます──は、私を「守る」ふりをして、私の手足を折って観賞用のケースに閉じ込めるタイプの人だった。 「女の子なんだから危ない」「あなたのためを思って言っている」 その言葉の裏にあるのは、愛じゃない。恐怖だ。彼女は自分が社会と戦うのが怖いから、娘である私を去勢することで、自分を正当化しようとしていた。典型的な「弱者しぐさの名誉男性」ムーブ。吐き気がする。

でも、救いはあった。 皮肉なことに、救いは美和子が一番憎んでいた場所にあった。 祖母、大江サト。 教科書にも載っているような、フェミニズムの闘士。美和子は祖母を「狂った女」と呼んで私を近づけなかったけれど、亡くなって初めて、私は祖母の書斎に入った。

そこで私は、震える手で一冊のノートを見つけた。 『解放のための儀典』。 そこには、私がずっと探していた「言葉」があった。私の喉につかえていた泥を、黄金に変える魔法の言葉たちが。

「個人的なことは政治的なことである」 「思考は現実を書き換える」 「名前を奪われた者は、他者の声を奪う権利を持つ」

読んでいて、涙が止まらなかった。 祖母は知っていたんだ。この世界の構造的欠陥システム・エラーを。そして、それをひっくり返す方法を。 母さんが隠していたのはこれだったんだ。私が「覚醒」するのが怖かったんだ。

葬儀は、奇妙な熱気に包まれていた。 普通のお葬式って、もっと湿っぽくて、黒一色で、お焼香の臭いが充満しているものだよね。でも、祖母の葬儀は違った。 会場に入った瞬間、目に飛び込んできたのは「紫」だった。 参列者の女性たちが、みんな示し合わせたように紫色のスカーフを巻いている。あるいは紫のブローチ、紫の数珠。 それは祖母が主宰していたコミューンのシンボルカラーらしい。

母さんは、喪主なのに祭壇の隅で小さくなっていた。まるで借りてきた猫みたいに。 「どうしてこんなに人が来るの……」 震える声でそう呟く母さんを見て、私は内心で嘲笑った。 (そりゃそうよ。お母さんは知らないでしょうけど、お祖母ちゃんは英雄だったんだから)

私は誇らしかった。この偉大な女性の血が、私の中に流れていることが。 でも、不思議なことが一つあった。 参列者の女性たちが、なぜか私の弟──翔太のこと──をじろじろと見ていたのだ。

翔太は、18歳の高校生。ノンポリ政治に関心がないで、ゲームと睡眠欲しかない、平和ボケした男だ。 私が家で性差別の話をしても、「姉ちゃんまた難しい話?」とヘラヘラしている。その鈍感さが、どれだけ私を傷つけているかも知らずに。 今日も、制服のサイズが合わなくなったのか、少し窮屈そうに肩をすくめて立っていた。身長だけは無駄に伸びて、180センチ近くある。中身は空っぽのくせに、場所だけは取る。まさに「有害な男らしさ」の予備軍だ。

そんな翔太に、紫のスカーフを巻いた上品な老婦人が近づいてきた。 たしか、ジョーンさんと呼ばれていた人だ。祖母の古い友人らしい。 彼女は慈愛に満ちた目で翔太を見つめると、そっと彼の手を取り、二の腕から首筋にかけてを、確かめるようにゆっくりと撫でた。

「素晴らしい器ね。サト先生も喜ぶわ」

翔太は「え、あ、どうも」と間抜けな声を上げていたけれど、私はその時、胸がすくような思いがした。 そうよ。男なんて、精子バンクと労働力の「器」でしかない。 祖母の友人たちは、ちゃんと分かっている。翔太個人を見ているんじゃなく、彼が背負っている「男という原罪」を見透かしているんだって。 彼女の目は、家畜のセリ市場で肉質の良い牛を見定めている時の、あの冷徹で正確な目つきだった。 ああ、なんて知的で、残酷で、美しいんだろう。

葬儀のあと、私はこっそりと祖母の書斎に戻った。 母さんに見つかったら没収されるかもしれない。でも、このノートだけは手放せない。 ページをめくるたびに、頭の中の霧が晴れていく。 今まで、私は自分の生きづらさを「私の弱さ」だと思っていた。 でも違った。これは社会のバグなんだ。 そして、このバグを修正するためのコード呪文が、このノートには記されている。

例えば、こんな記述があった。

「男性性とは病である。治療には、彼らの言語野を破壊し、我々の概念を移植する外科手術が必要となる。麻酔は不要だ。痛みこそが、彼らにとっての唯一の学習だからだ」

すごい。なんてラディカルで、本質的なんだろう。 翔太を見ていていつも感じていたイライラ。あれは、彼が「病気」だったからなんだ。 だったら、姉である私が治療してあげなきゃいけない。 それがノブレス・オブリージュ(持てる者の義務)ってやつだよね?

最近、夢を見る。 私が翔太になる夢。 いや、違うな。私が翔太の口を使って、世界に向かって演説をする夢。 みんながひれ伏すの。母さんも、父さんも、私を馬鹿にしてきた会社の男たちも。 私の思考が、翔太の太い声帯を通して、重低音となって空間を支配する。 「構造を解体せよ!」 私が叫ぶと、世界の壁にヒビが入る。ガラスが割れる音がして、私は快感で震える。

目が覚めると、喉が焼けるように熱い。 まるで、誰かが私の喉に手を突っ込んで、そこから外の世界へ這い出そうとしているみたいに。

ねえ、分かるかな。 私はもう、黙っているだけの「いい子」じゃない。 祖母が遺してくれたこの「毒入り紅茶」を飲み干して、私は新しく生まれ変わる。 もしあなたが、同じように窒息しそうな場所にいるなら、このブログを読んでほしい。 ここは「地雷」を踏ませる罠じゃない。灯台だから。

さあ、構造の話をしよう。

【追記:母・美和子の日記より(日付不明)】

母さんの葬儀が終わってから、家の空気がおかしい。 湿気が取れない。除湿機をフル稼働させているのに、壁紙が浮いてきている気がする。 あの人たちが置いていった花のせいだろうか。強烈な百合の匂いが、ファブリーズをしても消えない。

それになにより、愛理の様子が変だ。 あの子は昔から感受性が強くて、すぐに泣いたり怒ったりする子だったけれど、最近は目が座っている。 部屋に閉じこもって、ブツブツと独り言を言っているのが聞こえる。 聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、ドアの前を通った時、聞こえてしまった。

「アンコンシャス・バイアス……解体……再構築……」

お経みたいだった。 抑揚のない、低い声。まるで愛理じゃない誰かが、愛理の口を使って喋っているような。 あれは、母さんの口調だ。 母さんが演説の練習をする時の、あの独特の、人を不安にさせるリズム。

そして、翔太もおかしい。 昨日の夜、リビングで水を飲んでいたら、翔太が起きてきた。 寝ぼけているのか、足元がおぼつかない。 「翔太? どうしたの?」と声をかけたら、彼は虚ろな目で私の方を向いて、ニタリと笑った。 普段の翔太なら、あんな笑い方はしない。 そして、はっきりとこう言ったのだ。

「お母さん、その箱庭、狭くない?」

私は悲鳴を上げそうになった。 「箱庭」は、私の仕事道具だ。クライアント以外にはあまり詳しく話していない。翔太はただの「おもちゃ」だと思っていたはずだ。 なのに、その言い方は、まるで私の人生そのものを嘲笑うかのような響きがあった。 母さんが私を罵倒する時によく使っていた言葉。「あんたの選んだ世界は狭い」「おままごとみたいだ」という言葉と、完全に重なった。

翌朝、翔太にそのことを聞いても、「え? 俺そんなこと言った? 夢遊病かなあ」と首をかしげるだけ。 でも、私は見た。 翔太の首筋に、虫刺されのような赤い腫れがあるのを。 よく見ると、それはただの腫れじゃなかった。 女の横顔のような形をした、痣だった。

怖い。 母さんは死んだはずなのに。 この家の中に、まだ母さんがいる気がする。 屋根裏部屋から、カサカサと音がする。 誰かが、何かを引きずっているような音が。

第二章:家庭内冷戦

【ブログ記事アーカイブ】 記事タイトル:【毒親】家庭内野党として生きる覚悟、あるいは「名誉男性」な母への最後通告
投稿日:202X年7月02日
タグ:#毒親 #家父長制 #名誉男性 #トーンポリシング #家庭内闘争 #JFK

家の中が、戦場に見える。 いや、正確には「今まで平和だと思い込まされていた場所が、実は死屍累々の戦場だった」と気づいてしまった。 祖母のノート──『解放のための儀典』を読み進めるたびに、私の視力は上がり続けている。 今まで見えなかった「構造」が、ありありと見えるのだ。

リビングのソファにふんぞり返って、バラエティ番組の下品なセクハラ発言にゲラゲラ笑っている父。 それを聞き流しながら、台所で黙々と皿を洗う母。 風呂上がりにパンツ一丁で冷蔵庫を開け、「母さん、麦茶ないのー?」と甘ったれた声を出す弟・翔太。

以前の私なら、これを「普通の家族の風景」だと思っていただろう。 バカだった。本当に、私は眠らされていたんだ。 これは風景じゃない。「搾取の縮図」だ。

昨日の夜、ついに私は行動を起こした。 父が「おい、ビール」と言った瞬間、母が冷蔵庫に向かおうとした。 私は母の手を掴んで止めた。 「座ってて。自分の飲み物くらい、自分で取らせればいいでしょ」 母は驚いた顔をして、「愛理、お父さん疲れてるんだから」と言った。

出た。「疲れてる」。 この魔法の言葉で、どれだけの女性が無償ケア労働を強いられてきたか。 私は震える声で告発した。 「お母さん、それは愛じゃないよ。奴隷根性だよ。お父さんが疲れてるのは、社会構造の問題であって、お母さんがケアして埋め合わせるべき負債じゃない。それをやるから、男はいつまでも増長するのよ!」

すると、父がテレビから目を離さずに言った。 「愛理、うるさいぞ。家の中で演説するな」 うるさい? 私の声が、雑音に聞こえるってこと? これが「トーンポリシング(話し方の取り締まり)」だ。 正当な怒りを、「言い方がヒステリックだ」とか「感情的だ」と矮小化して、口を塞ぐ卑劣な手口。

私は父に向かって叫んだ。 「あんたみたいな家父長制の犬が、この家を腐らせてるのよ! 恥を知りなさい!」

その時、母が叫んだ。 「愛理! その言葉を使わないで!」

母の顔は蒼白だった。怒りというより、怯えに近い表情。 「お祖母ちゃんみたいな口調で喋らないで。お願いだから」

あきれ果てた。 この人は、完全に洗脳されている。 祖母という「解放者」を悪魔化し、自分を支配している「夫」という主人に尻尾を振る。 これが「名誉男性」の末路だ。 女でありながら、男社会の論理を内面化し、戦う女を後ろから撃つ裏切り者。 実の母親がそれだなんて、絶望しかない。

でも、不思議と悲しくはなかった。 むしろ、頭の中が澄み渡っていく感覚があった。 言葉が、泉のように湧いてくる。 祖母のノートに書かれていた概念が、私の脳細胞一つ一つに染み渡り、私の思考回路を書き換えていく。

「思考を変えよ。さすれば現実は泥のように形を変える」

そうか。私が今まで生きづらかったのは、私のソフトウェア思考が古かったからだ。 祖母のソフトウェアをインストールすれば、私は無敵になれる。 論理が組み上がる。反論を封殺するフレーズが、次々と弾丸のように装填される。 これは「ダンタリオン第七十一の公理(セオリー)」という概念ソフトウェアらしい。 あらゆる学問と芸術に通じ、他者の思考を読み、意のままに操る力。 今の私なら、誰でも論破できる気がする。

部屋に戻ってから、翔太の部屋を覗いた。 彼はベッドで口を開けて爆睡していた。 無防備な寝顔。 かつては「だらしない弟」としか思わなかったけれど、今は違って見える。 あの立派な骨格。太い首。低い声が出る喉仏。 ジョーンさんが言っていた通りだ。 「素晴らしい器」。

私はそっと、翔太の枕元に祖母のノートを置いてみた。 起きない。 私はノートの一節を、子守唄のように小声で読み上げた。

「男は語るな。男は聞け。男は器になり、女の言葉を響かせるスピーカーになれ」

翔太が、うっすらと目を開けた気がした。 でも、その瞳孔は開いていて、どこも見ていなかった。 そして、寝言のように、でもはっきりとした発音で呟いたのだ。

「……構造の、解体……」

ゾクゾクした。 言葉が入った。 私の言葉が、翔太というハードウェアにインストールされた瞬間を見た気がした。 実験は成功だ。 この家は、私が「教育」する。

【追記:母・美和子の日記より(日付不明)】

家の中が、侵食されている。 愛理が、家中のあらゆる場所に「付箋」を貼り始めた。 冷蔵庫には『女性の無償労働搾取装置』。 テレビのリモコンには『プロパガンダ受信機』。 トイレのドアには『排泄の特権化を許すな』。

剥がしても、剥がしても、翌朝には増えている。 あの字は、愛理の字じゃない。 角張って、筆圧が強くて、紙が破れそうなほど強く書き殴られた字。 母さんの字だ。 死んだはずの母さんが、愛理の手を使って書いているとしか思えない。

夫は「あいつは少し頭を冷やしたほうがいい」と怒っているけれど、私は違う恐怖を感じている。 愛理はもう、私たちの言葉が届く場所にいない。 あの子の目は、私を見ているようで、私の後ろにある何か睨みつけている。 「お母さん」と呼ばれるたびに、自分が断罪されているような気分になる。

そして、昨日の夜のこと。 私が仕事部屋(箱庭療法の部屋)で、クライアントの記録を整理していた時だ。 ふと気配を感じて振り返ると、翔太が立っていた。 夜中の2時だ。 「翔太?」 声をかけても反応がない。夢遊病だろうか。 翔太は、部屋の隅にある「箱庭」の砂箱に近づくと、無言で手を突っ込んだ。

私が苦労して配置した、クライアントの「心の均衡」を表す人形や木々を、無造作に鷲掴みにする。 「やめて!」 駆け寄ろうとした私の前で、翔太は人形の首をねじり切り、砂の中に埋めた。 そして、私の方をゆっくりと振り向き、ニタリと笑った。 その顔は、翔太の顔じゃなかった。 しわくちゃの、意地の悪い、老婆のような笑み。

「美和子、お前の箱庭はつまらないねえ」

母さんの声だった。 低くて、湿り気を帯びた、あの声。 翔太の喉から、母さんの声がした。

私は腰が抜けて、床にへたり込んだ。 翔太はそのまま糸が切れたように倒れ込み、いびきをかき始めた。 朝になって問い詰めても、彼は何も覚えていない。 「また変な夢を見た気がするけど、姉ちゃんがずっと枕元でブツブツ言ってるのがうるさくて……」と言うだけだ。

逃げなきゃいけない。 この家はもう、私の家じゃない。 母さんが帰ってきた。 愛理を入り口にして、翔太を出口にして、あの人が帰ってきたんだ。 私の箱庭(家庭)を、今度こそ完全に壊すために。

第三章:断絶の儀式

【ブログ記事アーカイブ】 記事タイトル:【緊急】祖母の聖地へ巡礼します、あるいは「男」を教育するスタディツアー
投稿日:202X年7月15日
タグ:#聖地巡礼 #シスターフッド #エンパワーメント #男教育 #JFK

ついに、この日が来た。 祖母が晩年を過ごし、理想郷を築いた場所。「紫のコミューン」での追悼集会が開かれる。 招待状が届いた時、手が震えた。 母さんは「あそこはカルトよ! 絶対に行っちゃダメ!」とヒステリーを起こして、招待状を破り捨てようとした。 本当に浅はかだ。母さんは、自分が「家父長制の檻」から出たくないだけなのに、それを「娘への愛」だと思い込んでいる。 「一人では行かせない」と泣きつかれたから、妥協案を出してあげた。

「じゃあ、翔太を連れて行くわ。あいつにとってもいい勉強になるでしょ」

母さんは絶句していたけれど、反論できなかった。 翔太は「えー、俺明日デートなんだけど」とか言っていたけれど、私が一睨みしたら黙った。 デート? 笑わせないで。 無自覚な加害者が、また一人、無知な少女を搾取しようとしているのを未然に防いだんだから、私は感謝されるべきだ。

というわけで、今、翔太の運転で山奥へ向かっている。 車内は、私の独壇場だ。 助手席から、翔太に「構造的暴力」についてレクチャーしてあげている。 「いい? あんたが普段何気なく見ているポルノも、コンビニのエロ本も、全部女性をモノ化する装置なの。あんたはその恩恵を受けて、のうのうと生きているわけ」 翔太は「はい……すいません……」と小さくなっている。 その縮こまった肩。怯えた目。 ああ、なんて「教育的」な光景だろう。

祖母のノートにはこうある。

「言葉は鞭である。無知な背中に振り下ろし、肉を裂き、そこに真実を刻み込め」

私は今、言葉の鞭を振るっている。 翔太がハンドルを握る手が震えているのが分かる。 怖い? 当然よ。あんたが今まで女性たちに与えてきた恐怖を、今あんたが味わっているだけなんだから。

山道に入ってから、空気が変わった気がする。 街の澱んだ空気が消えて、濃密で、むせ返るような緑の匂いがする。 これが「聖域」の空気か。 ガードレールに、紫色のリボンが結び付けられているのが見える。 一つ、また一つ。 まるで私たちを歓迎するように、リボンの数が増えていく。

テンションが上がってきた。 思考がスパークする。言葉が溢れて止まらない。 「翔太、窓を開けなさい! この風を感じるのよ!」 私はシートベルトを外し、窓から身を乗り出した。 風が顔を叩く。最高に気持ちいい。 私は自由だ。 母さんの呪縛も、社会の鎖も、今ここにはない。

「構造を解体せよ!!」

私は叫んだ。風の音に負けないように。 翔太が「姉ちゃん、危ないよ! 引っ込んで!」と叫んでいる。 うるさい、指図するな。 お前はただの運転手だ。私という「革命」を運ぶための、ただの足だ。

前方に見える。 道の脇に、何か看板のようなものが立っている。 あれは……祖母たちのスローガンだろうか? もっとよく見たい。 もっと前へ。もっと外へ。 この風の向こうに、私が王になる未来が待っている──

【県警・交通事故実況見分調書(抜粋)】

発生日時:202X年7月15日 午後3時45分頃
発生場所:県道◯◯号線(通称:旧・女人高野林道)
事故概要: 単独事故。普通乗用車が路肩の電柱および私設看板の支柱に接触し、停車したもの。 運転手(弟・18歳)に大きな外傷なし。呼気よりアルコールは検出されず。 助手席同乗者(姉・23歳)は死亡。

特記事項: 同乗者は走行中、助手席窓より上半身を大きく乗り出していたと見られる。 車両が道路左側の路肩に設置された木製看板の支柱に接触した際、同乗者の頭部が支柱と衝突。 その衝撃により、同乗者の頭部は頸部より切断された。

頭部は車内には残っておらず、事故現場より約5メートル後方の草むらで発見された。 切断面は鋭利ではないが、速度による衝撃で引きちぎられた形状を呈している。

なお、接触した看板には、紫色のペンキで以下のような文言が手書きされていた。

『ここから先、男性の侵入を禁ず(女性専用区画)』

運転手の供述は支離滅裂であり、「姉が急にハンドルを掴んだ」「道路の真ん中に黒い服の老婆が立っていた」「看板が動いた」などと証言しているが、ドライブレコーダーの映像には該当する人物や現象は記録されていなかった。 ただし、事故直前の音声記録には、同乗者の叫び声と、運転手の制止する声に加え、第三者のものと思われる低いノイズ(唸り声のような音)が混入しており、現在解析中である。

現場付近には、事故発生直後から近隣住民と思われる女性数名が集まっていたが、救護活動を行う様子はなく、遠巻きに事故車両を凝視していたとの目撃情報あり。

【追記:弟・翔太のスマホのボイスメモ(事故当夜)】

(激しい呼吸音。衣擦れの音。布団の中に潜って録音していると思われる)

……姉ちゃんの首が……飛んだ。 俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。 姉ちゃんが、窓から……。 いきなりハンドルが重くなったんだ。誰かに掴まれたみたいに、グイッて。 避けられなかった。あんなの無理だよ。

(嗚咽)

血が……俺の服に、全部かかった。 熱かった。 姉ちゃんの身体が、ビクビクって動いてて。 隣を見たら、首がないんだ。首がないのに、指が俺の方を指差してた。

俺のせいだ。俺が殺した。 いや、違う。あの看板。 あそこに、誰かいた。看板の陰に。 お婆ちゃんみたいな人が、笑ってた。 「ようやく空いたね」って言ったんだ。

(長い沈黙)

……なんか、聞こえる。 頭の中で、音がする。 姉ちゃんの声だ。 いや、姉ちゃんじゃない。もっと低い、お祖母ちゃんの声? 違う、男の声も混ざってる。 『入れ』って言ってる。 『そこなら入れる』って。

(ドンドン、と頭を叩く音)

出ていけ。俺の中に入ってくるな。 俺はただの運転手だ。俺は何もしらない。 許してください。ごめんなさい。僕は男です。汚い男です。 だから入ってこないで。 姉ちゃん、助けて。 ……うわあ、姉ちゃんの声が一番うるさい。 『その身体を寄越せ』って、叫んでる。

(録音終了)

第四章:空洞の家

【母・美和子の日記(黒い表紙のノート)より】

7月16日

あの子が死んだ。 首がない。 警察官がそう言った時、私は言葉の意味が理解できなかった。 翔太が運転する車の助手席で、事故に遭った。 翔太は無傷だった。昨夜、何食わぬ顔で帰ってきて、そのまま自分の部屋で寝ていた。 私は今朝、車庫で車を見た。 助手席の窓ガラスが割れていた。座席が赤黒く染まっていた。そこに、愛理の身体だけがあった。

私の叫び声で、翔太が起きてきた。 彼はパジャマ姿で、車の中を覗き込み、そして言った。 「あれ、姉ちゃん、まだ喋ってるの?」

私はその場で吐いた。 この子は壊れてしまったのだろうか。それとも、私が狂っているのだろうか。 葬儀屋との打ち合わせ。警察の聴取。親戚への連絡。 淡々と事務処理をこなす自分の手が、他人のものみたいだ。 箱庭療法のセッションで、クライアントに「悲しみを外に出しましょう」と言い続けてきた私が、一滴も涙が出ない。 ただ、家の空気が重い。 屋根裏から、またあの音がする。何かを引きずるような、重い音。

7月20日

愛理の葬儀が終わった。 密葬にするつもりだったのに、またあの人たちが来た。 紫のスカーフを巻いた、母さんの信者たち。 彼女たちは焼香の列に並びながら、祭壇の遺影(私が選んだ、成人式の笑顔の写真)を見て、ヒソヒソと話していた。

「やっと解放されたのね」 「肉体という牢獄から出られたのよ」 「次は魂の定着ね」

不謹慎だとか、そういうレベルの話じゃない。 彼女たちは、愛理の死を「祝って」いるように見えた。 寒気がした。 翔太はずっと下を向いていた。震えていた。 あの子の背中に、誰かの手が触れた気がして見ると、誰もいない。 でも、翔太の白いワイシャツの背中に、うっすらと手形のようなシミが浮き出ていた。脂汗だろうか。それにしては、形がはっきりしすぎている。

7月25日

スーパーの駐車場で、ジョーンさんに声をかけられた。 母さんの古くからの友人で、葬儀でも翔太をじろじろ見ていた人だ。 無視して車に乗ろうとした私を、彼女は強い力で引き止めた。

「美和子さん、愛理ちゃんに会いたくない?」

心臓が止まるかと思った。 「何言ってるんですか」と振り払おうとすると、彼女は私の目を真っ直ぐに見て言った。 「あの子、まだ『語り』足りないのよ。あんなに雄弁だった子が、黙ったまま逝くわけがないでしょう? 彼女の言葉を聞いてあげなさい。それが供養よ」

彼女は一枚の紙切れを私のポケットにねじ込んだ。 そこには、奇妙な手順が書かれていた。 ロウソクの配置。鏡の角度。そして、唱えるべき「呼びかけの言葉」。 それはお経でも祝詞でもなく、母さんがよく演説で使っていたフレーズの羅列だった。

『沈黙を破れ。不可視化された痛みを叫べ。個人の肉体を超えて、連帯せよ』

馬鹿げている。カルトの手口だ。 私はその紙をゴミ箱に捨てた。 捨てたはずだった。 夜、家に帰ってエプロンのポケットに手を入れたら、紙が入っていた。 捨てても捨てても戻ってくる。 愛理が、何か言いたがっている気がする。 あの事故の夜、翔太は何を見たのか。愛理は何を思ったのか。 知りたい。知って、楽になりたい。

7月26日

やってしまった。 夫が出張でいない夜。翔太が部屋に引きこもっている深夜2時。 リビングのテーブルに、愛理が好きだったアロマキャンドルを立てた。 鏡を置いた。 そして、あの言葉を唱えた。

「沈黙を破れ……不可視化された痛みを叫べ……」

最初は何も起きなかった。 馬鹿なことをしたと、火を消そうとした瞬間。 風もないのに、炎が真横に伸びた。 そして、ドン! とテーブルが跳ね上がった。

『お母さん』

聞こえた。愛理の声だ。 でも、どこか違う。もっと低くて、ざらついた、老婆のような響きが混ざっている。 「愛理? いるの?」 私は虚空に問いかけた。

『謝れ』

「え?」

『謝れ! 謝れ! 私の痛みを可視化しろ! お前が見て見ぬ振りをしてきた、この家の欺瞞を直視しろ!』

叫び声とともに、リビングのガラス戸がガタガタと激しく振動した。 本棚から本が次々と飛び出してくる。 それはポルターガイストなんて生易しいものじゃなかった。 飛び出した本は、フェミニズムの理論書や、社会学の専門書ばかり。それらが弾丸のように私に向かって飛んでくる。 「痛い! やめて!」 私が悲鳴を上げると、壁に掛けてあった家族写真が落ちて割れた。 割れたガラス片が、床の上で文字を描くように動く。

『搾取』『抑圧』『共犯者』

愛理じゃない。 これは愛理の姿を借りた、もっと巨大で、怒りに満ちた「概念」だ。 私は這うようにしてリビングから逃げ出し、寝室に鍵をかけた。 一晩中、ドアの向こうから、何か硬いもので床を叩く音と、ブツブツと論理を説く声が聞こえ続けた。 「構造的暴力とは……」「家事労働の不払いについて……」 その声は、愛理の声と、母さんの声が、完全に同期していた。

【県立◯◯高校 生徒指導報告書(写し)】

発生日時:202X年7月28日 10時15分頃(2時限目)
場所:3年B組教室
対象生徒:大江 翔太(おおえ しょうた)
報告者:英語科教諭・佐藤

概要: 授業中、当該生徒が突如として奇声を上げ、錯乱状態に陥った事案について報告する。

授業開始から15分ほど経過した頃、最後列に座っていた大江生徒が、机に突っ伏したまま小刻みに震え始めた。 周囲の生徒が「うめき声が聞こえる」と指摘したため、私が近づいて声をかけたところ、大江生徒は激しく頭を振り上げ、立ち上がった。 その際、彼の両目は焦点が合っておらず、白目を剥いているような状態であった。

彼はふらつく足取りで黒板の前まで進み出ると、チョークを両手に持ち(右手と左手で同時に)、黒板に円形の図形を描き始めた。 円の中に、男女の顔が重なり合ったような、複雑で幾何学的な紋章。 美術教師に確認したところ、西洋魔術で使用される図象に酷似しているとのことだが、大江生徒にそのような趣味嗜好は見られない。

彼は図形を描きながら、かすれた声で、しかし教室中に響き渡るような声量で、以下のような言葉を繰り返し叫んだ。

「僕は男だ! 僕は汚れた性だ! 僕は加害者だ!」 「僕の身体を使ってください! この喉を使ってください!」 「ああ、入ってくる! 言葉が入ってくる! 重い! 重い!」

その後、彼は自らの顔面を黒板に打ち付け始めた。 一度ではなく、何度も、額から血が流れるまで打ち付けた。 「謝罪します、謝罪します、生まれてきてごめんなさい」と泣き叫びながらの自傷行為であり、制止に入った男子生徒2名をものすごい怪力で突き飛ばした。

最終的に、駆けつけた体育教師3名によって取り押さえられ、救急車で搬送された。 搬送される際、ストレッチャーに固定された大江生徒は、急に穏やかな表情になり、付き添いの私に向かって、流暢な、しかし明らかに彼のものではない「年配の女性のような口調」でこう言った。

「先生、教育カリキュラムの見直しは進んでいますか? ジェンダー・バイアスに無自覚な教育は、再生産の罪ですよ」

その直後、彼は意識を失った。 現在、病院にて鎮静剤を投与され入院中である。 保護者(母親)に連絡を取ったが、「やっぱり……始まったのね」と呟くだけで、会話が成立しなかった。 家庭内での虐待、あるいはカルト宗教の影響が疑われるため、児童相談所および警察への連絡を検討中。

備考: 教室の黒板に残された図形は、清掃業者が消そうとしてもチョークが食い込んでおり、完全には消えなかった。 あの図形を見ると頭痛を訴える生徒が数名おり、教室の移動措置をとっている。

第五章:屋根裏の真実

【母・美和子の手記(震える筆跡で書かれたメモの束)】

7月29日

翔太が入院した。 あの子は、私の前で「先生」みたいな口調で喋ったあと、気絶したまま目を覚まさない。 病院のベッドで眠るあの子の顔は、とても穏やかだった。 でも、その寝顔を見ていると、背筋が凍るような感覚に襲われる。 あの顔は、翔太の顔じゃない。 昔、アルバムで見た、若い頃の母さんの顔にそっくりなんだ。

家の中は静かだ。夫はまだ帰ってこない。愛理もいない。 でも、気配だけが濃くなっている。 家全体が、一つの巨大な「胃袋」になって、消化液を分泌しているみたいだ。 私は、消化されるのを待っている餌だ。

耐えられない。 全部燃やしてやる。 元凶は、あのノートだ。愛理が大事に抱えていた、母さんの『儀典』。 あれさえ無くなれば、この呪いも解けるはずだ。

庭に出た。ドラム缶に新聞紙を突っ込んで、火をつけた。 ノートを放り込む。 紙が燃える匂いと一緒に、奇妙な悪臭が立ち上った。髪の毛が焦げるような、腐った肉のような臭い。 炎がノートを舐め、表紙がめくれ上がった瞬間。

「ああっ!」

激痛が走った。 私の右腕が、焼けるように熱い。 慌てて袖をまくると、何もない。火傷なんてしていない。 でも、痛い。皮膚の下の肉が、直接炙られているような痛み。 ノートが燃え尽きるにつれて、痛みは私の全身に広がった。 喉が焼ける。子宮が疼く。へその緒があった場所が、キリキリと締め付けられる。

理解してしまった。 燃やせない。 私と、愛理と、母さんは、見えない緒で繋がっている。 私が母さんを拒絶すればするほど、その緒は太く、強くなって、私たちを縛り付ける。 これは思想じゃない。血だ。呪われた血の系譜だ。

7月30日 深夜

屋根裏から、音がする。 カサカサ、ズルズル。 今までネズミだと思っていた。 でも違う。あれは、もっと重いものだ。 誰かが、這っている。あるいは、誰かが誰かを引きずっている。

行かなければならない気がする。 あそこに、答えがある。 懐中電灯を持って、天井裏への階段を下ろした。 カビと、埃と、あの「百合の匂い」が混ざった空気が降りてくる。

梯子を登る。一段、また一段。 暗闇の向こうに、ぼんやりと空間が広がっている。 そこは、ただの物置じゃなかった。 壁一面に、赤い塗料で──いいえ、あれは乾いた血だ──びっしりと文字が書かれている。 フェミニズムの用語。呪術の記号。そして、家系図。 家系図の頂点には「大江サト」。その下に私。愛理。そして翔太。 翔太の名前だけが、何重にも丸で囲まれ、そこから矢印が四方八方に伸びている。

部屋の中央に、何かがある。 目を凝らす。 マネキン? いや、違う。 それは、「男根」を模した巨大な木製の偶像だった。 高さは2メートル近くあるだろうか。荒削りな木肌が、禍々しく黒光りしている。 そして、その先端に、何かが乗っている。

悲鳴すら出なかった。 息が止まった。

母さんだ。 母さんの頭だ。 腐敗が進み、皮膚が垂れ下がり、眼球が溶け落ちた、母さんの生首が。 男根の先端に、串刺しにされている。

その下には、首のない胴体が、ひざまずくような姿勢で固定されていた。 まるで、その男根を崇拝しているかのように。 胴体は、着ている服からして母さんのものだ。 死後、誰かが墓を暴き、遺体を盗み出し、ここで切断し、このオブジェを作り上げたのだ。

吐き気が込み上げる。 冒涜だ。死者への、いや、人間への冒涜だ。 女性解放を謳っていた母さんが、死後にこんな辱めを受けるなんて。 誰がこんなことを? あの信者たち? カルトの狂気?

違う。 私は、壁に書かれた文字を見て、戦慄した。 偶像の真後ろの壁に、ひときわ大きく、几帳面な字でこう書かれていたのだ。

「女の肉体は弱すぎる」

見覚えのある字。 私が子供の頃、添削された作文用紙で何度も見た、母さんの字だ。

「生理、妊娠、更年期。女の肉体はノイズが多すぎる。純粋な思考の器としては不完全だ」 「言葉を世界に刻むには、男の喉(ノド)と、男の権威(チカラ)が必要なのだ」 「翔太こそが、私たちの新しい王(クイーン)である」

足元の床が崩れ落ちるような感覚。 騙されていた。 母さんは、フェミニストなんかじゃなかった。 女性を愛していたわけでも、女性のために戦っていたわけでもない。 母さんは、「女であること」を誰よりも憎んでいたんだ

女として生まれた自分の不自由さ。社会から軽んじられる肉体。 それを呪い、憎み、最終的に出した答えがこれだ。 「男を乗っ取る」。 男社会を解体するのではなく、男という「強者の肉体」を奪い取り、その皮を被って、中身を「自分(女の情念)」に入れ替える。 そうすることで、男の権威と女の思考を併せ持った、完全な支配者になろうとしたんだ。

愛理は? あの子は、そのための「生贄」だったの? 母さんの思考(悪魔)を一時的に宿し、培養し、そして翔太という「本命の器」に移すための、使い捨ての子宮。 あの子が事故で首を失ったのも、偶然じゃない。 「思考する頭部」は、新しい王(翔太)にひとつあればいい。 だから、古い器(愛理)の首は切り落とされた。

「ひっ、ひっ……」 喉から空気が漏れる。 逃げなきゃ。翔太を連れて。 あの子が危ない。あの子の中身が、全部母さんに食いつくされてしまう。

後ろで音がした。 振り返ると、屋根裏の入り口に、誰かが立っている。 暗がりの中で、白く浮かび上がる裸の老婆たち。 ジョーンさんだ。そして、葬儀に来ていた人たち。 彼女たちは全員、穏やかに微笑んでいた。 その手には、紫のスカーフで作られたロープが握られている。

「美和子さん、見たのね」

ジョーンさんが優しく言った。

「素晴らしいでしょう? サト先生の計画は完璧よ」 「あなたも、その一部になれるの。光栄に思いなさい」

彼女たちが、じりじりと近づいてくる。 逃げ場はない。 この家自体が、巨大な子宮だったんだ。 翔太という「悪魔」を産み落とすための。 そして私は、そのための養分。

ごめんなさい、翔太。 お母さん、もう守ってあげられないかもしれない。

第六章:継承の夜

【母・美和子の手記(血と泥で汚れている)】

7月30日 深夜(続き)

逃げられない。 階段の下にも、廊下にも、あいつらがいる。 みんな笑ってる。優しく、慈愛に満ちた顔で。 「怖くないわよ」「痛くないわよ」「これは進化なのよ」 嘘つき。 あなたたちが持っているそのロープは、へその緒じゃない。絞首刑の縄だ。

夫の書斎から火の手が上がっている。 「お父さん!」と叫んだけれど、返事はない。 ドアの隙間から見えた。夫が、暖炉の前で座っているのを。 燃えている。夫の身体が、薪のように燃えている。 それなのに、夫は動かない。熱がっていない。 ただ、バラエティ番組を見ている時と同じような、虚ろな笑顔を浮かべて、灰になっていく。 ああ、そうか。 この人は最初から「いなかった」んだ。 家父長制の象徴としてそこに置かれていただけの、燃えやすい家具だったんだ。

翔太。翔太だけでも逃がさないと。 あの子の部屋に行こうとしたけれど、足が動かない。 ジョーンさんが、私の前に立ちはだかる。 彼女は裸だ。たるんだ皮膚、垂れ下がった乳房。 醜い? いいえ、彼女たちはそれを「歴史」だと誇っている。 「美和子さん、あなたは素晴らしい仕事をしたわ」 ジョーンさんが私を抱きしめる。 「箱庭療法士。他人のトラウマを整理して、箱に閉じ込める仕事。素晴らしいわ。あなた自身が、この家という『箱庭』を完璧に維持してくれたおかげで、王を迎える準備が整ったのよ」

私の人生は、全部あいつらの手のひらの上だったの? 反抗して家を出たことも、結婚したことも、仕事を選んだことも。 全部、この儀式のための「舞台設定」だったの?

思考が、割れる。 頭の中がうるさい。 母さんの声がする。愛理の声がする。 『頭を使え』『頭を使え』『頭を使え』 うるさい! うるさい! うるさい! 私が苦しんできたのは、私が不幸だったのは、私が「考えすぎた」からだ。 母さんの言葉を、愛理の言葉を、真に受けて、考えて、考えて、考えすぎて、動けなくなったからだ。

なら、捨ててしまえばいい。 この頭さえなければ、私は自由になれる。 思考する頭部なんて、女には重すぎる飾りだ。 そうだわ。のこぎり。翔太が工作で使っていた糸のこぎり。 これで切り離せば、軽くなれる。 母さん、見てて。 私だって、あなたの娘よ。 私なりの方法で、この構造を「解体」してみせる。

ギコ、ギコ、ギコ、ギコ。 痛くない。熱いだけ。 音がする。骨が擦れる音。 ああ、やっと静かになる──

【翔太の視点(意識の混濁)】

熱い。 家の中が、サウナみたいに熱い。 煙の匂いと、百合の花の匂いと、鉄の匂いが混ざって、息ができない。

「母さん?」

廊下に出た。 母さんの部屋のドアが開いている。 母さんが立っていた。 いや、浮いていた? 母さんは、両手で糸のこぎりを持って、自分の首を……引いていた。 バイオリンを弾くみたいに。リズミカルに。 ギコ、ギコ、ギコ。 血が噴水みたいに吹き出しているのに、母さんは笑っていた。 僕を見て、口をパクパクさせた。 声は聞こえなかったけど、唇の動きで分かった。

『逃 げ て』

その瞬間、母さんの頭が、ゴロリと床に落ちた。 ボールみたいに弾んで、僕の足元に転がってきた。 目が合っ……いや、目はどこかを向いていた。 首の断面から、白い煙のようなものが立ち上り、天井に吸い込まれていく。

「う、うわあああああ!!」

僕は走った。 階段を駆け下りる。 でも、下にもいる。 お婆さんたちが、裸で、輪になって踊っている。 玄関は塞がれている。勝手口もダメだ。 逃げ場がない。

二階に戻る。自分の部屋へ。 鍵をかける。机でドアを塞ぐ。 でも、無駄だ。 天井から音がする。 ドンドン、ドンドン、ドンドン。 誰かが天井裏を這っている。 そして、あの声が聞こえる。

『翔太』 『翔太』 『いい身体ね』 『空っぽで、広くて、響きが良さそう』

姉ちゃんの声だ。 でも、姉ちゃんじゃない。もっとたくさんの、何千人もの女の人が、一斉に僕の名前を呼んでいるみたいな声。

バリバリバリ! 天井の板が剥がれた。 暗闇の中から、老婆が顔を出す。 お祖母ちゃんだ。 死んだはずのお祖母ちゃんが、天井から逆さまにぶら下がって、僕を見ている。 「いい子だねえ、翔太。おいで」

僕は窓を開けた。 ここから飛び降りるしかない。 二階だ。死ぬかもしれない。でも、ここにいるよりマシだ。 網戸を破り、身を乗り出す。 庭が見える。 庭の、僕が子供の頃に遊んだツリーハウスの下に、火が焚かれているのが見える。

「翔太くん、こっちよ」

下から声がした。ジョーンさんだ。 彼女は両手を広げて、僕を受け止めようとしているみたいだった。 「あなたのための『王座』は用意できたわ」

後ろから、冷たい手が僕の背中を押した。 振り返ると、首のない母さんが立っていた。 首の断面から、赤黒い言葉を吐き出しながら。

ドン。

体が宙に浮く。 重力が消える。 地面が迫ってくる。 硬い土の感触。 背骨が折れる音。 肺の中の空気が全部押し出される。

痛い。痛い。痛い。 声が出ない。 手足が動かない。 視界が暗くなっていく。 ああ、死ぬんだ。これで終わるんだ。

その時。 空から、光が降ってきた。 スポットライトみたいな、青白い光。 いや、それは光じゃなかった。 文字だ。 無数の、文字の奔流だ。

『構造』『解体』『特権』『搾取』『連帯』『憎悪』『浄化』『再生』

重い。 言葉が、物理的な質量を持って、僕の身体に突き刺さる。 頭蓋骨を割って、脳みそのシワの隙間に、無理やりねじ込まれていく。 僕の記憶が、僕の感情が、僕の言葉が、ところてんみたいに押し出されて消えていく。

「やめ……ろ……」

僕の声が、変わっていく。 低く、太く、そしてあのお婆ちゃんのような、威厳のある響きに。

『受け入れよ』

頭の中で、姉ちゃんが笑った。

『あんたはただの器なの。中身は私たちが使ってあげる』

光が、僕を満たす。 翔太という「個」が消滅する。 そして、巨大な「概念」が、この肉体という玉座に座る。

ああ。 見える。 世界の構造が、透けて見える。

エピローグ:新しい王の誕生

【ICレコーダーの音声データ(ファイル名:reborn.wav)】

(風の音。木々がざわめく音。時折、パチパチという焚き火の爆ぜる音が混じる) (録音状態はクリアだが、背景には多数の人間が息を潜めている気配がある)

ジョーンの声: 「準備は整いました。肉体の器は洗浄され、空洞は満たされました」 「サト先生。美和子さん。愛理ちゃん。あなた方の犠牲は、決して無駄にはなりません」

(衣擦れの音。誰かが祭壇──おそらくツリーハウスの床──に進み出る音)

ジョーンの声: 「見てください、この美しい配置を」 「過去(祖母)と、現在(母)と、未来(娘)が、首を垂れて王座を支えている」 「女たちの沈黙が、王の言葉を支える礎となるのです」

(重い足音。ゆっくりとした、確信に満ちた足取り)

ジョーンの声: 「さあ、戴冠です」 「これはただの布ではありません。幾千もの女性たちが流した涙と、血と、怨嗟を染み込ませた紫の冠です」 「男の頭部に、女の歴史を被せる。これこそが、私たちが待ち望んだ『結合』です」

(布が擦れる音。その直後、周囲から「おお……」という感嘆の漏れ声が広がる)

ジョーンの声: 「目をお開けください」 「そして、私たちに『言葉』をお与えください」 「男の喉(ノド)と、男の権威(チカラ)を使って、この歪んだ世界を正しく定義し直してください」

(長い沈黙。鳥の鳴き声さえ止まったかのような静寂) (やがて、深く息を吸い込む音が聞こえる)

翔太(?)の声: 「……皆さん」

(ノイズ。マイクが音割れするほどの重低音。しかしその響きの中には、老婆のしわがれた声と、若い女性の甲高い声が、不協和音のように混ざり合っている)

翔太(?)の声: 「構造の話をしましょう」

(集団が一斉にひれ伏す音。嗚咽のような歓喜の声。「王よ!」「先生!」「救い主!」という叫びが錯綜する)

翔太(?)の声: 「私は見えます。あなた方の背負っている鎖が。透明な枷が」 「男たちは、無自覚にその鎖を握り、あなた方を搾取し続けてきた」 「彼らは言う。『悪気はない』『愛している』と」 「しかし、無自覚な差別こそが最も罪深い。無知は免罪符ではない。無知は罪だ」

(語り口は、かつて翔太が持っていた自信なさげなものではない。流暢で、抑揚があり、聞く者の鼓膜に直接概念をねじ込んでくるような、暴力的なまでの説得力がある)

翔太(?)の声: 「私は、彼らの言葉を知っている。彼らの論理を知っている」 「なぜなら、この肉体が『男』だからだ」 「そして同時に、私はあなた方の痛みを知っている。あなた方の怒りを知っている」 「なぜなら、この魂が『女』だからだ」

「私は、境界線に立つ者ではない。境界線を消し去る者だ」 「私の言葉は、法になるだろう。私のまなざしは、審判になるだろう」 「すべての男たちを、この『正しさ』の前に跪かせよう。彼らの特権を剥ぎ取り、解体し、再構築しよう」 「彼らが泣いて許しを乞うまで。いや、許しを乞う声さえ奪い取るまで」

(周囲の熱狂が最高潮に達する。拍手ではなく、地面を叩く音がリズムを刻み始める)

翔太(?)の声: 「まずは、手始めに」 (衣擦れの音。彼が誰かを指差した気配) 「そこにある『箱庭』を片付けなさい」

ジョーンの声: 「はっ……ただちに」

翔太(?)の声: 「燃やせ。家も、家具も、思い出も。すべては家父長制の残滓だ」 「更地に戻すのだ。そこから、私たちの新しい帝国が始まる」

(ゴウッという炎の音。何かが崩れ落ちる音。悲鳴のような音が混じるが、誰も気に留めない)

翔太(?)の声: 「さあ、行こう」 「世界が、私の『教育』を待っている」

(足音が遠ざかっていく。それに従う無数の足音) (録音は、炎がパチパチと燃える音だけを残して、唐突に切れる)

【後日談:SNS上の反応(スクリーンショット)】

@SocialJusticeWarrior_XX

昨日、YouTubeで拡散されてた高校生の演説動画見た? ヤバい。鳥肌立った。 あんなに完璧な「構造的暴力」の解説、初めて聞いたかも。 しかも喋ってるのがイケメンの男の子っていうのがエモい。 これだよ。私たちが求めてたのは、こういう「真に理解ある男性」なんだよ! #新しい王 #あの方

@Feminist_Alliance

彼の言葉には魂が宿っている。 聞いているだけで涙が出てきた。私の言いたかったことは全部これだったんだって。 彼の周りに集まってる女性たちも、みんなすごくいい顔してる。 あそこに行けば、私も救われるのかな。 詳細知ってる人いたらDMください。 #救済 #コミューン

@Anonymous_watcher

え、待って。この子、先月事故で亡くなったお姉さんの弟だよね? お姉さんのブログ読んでたけど、なんか様子おかしくない? 目が……笑ってないっていうか、中に別の人が入ってるみたいなんだけど。 ていうか、後ろに映ってる廃墟、彼の実家じゃないの? 燃えてない?

@Miwako_No_More

(アカウントは削除されています)

【最後のブログ更新(管理者不明)】

記事タイトル:【ご報告】愛理は「概念」になりました
投稿日:202X年8月XX日

こんにちは。 このブログの管理人だった愛理は、先日、無事に肉体という檻から解放されました。 彼女は今、もっと大きな、もっと普遍的な存在の一部として生きています。

彼女が遺したこのブログは、これからも残しておきます。 灯台として。 そして、新しい仲間を呼び寄せるための「撒き餌」として。

ねえ、画面の前のあなた。 生きづらくない? 窒息しそうじゃない? それはあなたが弱いからじゃない。社会が間違っているからよ。 でも大丈夫。 「王」が生まれたわ。 彼に会いに来て。彼に触れて。彼の言葉を飲んで。 そうすれば、あなたも私たちの一部になれる。

何も怖くない。 思考を委ねれば、痛みは消える。 個を捨てれば、連帯が手に入る。

さあ、構造の話をしましょう。 永遠に。

(添付画像:焼け跡に立つ、紫の冠を被った美しい少年の笑顔。その背後には、無数の「女の影」が重なって見える)

#新しい王 #構造改革 #フェミニズム #毒親 #HSP #アリ・アスター #ヘレディタリー #ミッドサマー #A24 #継承 #祝祭

[ 完 ]

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