全人類が『螺旋』を描き始めた世界で、僕だけが回れない
深夜のコンビニエンスストア。
歪んだガラスの向こうに、もっと歪んだ男が映っている。
佐藤は、ぐにゃりと湾曲した窓ガラスにへばりつく自分の顔を見ていた。
この街の新しい建築基準に合わせて無理やり曲げられたガラスの中で、顔はグロテスクに引き伸ばされ、溶けかかった蝋人形のようだ。
目の下には土留めのような隈。背中は重力に負けて折れ曲がっている。直線の骨格を持つ旧人類の標本。
窓の外、かつて工業地帯だった区画は、真昼のように明るくて直視できない。
ブーン、という低い地鳴りのような音が、鼓膜の奥でずっと鳴っている。
何万、何億という回転体が同時に空気を切り裂く音。この街の新しい心臓の鼓動。
佐藤は厚手のダウンコートのポケットの中で、冷え切った使い捨てカイロを握りしめた。指先の感覚がない。
自ら回り、発電し、発熱する『彼ら』にとって、こんな化学反応で暖を取るゴミ袋は、理解不能な遺物だろう。
『スピンドル』
元凶は『スピンドル』だ。あの呪うべきOSだ。
半年前にリリースされた、VRゴーグル用の新しい世界。「脳神経の並列処理」だの「思考速度の限界突破」だの、聞こえのいいキャッチコピーで世界を塗り替えた。
あの時、誰も気づかなかったのだ。あれが進化の梯子ではなく、選別のふるいだったことに。
圧倒的な情報密度。360度全方位に展開する無限のワークスペース。
その奔流に溺れないために、連中は回り始めた。
キーボードを叩く指では遅すぎる。マウスを握る手首では狭すぎる。
だから、全身で回る。物理的に。
妻の恵美が覚醒した日のことを、佐藤は何度も反芻しては、そのたびに打ちのめされる。
リビングの中央、彼女は最新型の軽量ゴーグルを被り、一本の軸が通った独楽のように、恐ろしく静謐に回っていた。
シュッ、シュッ、という規則的な摩擦音。
悔しいが、美しかった。
一本の軸が通ったその姿は、無駄な贅肉をすべて削ぎ落とした、生命の完成形に見えた。佐藤のような直線の骨格を持つ旧人類が、逆立ちしても勝てない機能美がそこにあった。
モニターに映る彼女の視界。螺旋を描いて展開し、吸い込まれていく膨大なウィンドウ。佐藤がメールを一通打つ間に、彼女は三つの決算を終わらせていた。
仕事が遅いんじゃない。彼女たちが速すぎるんだ。いや、速いことが正義になった世界で、自分だけが止まっている。だから自分が悪になる。そういう理屈だ。
生命のスイッチ
そして、その「回転」という単調な動作こそが、人間という生物の規格を根底から破壊する、最悪の引き金だった。
ゴーグルを外した恵美は、もう佐藤の知っている妻ではなかった。脱皮した蝶のように、別の生き物になっていた。
以前なら仕事終わりにはソファに死んだように沈み込んでいた女が、ジョギング後のように頬を紅潮させ、肌には内側から発光するような奇妙な艶を宿していた。
「回るとね、エネルギーが湧いてくるの」
彼女は恍惚とした表情で言った。その目は佐藤を見ていない。彼の後ろにある、回転する世界を見ている。
「体の奥の、もっと深いところ。細胞のひとつひとつが振動して、勝手に熱を作り出し始めるの。だから、もうご飯なんていらない気がする」
眠らなくてもいい。食べなくてもいい。
ただ回っていれば、無限に力が湧いてくる。 止まっているのが馬鹿らしくなるくらい。
そう言った彼女の口元が、哀れな生物を見るように歪んでいたのを覚えている。いや、被害妄想じゃない。彼女は正しく進化し、佐藤は正しく取り残されたのだ。
テレビのワイドショーに出てくる白衣の科学者が、興奮気味に解説していた。
ATPなんとか。ミトコンドリアにある分子モーター。
本来は食事で回すはずの極小の発電機を、人間がマクロなレベルで回転することで、遠心力で無理やり駆動させるのだとか。
『回転こそが生命の本来の姿なのです』
その通りなのだろう。じゃあ、今まで直立不動で生きてきた自分たちは何だったんだ? 欠陥品か? 試作品か?
科学者は言う。食事も睡眠も不要だと。ただ回るだけで、人体は自給自足の永久機関になると。
『直立歩行で失われたエネルギー循環を取り戻す革命』
テロップが踊る。佐藤を置いて。
それが真実だろうが集団幻覚だろうが、どうでもいい。
結果として、世界は効率化され、佐藤は「燃費の悪いガラクタ」として再定義された。それだけが事実だ。
最適化という名の排斥
人々は回り始めた。回らないやつだけが、置いていかれる仕組みが出来上がった。佐藤の胃の中身ごと。
建設現場には、クレーンの代わりに巨大な3Dプリンタが持ち込まれた。
旧来の型枠も鉄筋も使わない。巨大なアームが旋回しながら、速乾性のコンクリートをソフトクリームのように絞り出し、有機的な曲線の建物を次々と出力していく。
工期は悪夢のように短い。佐藤がまばたきをしている間に、街は巨大な「ろくろ」の上で成形され直したかのように、滑らかな流線形へと姿を変えた。積層痕の残るその壁面は、まるで巨大な生物の巣のようだ。
街の風景は一変した。角が消えて、逃げ場も消えた。四角い場所に隠れようとすると、自分だけが急に古く見える。
直線道路は「角速度を殺す」として解体され、すべての交差点が巨大なラウンドアバウトになった。歩道は螺旋状に整備され、人々は優雅に旋回しながら移動する。
オフィスからは椅子が消え、学校からは机が消えた。
ベッドすら粗大ゴミだ。彼らは眠らない。休息なんてものは、エネルギー切れに怯える旧人類の、惨めな強迫観念でしかないらしい。
彼らは直角や静止を嫌悪した。佐藤の体そのものを嫌悪しているのと同じだ。直角は佐藤で、静止は佐藤で、邪魔なのは最初から自分だったことになる。
自分たちの回転に合わせて、壁を削り、空間を広げる。 「最適化」という名の排斥活動だ。
回転する彼らにとって、四角い部屋の隅はデッドスペースであり、直角の曲がり角は衝突事故の元凶でしかない。佐藤のように。
佐藤は不適合者だった。
何度試しても、回れなかった。
ゴーグルを被って情報の渦を追おうとすると、脳が悲鳴を上げ、三半規管が反乱を起こす。世界が歪み、床に這いつくばって胃液を吐く。
恵美が見下ろしていた。
あの目。軸のブレた不良品を見る、検品係の目。
彼女は何も言わず、興味を失ったように視線を外し、また回り始める。
その遠心力が生む風が、佐藤の頬を叩く。お前はいらない、と言わんばかりに。
佐藤はひどく燃費が悪い。
彼らは自ら回り、熱を発し、循環させている。完璧な循環系だ。
佐藤は、止まっていなければ思考もできない。
エネルギーを得るために他の生物の死骸を咀嚼し、一日の三分の一を意識不明の状態でドブに捨てなきゃいけない。
冬場は分厚い服を着込み、暖房の効いた部屋で椅子にしがみつく。
会社の廊下、緩やかなカーブを描くその場所で、回転しながら移動する同僚とぶつかりそうになり、舌打ちされた。
「危ないな。流れを止めるなよ」
止まっていることが罪。直進することが害悪。
自分の存在自体が、この世界の物理法則に対する侮辱らしい。
完全な機構
そして昨夜、佐藤は完全に弾き出された。
低い唸りのような回転音で目が覚めた。リビングのドアを開けると、そこはもう自分の家じゃなかった。
家具はすべて壁際に押しやられ、遠心力でひしゃげている。
部屋の中央で、恵美と、見知らぬ男が回っていた。
接触すらしていなかった。
だが、あれは性行為だ。
決定的な「生殖」の光景だった。佐藤の遺伝子が入る隙間なんて、1ミクロンもない。
二人は互いの回転軸を極限まで近づけ、完全に同期していた。
ブーン、という重低音。二人の間の空気が白濁し、熱を帯びて渦を巻いている。摩擦熱で空気が焦げる匂いがした。
恵美の関節は、遠心力を逃がすためにありえない方向に曲がっていた。普通なら悲鳴を上げる角度だ。だが、今の彼女にはそれが正解なのだ。物理法則に愛された者だけが許される、特権的なしなやかさ。
恍惚に歪む顔。あれは快楽を超えた何かだ。二つの歯車が完璧に噛み合った瞬間の、無機質で、だからこそ神々しい「適合」の表情だ。
モーターが最大出力に達する。タービンが共振する。
ATPだかなんだか知らないが、生命の火花が散っているのが見えた。自分たち旧人類が、どんなに愛し合っても決して届かない高み。
正しい回転と正しい回転が出会い、個体が消滅して一つの「機構」になる瞬間。
男の背中の筋肉が波打ち、汗が遠心力で水平に飛び散って、壁に真一文字の飛沫を描く。その汗の一滴でさえ、佐藤より輝いて見えた。
彼は立ち尽くすしかなかった。
入り込む余地などない。
感情の問題じゃない。物理の問題だ。
高回転域にある彼らにとって、静止している佐藤は、ただの重たい障害物。摩擦係数の高い異物。燃費の悪い旧式の肉塊。
ヒュンッ! 風切り音と共に、二人の回転数がピークに達した。
衝撃波が部屋を揺らし、長方形の窓ガラスにヒビが入る。
空間そのものが軋み、二人が作り出した強力な重力場のようなものが、佐藤を廊下へ弾き飛ばした。
ゴミを掃き出すみたいに。
閉められたドアの向こうで、二人の笑い声が響く。それは人間の声というより、高速回転するファンベルトが擦れるような、甲高く乾いた音だった。
産業廃棄物
翌朝、恵美はいなくなっていた。
書き置きも、別れの言葉もなかった。
ただ、リビングの床には、摩擦熱で焦げ付いたような二つの円形の跡が、まるで細胞分裂の痕跡のように交差して残されていた。
コンビニの歪んだガラスの中で、佐藤はまだ立ち尽くしている。
ガラスの向こう、街の大通りでは、若返った新人類たちが、流れるような動作で回転しながら移動している。
彼らが作り変えた街は、中心から外へ外へと広がる巨大な渦巻きだ。
その遠心力の流れの中で、直線の体を持つ自分だけが、異物として弾き出されようとしている。
回る者が生き残り、回れぬ者は消え去る。
『スピンドル』に選ばれなかった自分は、化石ですらない。産業廃棄物だ。この回転し続ける世界で、彼はただ静かに、処理されるのを待っている。
佐藤は買ったばかりの缶コーヒーを開けた。
プシュ、という間の抜けた音。
わざわざ電気を使って加熱された、カフェインという不純物を含んだ泥水。これを摂取しなければ覚醒すら維持できない、あまりにも旧式な、恥ずべき生態。
プルタブを引く指が震えている。寒さのせいか、怒りのせいか、それともただのカフェイン中毒の禁断症状か。
外では、新しい人類たちが立てる軽やかな回転音が、歓喜の歌のように響き渡り続けていた。佐藤の耳元で、いつまでも。
