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歴史上唯一「歌詞がないのに放送禁止」になった曲の話──1958年、リンク・レイの歪み

小さな出来事から、この話は始まる。

時(とき)は1958年(昭和三十三年)。場所は、繁栄の極みにあるアメリカ合衆国である。

この国が第二次世界大戦という未曾有の動乱を経て、パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)を謳歌していた時期にあたる。一般家庭には電気冷蔵庫やテレビ受像機が普及し、郊外には清潔な芝生が広がり、人々は「豊かな社会」が永劫に続くと信じて疑わなかった。

しかし、その巨大な繁栄の腹の底には、ある種の怯えがあった。

「少年非行(ジュブナイル・デリンケンシー)」である。

当時の統計によれば、1948年からの10年足らずで、少年が裁判所に補導される件数は二倍以上に膨れ上がっていたという。

大都市の裏路地だけの話ではない。清潔な芝生に囲まれた中流家庭の足元まで、その影は忍び寄っていた。

全国誌はこぞって「なぜ子供たちは変わってしまったのか」と書き立て、ハリウッド映画はその恐怖を増幅させた。

そんな時代の空気が張り詰める中、奇妙な音が鳴り始めた。 リンク・レイという、ショーニー族の血を引く男が弾いたギターの音である。

その曲には、歌詞がない。

ただ、聞く者の鼓膜をやすりで擦るような、下品で、暴力的で、それでいてどうしようもなく魅力的な「歪み(ディストーション)」があっただけである。

後年、2025年になって、この曲がSNSという電脳空間で「歴史上唯一、放送禁止になったインストゥルメンタル曲」として話題になるのだが、当時の大人たちがこの曲に向けた恐怖は、現代人が考えるような軽いものではない。 彼らは、その音の中に、文明の裂け目を見たのである。

一、ショーニーの男

男の名は、フレッド・リンカーン・レイ・ジュニアという。

通称、リンク・レイ。

1929年生まれというから、日本の年号で言えば昭和四年にあたる。ノースカロライナの貧しい家に生まれ、幼少期にはクー・クラックス・クラン(KKK)の襲撃に怯えて森や納屋に隠れて過ごしたという原体験を持つ。

彼の血の中には、アメリカという国が抱える暗部と、先住民族の誇りとが、分かち難く混ざり合っていたといっていい。

この男、元来はカントリーやロカビリーを好むありふれたギタリストに過ぎなかった。

運命が変わったのは、朝鮮戦争の時期である。軍務中に患った結核により、喉をやられ、歌うことが困難になったのである。

当時隆盛を極めていたエルヴィス・プレスリーのように、声を張り上げて歌うことは、もはや望めない。歌手としての道は、このとき閉ざされた。

「ならば、ギターで叫ぶほかない」 と、レイは思ったかどうか。彼は喉の代わりに、真空管アンプを叫ばせることにした。

事の起こりは、1957年、ヴァージニア州フレデリックスバーグでのある夜のことである。 地元のDJが主催するダンス・パーティ(レコード・ホップ)に出演していたレイは、司会者から唐突にリクエストを受けた。

「おい、今流行りの『ストロール(The Stroll)』をやってくれないか」

そんな曲はレパートリーにない。だが、客は踊りたがっている。レイは即興でコードをかき鳴らした。Dのコードを、力任せに。

その時、会場のマイクをアンプに近づけすぎた偶然から、音が割れた。歪んだのである。

(これだ) と、若者たちは熱狂した。あまりの騒ぎに、レイはその夜、同じ曲を四回も演奏させられたという。

この「現場の熱」をレコード盤に刻むため、レイはスタジオで常軌を逸した行動に出る。

もっと汚い音が欲しい。もっと割れた音が欲しい。

彼はアンプのスピーカー・コーン(ツイーター)に、鉛筆で穴を空けたのである。

現代のエンジニアなら眉をひそめるような暴挙だが、さらにトレモロ(音を小刻みに揺らす装置)を深くかけることで、あの独特の唸りが完成した。

録音にかかったテイク数は、わずか3回。費用は57ドルだったという。

安価なスタジオで、安価な改造によって生まれたその音は、しかし、それまで地球上のどこにも存在しなかった轟音であった。

曲名は『ランブル(Rumble)』と名付けられた。「喧嘩」あるいは「乱闘」を意味するスラングである。

二、衛生の恐怖

さて、視点を少し変える。 この音を受け止めた「社会」の側である。

1950年代のアメリカ社会というのは、マスメディアに対して一種の病的な潔癖さを持っていた。

1954年には、連邦議会上院で「コミックブックが子供を犯罪者にするのではないか」という公聴会が開かれている。

皮肉なことに、メディアを裁くその公聴会の様子自体が、マスメディア、つまりテレビによって全国の家庭へ一斉に中継された。

その席上、精神科医のフレデリック・ワーサムは、コミックや暴力的な表現を指してこう言い切った。

「これは公衆衛生上の問題(パブリック・ヘルス・プロブレム)である」と。

道徳の問題ではない。ペストや結核と同じく、隔離し、排除すべき汚染源だというのである。

放送業界も、この空気には敏感であった。

1952年には全米ラジオ・テレビ放送者協会(NARTB)が厳格な倫理規定(テレビジョン・コード)を制定している。そこには「放送は家庭に直結するものである」という自己規定とともに、視聴者からの苦情を処理し、番組内容を監視する仕組みが明文化されていた。

そこへ、リンク・レイの『ランブル』が放り込まれた。

歌詞はない。

言葉がないのだから、論理的な批判はできないはずである。

しかし、ラジオ局の編成担当者たちは、即座に反応した。「これは、いかん」 と、彼らは直感したのである。

彼らは検閲官である以前に、サラリーマンであった。

タイトルが『乱闘(ランブル)』であり、音が暴力的である以上、これを流せばスポンサーやPTAから苦情が殺到する。

「なぜ非行を助長するような曲を流すのか」 そう詰問されたとき、彼らには身を守る術がない。

歌詞がないことは、安全の証明にはならなかった。むしろ、言葉がない分、その不穏な響きは「何かの合図」のように聞こえたのである。

ニューヨーク、ボストン、デトロイト。 大都市の有力ラジオ局は、誰に命じられたわけでもなく、雪崩を打つようにこの曲を放送リストから外していった。

いわゆる「放送禁止(バン)」である。

それは政府による弾圧というよりは、リスクを恐れる現場の事なかれ主義が招いた、必然の沈黙であった。

三、時勢

歴史というものは、皮肉なものである。

大人が「隠そう」としたものは、かえって若者の好奇心を刺激する。

ラジオという表玄関を閉ざされた『ランブル』は、裏口から侵入した。 ジュークボックスである。

ダイナーやドラッグストアの片隅で、若者たちは小銭を投入し、この曲を選んだ。一九五八年の春から夏にかけて、ラジオでは流れないこの曲が、街角では鳴り止まなかったという。

さらに社会を不安にさせたのは、この曲が白人の不良少年たちだけでなく、都市部の黒人の若者たちにも熱狂的に支持されたことである。人種の壁を超えて響くその轟音は、当時の大人たちにとって、秩序の崩壊そのものに見えたに違いない。

後にロック界の巨人となるピート・タウンゼント(ザ・フー)やジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)もまた、この曲に脳天を撃ち抜かれた少年たちであった。

「あれこそが、すべての始まりだった」 と、彼らは後に口を揃えて語ることになる。

リンク・レイ自身は、2005年に世を去った。

彼の生涯は、決して華やかなスタジアム・スターのそれではない。しかし、彼が鉛筆でスピーカーに穴を空けたあの日、ロックンロールは単なる軽快なダンス音楽から、体制に牙を剥く「叛逆の響き」へと変質したのである。

四、後世の眼

時計の針を、現代へ戻す。

2025年。SNS上で、この「インスト曲放送禁止事件」が話題になった。

現代の人々は、 「歌詞もないのに放送禁止とは、昔の人はなんと愚かだったのか」 と笑うかもしれない。だが、笑うべきではない。

1957年の大人たちが恐れたのは、単なるギターの音ではない。

彼らは、得体の知れない新しい文化が、自分たちの理解できない速度と規模で世界を覆い尽くそうとしていることへの、根源的な恐怖を感じていたのである。

かつてラジオがそうであったように、現代ではインターネットやAIが、リビングルームの「パイプ」となり、何かを流し込んでいる。

形は違えど、我々もまた、見えない何かに怯え、何かを禁じようとしている点では、1958年の彼らとそう変わらないのかもしれない。

リンク・レイの『ランブル』。 その歪んだ音は、半世紀以上の時を超えて、今もなお、安全な場所に安住しようとする人々の鼓膜を、不快に、しかし魅力的に震わせ続けている。

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