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庶陽 「庶民」による山の上の「斜陽」ごっこ #ホラー #実話ベース #太宰治パロ

「私たち、ただの庶民ですのよ」と笑う、山の上の怪物たち

地方の温泉街を見下ろす山の手に、和洋折衷の奇妙に立派な屋敷が建っている。

そこには、かつてこの地方の交通と観光を一手に握っていたバス会社グループ会長の未亡人と、その一人娘、そして孫娘たちが本籍を置いている。

門から玄関までのアプローチには、手入れの行き届いた松と、不釣り合いなほど巨大な外車が停められるスペースがある。しかし、この家の住人たちは口を揃えてこう言うのだ。

「うちは、本当に普通の家ですから」

この言葉こそが、この屋敷を覆う最も分厚いカーテンであり、彼女たちの「あまりにいびつな生態」を隠す魔法の言葉だ。祖母である未亡人も、娘も、孫娘たちも、誰一人として正規の職に就いていない。亡き「会長」の遺産という生命維持装置に繋がれながら、彼女たちは本気で自分たちを「慎ましく生きる、良識ある庶民」だと信じている。

私はこの家の長女である孫娘(37歳)を愛人として囲っている。正確に言えば、あの日、山の下の温泉街のバーで、彼女のほうが私の財布の厚みと孤独の深さを嗅ぎ当て、逃さなかったのだ。私という「新しい宿主」を見つけた時の彼女の目は、獲物を前にした猛禽類のように澄んでいた。

彼女は普段、私が都内に用意したマンションと実家を行き来する二重生活を送っている。彼女が実家へ戻る時、新幹線とローカル線を乗り継ぎ、駅前の寂れたシャッター通りをタクシーで抜けていく。潰れたパチンコ店、深夜営業のコンビニにたむろするジャージ姿の若者たち、色あせた「スナック・愛」の看板。そうした「山の下の現実」を、彼女はタクシーの窓越しに他人事のように眺め、急勾配の坂道を登っていく。

エンジンを唸らせて坂を登りきった先、別世界のように静まり返った屋敷の門をくぐる時だけ、彼女たちは下界の有象無象とは違う、「選ばれた庶民」に戻れるのだ。彼女の口から語られる「実家の常識」は、世間のそれとは致命的に、そして残酷にズレている。

貧困の記憶は死よりも深く、老婆は「普通」という名の城壁を高く積み上げる

祖母の「普通」が狂い始めた起点は、高度経済成長期の熱狂の中にある。彼女が時折、遠い目をして語る昔話によると、夫は最初、ただのバス運転手だったという。

「あの人は真面目だけが取り柄でね。二人で六畳一間のアパートから始めたのよ」

その時、彼女の瞳の奥に、一瞬だけ暗い影が走る。共同炊事場の薄暗さ、冬の水の冷たさ、壁一枚隔てた隣室から聞こえる夫婦喧嘩の怒号。かつて肌に染み付いていた「貧しさ」の臭い。それを思い出すことは、彼女にとって死ぬことよりも恐ろしい屈辱なのだ。

だからこそ、彼女は現在のこの暮らしを「贅沢」と認めるわけにはいかない。これは成功の果実ではなく、「人間としてまともに生きていれば当然与えられるべき、普通の環境」でなくてはならない。そうでなければ、あの惨めだった頃の自分が、本当の自分だったことになってしまうから。

成功したのは運でも特権でもない。「普通に、真面目に生きたから」だと思い込んでいる。逆に言えば、そこに至らない人間は「どこかで手を抜いた人たち」ということになる。この悲痛な防衛本能に支えられた無邪気な選民意識こそが、彼女の倫理の根幹を成している。

幸福の包装紙のみを愛し、中身の腐敗には目を瞑る、老婆による残酷きわまる通信簿

この「祖母の倫理」は、十年という歳月を経ても微動だにしない。むしろ、変化し続ける孫娘たちの現実を、変わらぬ「色眼鏡」で無理やり解釈し続けている。

かつて国立大学の博士課程に進み、研究職を目指していた三女。十年前、祖母は彼女にこう言い放った。「あの子は変わり者ね。お勉強はお嫁に行くまでの暇つぶしでしょうに、いつまで遊んでいるのかしら」博士号など取ったら、貰い手がなくなってしまう。それが祖母の懸念だった。

そして現在。三女は研究の道を諦め、都内の出版社で派遣社員として働いている。「文化の香りがしない職場は嫌」という理由で選んだ、時給制の非正規雇用だ。しかし、祖母の評価は奇妙に好転した。「あら、本を作るお仕事?それなら知的でよろしいじゃない。良い殿方がいらっしゃるかもしれないわね」

祖母にとって「派遣」という雇用形態は視界に入らない。重要なのは「出版社」という、なんとなく響きの良い包装紙だけだ。三女の生活が不安定さを増しても、祖母の中では「暇つぶしの延長」として肯定されている。

対照的に、地方の開業医の三代目に見初められた次女への評価は、十年前から絶大で揺るぎない。「あの方なら間違いないわ。お医者様の家系なら安心ね」その予言通りに次女が玉の輿に乗った今、祖母は満足げに繰り返す。

「あの子は本当に親孝行。ちゃんと『普通の幸せ』を掴んでくれたわ」

他人の財布に寄生することを、この家では「正解」と呼ぶ。この十年で証明されたのは、それだけだ。

そして、私の愛人である長女。私学の教員採用を諦め(公立は経験がないため選択肢に入らなかった)、十年程前から、定職につかずフラフラし始めた彼女を、祖母は「お母さんに似て、ふわふわしているわねえ」と少しだけ案じていた。しかし今、彼女が私のマンションと実家を行き来し、生活のすべてを他人の財布に依存している現状に対し、祖母は何も言わない。いや、むしろ安心しているようだ。彼女が良い服を着て、手土産に老舗の菓子を持って帰る限り、その資金源がどこかなんて問わない。

「あなたも身なりだけはきちんとしていて、偉いわね」

それが、祖母が長女に与えた最新の通信簿だ。中身がどうあれ、包装紙さえ美しければ「良し」とする。その価値観は、孫娘たちがどれほど年齢を重ねようとも、化石のように変わらない。

慎ましき生活を防衛せんがため、道楽者の魂をハンマーにて粉砕する、日曜午後の儀式について

この家の「普通」を脅かす異分子に対して、彼女たちは容赦がない。かつて一人娘(孫娘の母)が連れてきた二番目の夫、貧しいジャズピアニストを排除した時のエピソードは、その象徴だ。

祖母と娘は、その婿を名前では呼ばず、陰で「モンちゃん」と呼んでいたという。「文無し(もんなし)」を可愛らしく縮めて、愛称のように見せかけた蔑称だ。

「あら、今日はモンちゃんいらっしゃるの?」

そう言ってクスクスと笑い合う彼女たちの中に、悪意の自覚はない。ただ、自分たちの「普通の水準」に満たない人間を、マスコットのように扱うことで精神的な衛生を保っていたのだ。

ある日、その婿がなけなしの金をはたいて、高価なシンセサイザーを買ってきたことがあった。彼にとっては商売道具であり、魂の一部だったはずだ。 しかし、祖母はそれを「異物」と見なした。

祖母と娘は、日曜の午後のリビングで、工具箱から持ち出したハンマーを振り下ろし、そのシンセサイザーを叩き壊した。それは暴力ではない。彼女たちの中では「掃除」なのだ。

「あなたもやりなさい。これが、慎ましい生活を守るということよ」

当時まだ幼かった長女(私の愛人)は、母親たちの「正義」に加担するために、ツマミを一つ引き抜いた。彼女たちは、自分たちが冷酷だなんて思っていない。ただ、「普通の家には、稼ぎもしない男の道楽道具は不要」という、歪んだ質素倹約の精神を実行したに過ぎないのだ。

その婿が後に万引きで捕まった時、警察からの電話に「存じません」とガチャ切りしたのも同じ理屈だ。

「普通に生きていれば、警察のご厄介になんてなりませんでしょう?」

彼女たちにとって、犯罪者は「普通の暮らし」の枠外にいる存在。だから、最初からいなかったものとして処理する。そこに葛藤はない。

五十万円の鞄を日用品と嘯き、他人の財布にて購う無垢なる罪悪、あるいは特権的無自覚

長女である孫娘の金銭感覚も、この「自称・庶民」の病に深く侵されている。彼女はデパートで50万円のバッグをねだる時、決して「贅沢させて」とは言わない。

「これ、革が丈夫で、一生使えそうじゃない?結局、良いものを長く使うのが一番の節約よね」そう言って、値札も見ずに即決する。

別日、カードの請求に青ざめて私に泣きついてくる時も、彼女は反省などしない。「私、使ったつもりなかったのに」と被害者の顔をする。私が肩代わりすると、彼女は涙を拭いて、無邪気に笑う。

「ありがとう。やっぱり、普通が一番ね」

その「ありがとう」は、何度聞いても妙にこなれている。本当に安堵しているのか、それとも儀式として口にしているだけなのか、今ではもう区別がつかない。少なくとも一つだけ確かなのは、彼女が最初から「私が払う前提で値札を見ていない」という事実だけだ。

彼女が言う「普通」とは、「困った時には、必ず誰かが無償で助けてくれる」という特権的な世界のことだ。もっとも、自分の稼ぎ方を声高に誇れるほど、私自身もまっとうな人間ではないのだが。かつて祖父がそうしたように、今は私がそうしている。ただそれだけのことだ。

金銭は空気の如く湧き出でて、イタリアへの逃避行を「ささやかな権利」と呼ぶ滑稽

一人娘(孫娘の母)もまた、「普通の暮らし」を守るためと称して、息をするように他人の金を吸い上げる。今年はイタリア、来年は台湾。彼女は毎年のように海外旅行の計画を立てる。

「たまには、こんな贅沢も許されるわよね。うちなんて、普通の家なんだから」

そう言いながら、パンフレットに赤いペンで丸を付ける手つきは、本気で慎ましい主婦を演じているつもりなのだ。そのたびに、長女である愛人も「お母さんと一緒に行きたい」と目を輝かせる。

イタリア行きのとき、長女は最初こう言った。「さすがにこれは自分で稼ぐ。大人だもの」

しかし、出発日が近づくころ、彼女は都内のマンションに転がり込んできた。

「ちょっとだけ足りなくて。トータルで120万くらいなの。ごめんね」

彼女は「ごめんね」と言うたびに、決して目をそらさない。 私の顔色を読む目と、甘える声の温度だけが、妙にプロフェッショナルだ。

結局、私はその120万を丸ごと出した。例のカード騒ぎやバッグとは、まったく別枠の話だ。来年予定している台湾旅行も、おそらく同じような流れになるだろう。

彼女は「今度こそ自分でなんとかする」と言うが、その言葉はもう、彼女自身に向けた決意表明ではない。「あなたはきっとまた出してしまう」という予言を、優しくなぞるための呪文のようになっている。

彼女たちにとって金は空気のようなもので、必要になればどこからともなく満ちてきて、かつては会長の年金と遺産がそれを担い、今は私の口座が、その役割の一部を引き継いでいるだけだと、私はよく分かっている。

楽園の砂は音もなく零れ落ち、終わりの気配は庭の松の葉先よりひたひたと忍び寄る

しかし、この楽園にも終わりの気配は確実に忍び寄っている。年に数回、顧問税理士の男が屋敷を訪れる。応接間で出された高級羊羹には手を付けず、彼は控えめに切り出す。

「奥様、今のペースで取り崩しを続けますと、十年後には……」

だが、祖母はその言葉を「嫌な音」として処理する。

「あら、やだわ先生。あの人(亡くなった配偶者)が残してくださったものですもの、そんなすぐに無くなりはしませんよ」

彼女は笑って、話題を庭の植木の手入れに変えてしまう。

通帳の数字は、確実に、静かに減り続けている。屋敷の外壁には微細な亀裂が入り、自慢の松の木も、よく見れば端の方が枯れ始めている。しかし、この家の住人たちは、自分たちの足元の砂がさらさらと流れ落ちている音に、決して耳を澄まそうとはしない。その音が聞こえてしまえば、彼女たちの「普通の暮らし」という魔法が解けてしまうからだ。

「今年はイタリア、来年は台湾。うちなんて、ほんと、普通の家なのにねえ」

山の上のテラスで、祖母と娘と孫娘が、夕焼けを背にしてそう笑っている光景を思い浮かべるたびに、私は自分がどんな生き物たちに餌をやっているのかを、少しだけ冷静に思い出す。

滅びゆく怪物たちに血管を繋ぎ、この心地よき地獄の特等席にて微睡む愚かなる共犯者

この祖母と孫娘たちを『斜陽』の没落貴族と重ねるのは、太宰治に失礼かもしれない。かず子は「古い道徳」と戦ったが、彼女たちは「古い道徳」を「庶民の常識」だと信じ込み、その殻の中に引きこもっている。

山の上の屋敷で、彼女たちは今日も優雅に紅茶を飲みながら、ニュースを見てこう言っているに違いない。

「最近の世の中は物騒ね。私たちはこうして、慎ましく生きているというのに」

自分たちが、他人の生き血を啜って生きる怪物であることには、死ぬまで気づかないまま。壊された楽器の破片はとうに捨てられたが、その時彼女たちが共有した「私たちは選ばれた側の人間だ」という共犯関係だけは、冷たい宝石のように、今もその家の中心に鎮座している。

そして、そんな彼女たちを「愚かだ」と嘲笑いながら、今日もまた長女のマンションの家賃を振り込んでいる私も、結局はこの奇妙な生態系の一部なのだ。

この家にとって私は、亡き会長の年金の代わりに後からつながれた、もう一本の太めの血管にすぎない。長女はその栓を、誰より器用に握っている。

この心地よい地獄の中で、私は彼女たちが緩やかに滅びていく様と、その滅びの時間をほんの少しだけ引き延ばしてやっている自分の手つきを、特等席から眺め続けている。

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