月は曇らず ~金色夜叉のクリスマス・キャロル~
第一章 夜叉の帳場
明治三十年一月の十六日、夜は既に更けて、下谷の町は凍りつくような寒気に包まれていた。
瓦斯灯の明かりも寒風に震え、往来の絶えた路地には、ただ砂塵が舞うばかりである。その一角、堅牢な黒塀を巡らせた高利貸・鰐淵直行の家屋だけが、異様な重苦しさを沈殿させていた。
帳場には、間貫一が一人座している。
火鉢の炭が時折爆ぜる音と、彼が弾く算盤の珠の音が、乾いたリズムを刻んでいた。貫一の指先は、氷のように冷たく、しかし正確無比であった。
大福帳を繰る手つきに、かつて高等中学校の学徒として書物を愛した面影はない。今の彼にあるのは、数字という無慈悲な真実を操る、冷酷な実務家の顔だけであった。
「……元金三百円、月利一割、三ヶ月の書替。利息九十円を元金に繰り入れ、証書面は三百九十円。さらに手数料、切手代……」
貫一は低く独語した。その声には、事務的な確認以上の、ある種の暗い悦楽が滲んでいた。
かつて彼は、金を卑しんだ。学問こそが人を高め、徳こそが世を治めると信じていた。だが、熱海の海岸でその幻想が砕かれて以来、彼は悟ったのだ。世を動かすのは徳ではない。ましてや愛などではない。金だ。金色に輝く、冷たく重い金属の力だけが、人の首を縦にも横にも振らせるのだと。
彼が今、計算しているのは単なる貸付金ではない。かつて自分を見下し、嘲り、裏切った世間そのものに対する、復讐の代価であった。
借り手が泣こうが、家が潰れようが、知ったことではない。契約は契約である。貫一は、法と数字という絶対的な鎧を纏い、他者の人生を合法的に削り取っていく。その万能感こそが、今の彼を支える唯一の糧であった。
ふと、行灯の火が大きく揺れた。
隙間風ではない。密閉された帳場の空気が、急激に粘度を増したように感じられた。
炭火の赤さが、どす黒い血の色に変色して見える。
貫一は手を止めた。背筋に、冷たい虫が這うような感覚が走る。
「……誰だ」
誰もいないはずの帳場の隅、闇が凝縮したその場所から、錆びた鉄の臭いが漂ってきた。
カタリ、カタリと、床板を踏む音ではない。甲冑の草摺が触れ合う音が近づいてくる。
貫一は目を凝らした。
そこに立っていたのは、泥と血に塗れた、一人の武者であった。
錦絵にあるような勇壮な武者ではない。矢が喉元に突き刺さり、片目は潰れ、鎧は砕け散っている。かつて『太平記』の世に、南朝に殉じて野に朽ちたか、あるいは名もなき合戦で捨て石にされた敗残の兵か。
その隻眼が、ギロリと貫一を射抜いた。
「精が出るな、若造」
声は、地底から響くような怨嗟の響きを帯びていた。
「夜な夜な、紙切れに墨を塗り、黒い珠を弾いて、それで勝ったつもりか」
貫一は、恐怖よりも先に、己の領域を侵された怒りを感じた。彼は立ち上がり、亡霊を睨み返した。
「何者だ。鰐淵への怨恨か。それとも私の客か」
「客だと?」
亡霊は喉の奥で笑った。血の泡が浮くような笑いであった。
「我はお前の血だ。間の家の、遠い祖先の記憶だ。お前の中に流れる、煮えたぎる敗北の歴史そのものだ」
亡霊は一歩、また一歩と貫一に迫る。その足元には、黒い染みが広がっていくようだった。
「我らは戦場で死んだ。信義を守り、主に尽くし、それでも時勢という巨大な車輪に轢き潰された。今の貴様と同じようにな」
「一緒にするな!」
貫一は叫んだ。
「私は負けていない。私は今、力を蓄えているのだ。誰にも二度と、私を侮らせはしない」
亡霊は、貫一の手元にある算盤を指差した。その指は白骨のように痩せ細っていた。
「その玩具でか? その算盤で、敵の首が斬れるか。その帳面で、流された血の代償が払えるか」
亡霊の声が、雷鳴のように貫一の鼓膜を打つ。
「甘い、甘いぞ貫一。お前はまだ、自分が『被害者』だと思っている。金を稼げば、見返せると信じている。だがな、金とは本来、もっと血生臭いものだ。人を殺し、国を焼き、魂を奪う、修羅の剣だ」
貫一は言葉を失った。亡霊の言葉は、彼が心の奥底に封印していた、どす黒い暴力衝動を直接撫で回すようであった。
ああ、そうだ。自分は、ただ金持ちになりたいのではない。富山唯継を、お宮を、そして自分を裏切った世界すべてを、蹂躙したいのだ。
「舐められたら殺せ」
亡霊が囁いた。
「奪われたら奪い尽くせ。恥を雪ぐには、金だけでは足りぬ。相手の骨の髄までしゃぶり尽くす、鬼の覚悟が必要だ」
亡霊は、帳場の闇に溶け込むように後退りした。
「今宵、お前に真実を見せてやろう。過去の未練、現在の欺瞞、そして未来の地獄をな」
「待て!」
貫一が手を伸ばした瞬間、行灯の火がポッと音を立てて消えた。
あとに残ったのは、静寂と、鼻をつく錆びた鉄の臭いだけであった。
壁の時計が、深夜零時を告げようとしていた。一月十七日。あの呪われた月夜の日付へと、針が進んでいく。
第二章 熱海の影
時計の針が重なり、ボーン、ボーンと、柱時計が深夜の報せを打ち始めた。
一月十七日。
その最初の一打が鳴り響くと同時に、貫一の視界は暗転した。
帳場の闇、炭火の赤、冷たい畳の感触、それらすべてが遠のき、代わりに冷たく湿った風が吹き込んできた。潮の香りである。
貫一が目を開くと、そこは下谷の帳場ではなかった。
頭上には、白銀の月が凍りついたように懸かっている。足元には白い砂浜が広がり、寄せては返す波音が、絶え間なく鼓膜を打つ。
熱海の海岸であった。
「見覚えがあろう」
背後から声がした。振り返ると、先ほどの亡霊とは違う気配がそこに佇んでいた。
それは武者姿ではなく、古びた裃を着た老人の姿をしていた。腰には大小の刀を差しているが、その刀身は錆びつき、鞘は割れている。かつて間の家が守ろうとして守りきれなかった、旧時代の威厳の残骸であった。
「過去の時を司る霊だ」
老人は枯れ木のような指で、松の木陰を指し示した。
そこには、二つの人影があった。
一人は、書生姿の貫一自身。もう一人は、鴫沢宮である。
一年前の今月今夜、貫一の時間が永遠に止まった、あの瞬間の光景であった。
「宮さん」
過去の貫一が、悲痛な声を上げている。
「一月の十七日だ。宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか……」
現在の貫一は、身を切られるような思いでそれを見つめた。
胸が張り裂けそうだ。あの時の純粋な絶望、愛する者に裏切られた悲しみが、昨日のことのように蘇る。
「……見るに耐えん」
貫一は呻いた。
「何故これを見せる。私の傷口を抉って楽しむつもりか」
「傷口だと?」
老人は鼻で笑った。
「お前はまだ、これを『恋の傷』だと思っているのか。めでたい男だ」
老人は、松の下で泣き崩れる宮を指差した。
「よく見ろ。あの女の目を。あれは、愛する男を失う悲しみの目か?」
貫一は目を凝らした。
月光に照らされた宮の顔。涙に濡れてはいるが、その瞳の奥には、ある種の色が宿っていた。
怯えである。そして、計算である。
彼女が見ているのは、目の前の貫一ではない。貫一の背後にある「持たざる者」としての暗い未来と、富山唯継が提示した「三百円の金剛石」という圧倒的な光、その二つを天秤にかけている目であった。
「これは恋の破局ではない」
老人は断じた。
「商談の決裂だ」
「商談……?」
「そうだ。鴫沢家という『家』が、間貫一という『不良債権』を見限り、富山家という『優良株』へ乗り換えた。それだけの話だ」
老人の言葉は、冷水のように貫一の熱を奪っていった。
「お前は『愛』だの『許嫁の約束』だのと、市場では一文の価値もない手形を振りかざして泣いている。だから滑稽なのだ。富山は金を出した。お前は何を出した? 『誠意』か? 『将来』か? そんな不確かなもので、女という高価な商品が買えると思ったか」
過去の貫一が叫ぶ。
「再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん」「僕の涙で必ず月は曇らして見せるから……」
「曇らぬよ」
現在の貫一の耳元で、老人が囁いた。
「月は曇らぬ。お前がどれほど泣こうと、恨もうと、あの月はただの巨大な石塊だ。そして富山のダイヤもまた、単なる炭素の結晶だ。だがな、貫一。世の中は、その『輝く石』を持つ者に傅くのだ」
貫一は、過去の自分が宮を足蹴にする場面を見た。
あれは激情の発露ではなかった。金という武器を持たぬ敗者が、最後にすがりついた原始的な暴力。それを行使した瞬間、彼は「被害者」という安住の地すら失い、ただの野蛮な獣へと堕ちたのだ。
「……そうだ」
貫一は呟いた。握りしめた拳に爪が食い込む。
「私は泣くべきではなかった。懇願すべきでもなかった」
彼の目から、感傷の湿り気が急速に失われていく。
あの夜、自分が感じた屈辱の正体は、失恋ではなかった。
自分の誇り、学問、人格、それら全てが、札束の厚みと宝石の輝きによって、無価値なものとして踏みにじられたことへの怒りだったのだ。
「奪われたのではない」
貫一は言った。
「私は、競り負けたのだ。資本の力において」
「左様」
老人は満足げに頷いた。
「ならばどうする? 泣いて月を曇らせるか? それとも……」
「曇らせるものか」
貫一は、頭上の月を睨みつけた。
「月が曇れば、闇に紛れて奴らは安眠するだろう。私は月を曇らせない。煌々と照らし出し、その光の下で、奴らからすべてを剥ぎ取ってやる」
風が凪いだ。
老人の姿が薄れていく。
「心したか、貫一。感傷を捨てよ。涙を捨てよ。残るは乾いた渇望のみ」
視界が再び歪み始めた。過去の影が消え、次なる時間が、口を開けて待っている。
第三章 金色の都市
熱海の潮騒が遠のくと同時に、むせ返るような香水の匂いと、硝子の触れ合う軽薄な音が押し寄せてきた。
闇が晴れると、そこはまばゆい光の洪水の中であった。
天井からは巨大なシャンデリアが下がり、床は磨き上げられた寄木細工。燕尾服と夜会服が入り乱れ、ワルツの旋律が流れている。
鹿鳴館の時代を継ぐ、東京のさる社交場であった。
「華やかなものよな」
隣に立つ者が言った。
振り返ると、そこには巨漢の霊がいた。上等なフロックコートを着ているが、その布地は継ぎ接ぎだらけで、ポケットからは金貨と腐った果実が同時に溢れ出している。
「現在の時を司る霊」――それは、繁栄と腐敗が同居する、明治三十年代の東京そのものの姿であった。
「見ろ、貫一。お前が憎み、そして羨んだ『金色の世界』だ」
霊が指差す先、人垣の中心に、富山唯継と、妻となったお宮の姿があった。
お宮は、目も綾な衣装に身を包み、首には真珠、指にはあの金剛石を輝かせている。だが、その表情は能面のように硬く、生気がない。時折、夫の言葉に合わせて人形のように微笑むだけである。彼女はそこに、富山家の「繁栄」を示すための高価な備品として置かれているに過ぎなかった。
一方の富山唯継は、葉巻を燻らせながら、数人の紳士と談笑していた。
貫一は耳をそばだてた。聞こえてくるのは、優雅な社交辞令ではない。
「……昨今の取り付け騒ぎは、どうにも頭が痛い」
「熊本の第九銀行に続いて、あちこちで支払停止だ。富山さんのところは大丈夫でしょうな?」
「ハハハ、無論だとも。父の信用は盤石ですよ」
富山は高らかに笑ったが、その額には脂汗が滲み、葉巻を持つ指先は微かに震えていた。
貫一には分かった。この男もまた、怯えているのだ。
下谷に聞こえた資産家も、市会議員の名望も、金融恐慌という荒波の前では木の葉のように脆い。彼らは「勝者」として君臨しているのではない。巨大な資本の奔流に飲み込まれまいと、必死に水をかいている溺れ人に過ぎない。
「滑稽だろう?」
霊が、腐った果実をかじりながら言った。
「彼らは金を持っているのではない。金という魔物に飼われているのだ。一度その背に乗れば、死ぬまで走り続けるしかない。止まれば、喰われるからな」
貫一は、帳場で数字を操る自分自身を思い出した。
一銭の狂いもなく利息を計算し、期限に遅れた者を容赦なく追い立てる自分。
富山が銀行でやっていることと、自分が鰐淵の店でやっていること。そこに何の違いがあるというのか。
規模が違うだけだ。看板が違うだけだ。
どちらも、人の生活を数字に変換し、それを吸い上げて肥え太るシステムの一部だ。
「……同じ穴の狢か」
貫一は冷ややかに呟いた。
かつて彼は、富山を「悪」だと思った。清らかな愛を金で汚す悪魔だと。
だが今、目の前にあるのは、悪魔ですらない。ただの、システムに過剰適応した俗物だ。そして貫一自身もまた、そのシステムの底辺から這い上がろうとする、もう一匹の俗物に過ぎない。
「私が彼らを憎むのは」
貫一は自分の心音を聞くように言った。
「彼らが不道徳だからではない。私より多く持っているからだ。私より高い場所にいて、私を見下ろしているからだ」
霊はニヤリと笑った。
「そうだ。正義などない。あるのは『食うか、食われるか』の因果のみ。お前はどちらになりたい?」
「食われるのは御免だ」
貫一は即答した。視線は、虚ろな目をしたお宮を一瞥し、すぐに富山唯継の脂ぎった顔へと戻った。
「食ってやる。奴らの骨の髄まで。富山の銀行が傾き、その手形が紙屑になった時、それを拾い上げてやるのは私だ」
その時、シャンデリアの光が一斉に明滅し、不吉な影を落とした。
舞踏会の音楽が、不協和音へと変わっていく。
霊のコートの裾から、どす黒い霧が噴き出し、華やかな会場を飲み込み始めた。
「よかろう」
霊の声が低く響く。
「ならば見せてやろう。お前たちが食らい合った先に、何が待っているのかを。個人を超えた、もっと巨大な『夜叉』の姿を」
床が抜け落ちる感覚と共に、貫一は再び闇の中へと落下していった。
次なるは未来。鉄と火と、血の匂いがする時代が、口を開けて待っている。
第四章 鉄と火の未来
落下は、重苦しい煤煙の匂いと共に止まった。
貫一が顔を上げると、そこは灰色の荒野であった。空は分厚い黒雲に覆われ、太陽の代わりに赤い溶鉱炉の火が、地平線を不気味に染め上げている。
彼方に、巨大な影が立っていた。
黒い軍服とも、僧衣ともつかぬ長い布を纏い、その顔は深い闇に隠れて見えない。ただ一本の腕を、無言で前方へと伸ばしている。
「未来の時を司る霊」である。
「……これは、何処だ」
貫一が問うても、霊は答えない。ただ、指し示すのみである。
貫一は、霊の指差す先へと歩を進めた。
霧が晴れると、そこには銀行の石造りの建物があった。かつて富山銀行と呼ばれた建物に似ているが、窓は割れ、看板は煤けている。
その前に、黒山の人だかりが出来ていた。
怒号、悲鳴、慟哭。
人々は預金通帳と証書を握りしめ、閉ざされた鉄扉を叩いている。
「金を返せ! 俺の全財産だぞ!」
「紙屑じゃないか、こんなもの!」
金融恐慌の嵐が、彼らの生活を根こそぎ奪い去ったのだ。その群衆の中に、貫一は見知った顔を見つけた。年老いた富山唯継であった。かつての傲慢さは消え失せ、垢じみた服を着て、茫然と立ち尽くしている。
彼は泥に塗れた手で、あの金剛石の指輪を必死に掲げていた。
「この指輪をやる! だから扉を開けてくれ!」
だが、殺気立った群衆も、堅く閉ざされた鉄扉も、彼に見向きもしない。
かつて三百円と謳われ、人の心を惑わせた輝きも、今の狂乱の中では、ただの冷たい石塊に過ぎなかった。
「……見たか」
貫一は呟いた。
「これが結末か。金に飼われた者の末路か」
だが、霊はまだ指を下ろさない。さらに先を見ろと促している。
風景が変わる。
銀行の倒産騒ぎは、軍靴の轟音にかき消された。
恐慌の絶望を埋め合わせるかのように、巨大な軍需景気が沸き起こっていた。
林立する工場の煙突から黒煙が噴き上がり、昼夜を問わず機械が唸りを上げている。人々は今、「国のために」という熱病に浮かされ、金と命を差し出していた。
もはや個人の借金などというレベルではない。国家そのものが、巨大な借金を背負い、巨大な暴力を生産し、それを「正義」と呼んで消費している。
その喧騒の中心に、一人の男がいた。
立派な執務室で、世界地図を広げる男。白髪交じりだが、その眼光は鋭く、冷徹そのものだ。
未来の間貫一である。
彼は鰐淵の跡を継ぐどころか、倒れた銀行を次々と併呑し、軍需産業と結びつき、財界の巨頭となっていた。
机の上には、書類の山がある。『大陸鐵道敷設權』『重工業擴張計劃』『戰時國債引受』……。
かつて貫一が帳場で弾いていた算盤の桁とは、比較にならぬ数字が並んでいる。だが、やっていることは同じだ。
人の命を数字に換え、それを右から左へと動かし、利鞘を稼ぐ。
そこに「お宮」の姿はない。愛も、恨みも、感傷も、すべては償却済みの損失として処理され、ここには純粋な「機能」としての夜叉だけが存在していた。
現在の貫一は、その光景を見て震えた。
恐怖ではない。武者震いであった。
彼は、霊に向かって叫んだ。
「答えろ、亡霊よ! これは定まった未来(Will be)か、それともあり得る未来(May be)か!」
霊は沈黙したまま、微動だにしない。
ディケンズの物語ならば、ここで主人公は「生き方を変えるから、この結末を変えてくれ」と懇願するだろう。墓石に自分の名を見て泣き崩れるだろう。
だが、貫一は笑った。
腹の底から、乾いた笑い声が込み上げてきた。
「変える必要などない!」
貫一は叫んだ。
「これだ! これこそが私の望んだ姿だ! 個人の恨みごときで、ちまちまと小銭を数えるのはもう終わりだ。私が夜叉になるのではない、日本中が夜叉になるのだ! ならば私は、その頂点に立って、この狂った世を操ってやる!」
彼は未来の自分――冷血な大資本家としての自分――に手を伸ばした。
「感傷など捨てよう。武士の情けも、人の心も、すべてこの溶鉱炉にくべてしまえ! 金色の猛火となって、世界を焼き尽くしてやる!」
その瞬間、未来の霊の姿が揺らぎ、崩れ落ちた。
黒い布の中から現れたのは、骸骨でも怪物でもなく、ただの「空虚」であった。
世界が音を立ててひび割れる。
工場の轟音も、軍靴の響きも、貫一の高笑いの中に吸い込まれていく。
闇が落ちる。
しかし、それは眠りの闇ではない。
覚醒への、短くも深い瞬きであった。
第五章 曇らぬ月
貫一が目覚めた時、枕元には静寂があった。
一月十七日の朝である。
雨戸の隙間から、凍てつくような冬の朝日が、鋭い刃のように差し込んでいる。
昨夜の喧騒――武士の亡霊の嘲笑、熱海の潮騒、金色の舞踏会、そして鉄と火の未来――は、すべて消え失せていた。
だが、それは単なる夢幻ではなかった。貫一の五体には、あの溶鉱炉の熱と、底知れぬ渇望が、確かな重みとして焼き付いていた。
彼は布団を跳ね除け、身を起こした。
不思議と頭は冴え渡っていた。かつて、お宮を失った直後のような、胸を掻きむしる焦燥感はない。代わりに、鏡のような冷徹な静けさが、心を満たしていた。
貫一は、身支度を整え、帳場へと向かった。
主人の鰐淵直行はまだ奥で寝ている。店には貫一ひとりだ。
彼は大福帳を開いた。
貫一は筆を執った。たっぷりと墨を含ませる。
そして、ある債務者の名前の上に、筆先を止めた。
「……鉄工場、平助」
彼は呟き、その項目の貸付残高と、担保に入っている工場の規模を冷静に見積もった。
今までなら、単なる焦げ付きそうな不良債権に見えていただろう。だが、今の貫一の目には、それが宝の山に見えていた。
彼は筆を置き、懐から自分の預金通帳を取り出した。
小額ではあるが、彼が爪に火をともす思いで貯めた金だ。これを慈善に使うつもりなど毛頭ない。
彼は、昨夜見た「未来」を思い出していた。
銀行が潰れ、軍需が沸く未来。ならば、今なすべきことは明白だ。
彼は、この全財産を種銭として、来るべき「鉄と火の時代」を買い叩くのだ。
「富山はいずれ落ちる」
貫一は独語した。その声には、復讐の熱気すらなく、ただの事実を確認するような響きがあった。
「その時、彼の持っていたものを、私が買い叩く。お宮も……いや、あれもまた、償却すべき不良債権の一つに過ぎん」
そう吐き捨てた舌の根に、鉄錆のような苦い味がじわりと広がったが、彼はそれを唾と共に飲み下した。
かつての執着は、より巨大な野心の中に溶け込み、昇華されていた。
個人の恋を嘆く暇があるなら、世界を支配する力を手に入れるほうが先だ。そうすれば、愛も情も、必要なら市場で調達できる。
貫一は手を休め、ふと窓の外を見上げた。
冬晴れの空は高く、どこまでも澄み渡っていた。
その青天井に、白く透き通った昼の月が浮かんでいた。
あの日、熱海の海岸で、涙で曇らせてみせると誓った月だ。
貫一は窓を開け放った。
寒風が吹き込み、彼の頬を打つ。だが、彼は目を逸らさず、その白い月を見据えた。
月は曇っていなかった。
一点の雲もなく、涙の影もなく、ただ冷ややかに、乾いた光を地上に投げかけている。
「曇らぬか」
貫一は、口の端を歪めて笑った。
それは、夜叉の笑みであった。
「それでいい。曇らせる必要などない」
彼は低く、しかし力強く言い放った。
「この世は、涙などで濡れはしない。金と鉄と、欲望で乾ききっているのだから」
貫一は、平助が来るのを待つべく、座布団に座り直した。
その背中からは、近代日本という巨大な怪物が、産声を上げる音が聞こえるようであった。
月は曇らず、ただ煌々と、修羅の道を行く男の門出を照らし続けていた。
第六章 金色夜叉
やがて、柱時計がボーン、ボーンと九時を打った。
引き戸が遠慮がちにきしみ、寒風と共に一人の男が身を縮こまらせて入ってきた。
町外れで小さな鉄工場を営む、平助である。
彼は帽子を脱ぎ、土間に額を擦り付けるようにして平身低頭した。
「……旦那様。誠に相済みません。利息の件ですが、どうか、どうかもう半月だけご猶予を……」
貫一は、帳面から目を離さず、平素の冷厳な声色を装って唸った。
「いよう! 何のつもりで君は今時分ここへやって来たのかね」
「へ、へえ。どうしても金の工面がつかず……」
「遅い!」貫一は一喝した。
「返済も遅ければ、覚悟を決めるのも遅い。まあ君、ここへ上がりたまえ」
平助は震え上がった。桶の中に隠れるように、柱の陰へとにじり寄る。
「一年にたった一度の不義理で御座いますから。二度とご迷惑はおかけ致しません」
「では、本当のところを君に言うがね、平助」
貫一は言った。その声は低く、地獄の底から聞こえるような響きを帯びていた。
「私はもう、こんなちまちました貸し借りには一日も耐えられそうにないのだ。そこでだね」
言いながら、貫一は座布団から飛び上がるようにして、平助の襟首をぐいと掴んだ。平助は「殺される」と観念し、身を強張らせた。
だが、貫一は、平助の耳元で、悪魔のように甘く、熱誠を籠めて囁いたのだ。
「そこでだ、俺は君に追加融資をしてやろうと思うのだ」
平助は愕然として震え上がった。あまりの恐怖に、この若い手代は昨夜の月で気が触れたのではないかと疑い、表へ助けを呼ぼうかとさえ思った。
「ゆ、融資……? ご勘弁ください、これ以上借金が増えれば、親子共々首を吊るしかありません!」
「目出たい日ではないか、平助君!」
貫一は相手の背中を激しく打ち据えた。
「このところ、俺が君に罵声を浴びせてきたよりも一層目出たい朝だ。俺は君に金を貸して、困っている君の工場を救ってやりたいと思っているのだ」
貫一は懐から、自分の全財産を記した通帳と印鑑を取り出し、平助の目の前に叩きつけた。
「全額だ。俺の持っている金、すべて君に投じよう」
「ぜ、全額……!? し、しかし旦那、担保が……俺にはもう何も……」
「あるではないか」
貫一は笑った。その目は、金色の猛火を宿していた。
「君の工場だ。君の腕だ。君の未来だ!」
貫一は平助の胸ぐらを掴み、無理やりに立たせた。
「あの夜、お宮は三百円の金剛石に目が眩んで俺を捨てた。女は光る石に狂う。だがな、平助。俺たちがこれから作るのは、指輪のような子供だましではない」
「は、はい……?」
「鉄だ! 火だ! 石炭だ! 今すぐ帰って工場の炉を広げよ。旋盤を買い足せ。人を雇え。鍋釜など叩いている時ではない。砲弾の部品を作れ。銃身を削れ。軍靴の鋲を打て!」
平助は呆気にとられていたが、貫一は畳み掛けるように続けた。
「板橋の火薬工廠が、薬莢の真鍮不足に泣いているのを知らんか? 小石川の砲兵工廠では、旋盤を回す職工が足りずに悲鳴を上げている。軍の倉庫は空っぽだ」
貫一は昨夜見た未来図を、さも今朝の新聞で読んだ確実な商機のように語った。
「あそこへ持ち込めば、言い値で買うぞ。いや、向こうから頭を下げて買いに来る。午後になったら、すぐに契約書を書き換えようではないか。なに、利息は勉強してやる。その代わり、君の工場、君の腕、君の家族の将来、そのすべてを担保に貰い受けるがね!」
貫一の言葉には、抗いがたい熱があった。
さらに目の前に積まれた「金」という現物の魔力。平助の顔色から、恐怖の色が消え、じわりと別の色が滲み出してきた。
脂ぎった欲望の色だ。
「……板橋が、買うんですかい」
「買うとも。私が保証する。さあ、四の五の言わずに大急ぎで炭を買ってくるのだ、平助君! 工場の火を消すな。今日からあの煙突は、日本の未来を燃やす狼煙ぞ!」
貫一は彼の言葉よりもずっと良い金主となった。
彼はすべてその約束を実行した。いや、それよりも無限に多くのものを実行した。
彼は平助だけでなく、金に窮した多くの町工場主たちにとって、第二の父となった。
彼はこの古い都なる東京にもかつてなかったような、あるいはこの古い世界の中の、その他のいかなる都にもかつてなかったような、善き「投資家」ともなれば、善き「死の商人」ともなった。
ある人々は彼が一変して軍需の亡者となったのを見て、哀れむように笑った。
「間さんも気の毒に。日清の戦勝に酔って、まだ夢を見ているのか」
「これからは万国公法の世の中だ。野蛮な殺し合いなど、文明国がするはずもなし」
彼らは無邪気に信じていた。条約は改正され、文明は開化し、これからは平和な通商と話し合いが世界を支配するのだと。
戦勝の美酒に酔い、来るべき本当の暗闇など想像もできない、善良で無知な人々。
が、貫一はその人々の笑うに任せて、少しも心に留めなかった。
彼は知っていたからだ。彼らが信じる「文明」の皮一枚下には、依然として血に飢えた夜叉が眠っていることを。そして、その夜叉が目覚めた時、真っ先に食われるのは、平和ボケした顔で笑っている彼ら自身だということを。
彼自身の心は、昨夜の未来図を思い出して晴れやかに笑っていた。そして、彼にとってはそれでもう十分であったのである。
彼と亡霊との間にはそれからもう何の関係もなかった。
が、彼はその後ずっと「金と鉄」の原理の下に生活した。
そして、人々は彼について常にこう語った。もしこの世で「金色夜叉」としての生き方を真に知る者がいるとすれば、間貫一こそがその人である、と。
願わくは、二十一世紀を生きる我々もまた、そうありたいものだ。
見よ。一世紀の時を超え、世界は再び鉄と火の匂いに満ちているではないか。
二〇二六年、一月。平和の夢は破れ、力と欲望が地図を塗り替える「夜叉の時代」が、また巡ってきたのだ。
心を鬼にし、現実を見据え、修羅の道を往く覚悟はあるか。
そこで、かの亡霊も、あるいは何処かの神も言ったかもしれないように、敢えて祈ろうではないか。
神よ、我らを祝福し給え。
この飽くなき欲望と、鉄と火にまみれた、我々すべての人間を!
そして――熱海の月は二度と曇らなかった。
地上が吐き出す工場の黒煙が、月を隠すその日まで。
