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地球平面説の逆説:科学を信じる人ほど非科学的である──信仰としての科学

正しいからといって、理解しているとは限らない

「地球は球である」という知識自体は、理解ではなく記憶です。

ほとんどの人は、自分で地平線の曲率を測ったり、星の角度を観測したりしたわけではありません。

つまりこの知識は、観察の結果ではなく、社会的合意を覚えたものに過ぎません。

正しいことを言えることが知性の証とされてきたため、私たちは「正解を覚える」ことを学問と勘違いしています。

知識が社会の記号になったとき、科学は学ぶものから所属するものに変わります。「正しい側にいる」という安心感が目的になり、考えることは二の次になる。

地球の形を正しく知っている人よりも、なぜそうなのかを自分で考えようとする人の方が、本当は科学的です。

間違いを引き受ける尊厳

地球平面説を信じる人は、誤った結論にたどり着いています。

それでも、自分の目で観察し、考えた末にそこに行き着いたなら、その思考自体は科学的です。誤りを恐れず、自分で仮説をつくること自体は知的な行為だからです。

もちろん、平面説を信じる人の多くは「YouTubeで見た」「教祖がそう言っていた」という形で信じており、科学的態度を持つ人はごく少数でしょう。

いずれにせよ、ここで問いたいのは正誤ではありません。

科学を生きた態度として扱うなら、問われるべきは「考えた痕跡があるかどうか」です。

間違い方の上品さ

上品な間違いとは、理由があり、経路が見え、訂正ができる誤りのことです。

粗雑な間違いは、根拠も道筋もなく他人の意見をなぞり、結果間違えることです。科学の品格は、結果の正しさではなく、この違いで決まります。

フロギストン説も、エーテル仮説も、ラマルクの進化論も、今では誤りとされます。

しかしそれらは科学的でした。そして次の世代が訂正できるように痕跡を残していました。

上品に間違えるとは、他者に検算の余地を残すことです。間違いを閉じず、誰かが続きを考えられる形で渡す、それが科学の姿勢です。

正解よりもそこへ至る経路、すなわち失敗を残す

科学的であるということは、真理を握ることではなく、誤った過程を記録し、他者が確かめられるようにすることです。

正しい答えは時間とともに更新されます。けれども、どのようにそこへ至ったかの記録が残れば、誰かが再びそこから考え直すことができる。

個人の人生は短く、すべてを検証し続けることは不可能です。だからこそ、誤りを共有する仕組みが必要になります。

科学は、成功の記録よりも、失敗の共有によって長く保たれてきました。正しい答えを記すよりも、間違いの過程を共有するほうが、科学は続く。

信仰になりつつある科学

現代の科学は、制度としては正しくても、社会の中では信仰に近づいています。誰もが自分で確かめることはできず、「専門家がそう言うから」信じるしかない。

科学は宗教を否定した後、いつの間にか自分が宗教の形を取るようになりました。

地球が球であることを知っている人の多くは、その仕組みを知らないまま信じています。

それを悪いと決めつけることはできません。時間も手段も限られている以上、信頼に頼るしかないからです。

けれども、その信頼が「確かめられない信仰」に変わった瞬間、科学は人を分ける記号になります。

そして、その真反対である「地球が平面である」も同じくらい「確かめられない信仰」であるわけです。

両者の間ではもはや、科学的か非科学的かという議論は成立しません。

教祖から聞いた「地球は球体である」「いや平面である」という教義を、どの程度の信仰で信じるか、という違いにすぎません。

我々が求めているのは科学ではなく技術

本当のところ、人間が必要としているのは科学そのものではなく、うまく動く技術です。

科学はその背後で世界を説明する装置にすぎません。生活を便利にし、体を癒し、物を速く運ぶのは理論ではなく装置です。

歴史を見ても、技術は科学より先に進んできました。

ジェンナーのワクチンは免疫理論が生まれる前に機能していたし、蒸気機関は熱力学の定式化よりも前に走っていました。

染色や発酵、金属加工の多くは、理論を持たずに熟練だけで成り立っていました。

科学が技術を導いたのではなく、技術の成功が科学に言葉を与えたのです。

だから、科学は技術の必要条件ではありません。

科学がなくても人は工夫し、経験を蓄積し、道具を改良してきました。

私たちが欲しいのは、世界を説明する理屈ではなく、使える成果です。科学はその成果を再現しやすくする一つの方法であって、唯一の道ではない。

手が先に動き、理屈が後を追う。人間の知はいつもそういう順番で発展してきました。

正しさの説法という自己確認

地球が球体であると信じることは正しい。

しかし、それを愚かな平面説信者に説く・仲間内で地球平面論者を馬鹿にする行為は、多くの場合、教育ではなく宗教儀式です。

「誤りを正すため」に話しているのではなく、「正しい自分を確かめるため」に話している。

この説法が空回りするのは、地球が球体であることが人の生活を豊かにする説明を伴っていないからです。

球体説を信じても、生活の幸福が増すわけではない。税金が減るわけでも、愛が深まるわけでもない。

正しい神を信じていなくて可哀そう以外、何の利益もない。

それなのに「理解しないお前が悪い」と言うとき、そこにあるのは理性ではなく、宗教的な承認欲求です。

説法する人々は、正しさを伝えるふりをしながら、相手ではなく、自分の中の不安に話しかけています。

科学を信じることの根拠を問われると、彼らは説明ではなく引用を並べる。

それは科学的な態度ではありません。信仰です。

嘘つきが真理を語るとき

地球平面論者を説得できない最大の理由は、球体説を語る側の言葉が信用を失っているからです。

球体説を唱える人々がよく持ち出す、緯度による影の長さの違い、フーコーの振り子、人工衛星の映像、地平線の曲率は、しかし、彼ら自身がそれを観測したわけではない。

また聞きした他者の観測を、自分の信仰の証拠として引用している。

平面説信者の科学への不信は「体験していない真理を語る者」への怒りから来ています。その怒りは宗教批判と同じ構造です。

「見てもいない神を信じているくせに、私の信仰を笑うな」と。

だから、球体説を唱える側が説法を繰り返すほど、平面説信者の信仰はより強固になります。相手が自分と同じ“信仰者”であることを確信するからです。

本来の科学的対話とは、「私がこう観測した」「こう測定した」という自分で手を動かした話から始まるものです。

けれど、誰もそれをやらない。

代わりに、インターネットの画像や動画を示し、「これが真実です」と言う。

陰謀論者と、陰謀論の否定者は、やっていることが同じです。科学の形式を取りながら、宗教の儀式を繰り返しているだけなのです。

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