大乗仏教と上座部仏教

 今回のお題は「大乗仏教と上座部仏教」ということで、同じ仏教でありながらどうしてこんなに差があるのかというお話をしたいと思います。
 私は端的に言って、大乗仏教は若者の、上座部仏教は老人の仏教ととらえております。

 大乗仏教の発生を思うに、阿羅漢の悟り「如実知見」ということを抜きにはできません。現実を「如実知見」すると、「かくあり」という安寧で終ってしまいます。

 四法印は一般に次の漢訳であらわされます。

 諸行無常(何事も変化してしまう)
 諸法無我(いかなる事柄も私ではない=諸法非我)
 一切皆苦(一切は全て思い通りにならない=一切不如意)
 涅槃寂静(要するにこうわかると心の安寧が得られるのだよ)

 仏教の四句偈は、大体が最後の一句で総括する傾向があります。それをふまえると、涅槃寂静は全体のまとめ部分です。

 さて、四法印に示された、というか、前半の三句の三特相、初期仏典では「無常・苦・無我」とまとめられる現実に目覚めた人は、阿羅漢としてただ応供の道を歩みます。あえて慈悲行には踏み出しません。一切は不如意だからです。自心の安寧を得てそこに安住します。
 これは決して悪いことではありません。仏教に帰依する人は、元々は自らの心の安寧を求めているわけですから、その目的は達せられたわけです。
 応供の人は、いわば年金生活者です。聖者としてお布施を受け、静かに余生を過ごします。

 菩薩行を主張する大乗仏教の担い手たちは、それを是としなかったのでしょう。
「よし、現実はわかった。では、世のため人のためにその悟りを生かしてひとつ働きを見せようじゃないか」
 しかし、現実はつまるところ一切不如意なのです。
 努力が必ずむくわれるわけではありません。
 橋をかけれても流される。医療を施してもやがて人は死ぬ。戦争を止めようとしても止められない。
 他人は言うことを聞かないし、時には裏切られる。理不尽に痛めつけられる。
 年を取ってくると体の節々が痛む。病気をする。目は悪くなり、記憶力は衰え、気力もなくなる。自分の体ですら自分の願いを裏切る。
 それでも頑張ろう、というのが大衆部が理想とした菩薩たちです。

 七世紀後半に義浄が見てきたインドの仏教では、大乗仏教と上座部仏教が併存していました。

 大乗と小乗(※原文のまま)はともに律は五篇、四諦を修習している。菩薩を礼拝し大乗経典を読むなら、大乗と呼ぶ。大乗と小乗はほぼ混在している。(『上座部仏教の思想形成』馬場紀寿著、より)

「菩薩を礼拝し」というところがわかりにくいかもしれませんが、人間の修行者ではなく、観音菩薩や地蔵菩薩を礼拝していたと考えれば理解出来るでしょう。大乗経典は、これらの神々(菩薩として仏教に帰依し、護持をする神々)を礼拝する経典や、釈尊入滅後に各種部派仏教で成立していった新しい思想・思索を記した仏典であったろうと思います。
 仏教団にいた在家信者は、普段は神々や聖者への素朴な信仰をもっています。彼らを切り捨てることなく安寧へと向かわせるには、信仰の否定ではなく、受容が不可欠なのです。
 大乗仏典には、まず衣食住をうるおわせてよい環境を整え、そののちに仏法への専心をさせる、という考え方があります。そこで、財神への信仰や、仏菩薩による所願成就の信仰が肯定されます。釈尊の「一切不如意の現実を見なさい」という教えとは違った方向へと発展していきました。
 慈悲心は他者を思いやる心なので、心のゆらぎが生じます。不幸な衆生のあり方への義憤や、もっとよくあれという向上を願う心が出てきます。これは、寂静の境地とは言えません。大乗菩薩道は、慈悲心を捨てて解脱するくらいなら、むしろ永遠に菩薩のままでありたいという強い意志に支えられています。

 このように、上座部仏教と大乗仏教の違いがうまれ、現在に至っている、というのが私の理解です。

いいなと思ったら応援しよう!