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ケアマネジメント再考・Texture ~「意志」概念に抗して(全体版)

初めに 

 介護の世界では、要支援者の「意思決定」を支援するケアマネジメントという仕組みがあります。
 一般的に「意思決定支援」とは、支援対象となる方(介護を必要とする当事者)が「意思決定」することが十分にできないため、その当事者の「意思決定」を介護支援専門員などの専門家が支援することです。
 そして、その支援プロセスは次のようになっているようです。

① 本人が意思を形成することの支援(意思形成支援)
② 本人が意思を表明することの支援(意思表明支援)
③ 本人が意思を実現することの支援(意思実現支援)
(参照:「認知症の人の日常生活・社会生活における 意思決定支援ガイドライン」厚生労働省2018年6月)

※ 福祉の世界では「意思」と表記することが多いようですが、今回は参照や引用する書籍で用いられている「意志」という表記を多用することになりますが、「意思」も「意志」も「イシ」ですのであまり気になされないでください。

※ 「意思」と「意志」の相違について
 「意志」と「意思」とは若干ニュアンスが違うと思います。「意思」よりも「意志」の方が決意性が高いように思います。例えば、延命治療や臓器移植などの法的な局面などの医療現場では「意志」となりますが、普通の契約締結程度などでは「意思」表示と言いますので。
 しかし、基本的には「意志」も「意思」も同じような概念だと思います。エクリチュール(書かれた言葉)では「意思」と「意志」の違いは判りますが、会話(パロール)では「意志」と「意思」は同じ発音ですので区別がつきません。ということは、普段はあまり区別していないということでしょう。
 いずれにしても今回扱うのは、強度・決意性は違うにしても「何かをしようとするときの元となる心持ち」といわれる「意思」≒「意志」、換言すれば、行為や選択の手前にあるとされる「意思」≒「意志」について考察するつもりです。以下に綴る文章では「意志」としていますが、それを「意思」と読み替えても意味が通じると思いますが、いかがでしょか? 

 私は、福祉・介護の世界における「意志決定支援」という言葉に違和感があります。特に「意志」という概念を用いることに「はて?」と思っています。
 なんか「意志決定支援」って語義矛盾のような気もします。私の語感では「意志」と「支援」は結びつかないのです。
 「ある人が、意志決定がうまくできないから他人がそれを支援するって?だったら、その意志決定って本来の意味での意志決定とは言えないのでは?」
 「意志決定って誰からの影響を受けずに自由に責任をもって行為を決定することではなかったの?それなのに誰かの支援を受けちゃダメでしょ!」
「意志決定支援と意志決定への介入と、どこが違うんだろう?」
「私、よくわからないから決められない。だから 専門家のあなたが決めて!…ということが意志決定支援の現実なのではないか?」

 それにしても、「意志決定支援」とは少々大袈裟おおげさではないかと思います。「意志決定支援」という言葉でなくても、ただたんに、「その人に合った介護サービスを選ぶためのお手伝」ということであれば、「介護サービス利用支援」とか「介護利用支援」とかでもよいように思うのですが。「意志決定支援」だなんて、なんか大袈裟すぎて・・・あえて哲学的に問題の多い「意志」という概念を用いる必要もないと思うのですが・・・

 確かに「意志」概念は、ケアマネジメントにおいて利用者の主体性を尊重する上で重要な概念ではありますが、哲学的にはほぼ否定されている概念でもあります。この「意志」概念をなぜ福祉・介護の世界に持ち込むのでしょうか。「意志」概念を用いることによってケアマネジメントが自己責任論や形式的な支援に陥る危険性もはらんでいます。「意志」概念を批判的に検討し、「意志」概念にもたれ掛からないケアマネジメントについて考えてみることも必要だと思います。

 第1章では、日本のJ-ポップならぬ、J-哲学が2010年代に「意志」概念批判に積極的に取り組んでいたこと紹介するとともに、哲学的に「意志」概念の何が問題なのか。フィクション的な「意志」概念がケアマネジメントに導入されることで「意志」概念の問題点、つまり認識論的瑕疵かしや新自由主義的な自己責任論が持ち込まれる危険性について考えてみたいと思います。 

 第2章では「意志」概念が法的な概念である「帰責性」へとつながっており、現代社会の過剰な「帰責性」追及の風潮により、自己責任論や科学主義、エビデンス主義を助長、強化する働きがあることを示したいと思います。さらに、その背後には新自由主義があることも示したいと思います。

 第3章は、第1章及び第2章で展開してきた「意志」概念批判をケアマネジメントという営みの中で展開してみます。特に、「意志」ではなく「選択」という概念の有効性を基にケアママネジメントは「意志」決定支援という観点ではなく「ニーズ」形成支援という観点からの方が捉えやすく、「意志」概念の持つ自己責任強調の陥穽かんせいを避けられるということを明らかにしたいと思います。
 また、新自由主義社会の生きづらさの一端を「意志」決定支援が支えているということを明らかにしたいと思います。

 第4章は、ケアマネジメントにおける当事者の自発的な「同意」が果たして成立しているものなのか、否かについて考えてみたいと思います。この場合の自発的な同意とは「意志」決定にほかなりません。
 ケアマネジメントを考えるとき、自発的同意と非自発的同意について整理することが必要だと思います。
 そして「意志」概念に汚染されていない視点からケアマネジメントの可能性、生成的コミュニケーションに基づいた「寄り沿うニーズ形成支援」を中軸にするケアマネジメントについて考えてみたいと思います。

 第5章は、第4章で検討した「ニーズ形成支援」としてのケアマネジメントを支える具体的な手法としのオープンダイアローグについて紹介します。


第1章  「意志」概念批判

1.「意志」概念の問題点

(1)J-哲学の意志概念批判

 山口尚(哲学者:京都大学講師)さんによると、J-POPならぬ、J-哲学があるといいます。この、J-哲学は西洋の哲学をたんに紹介するのではなく、日本語で独自の思考を紡ぎ出している一群の哲学者たちのことです。山口尚さんによるとJ-哲学を担っているのは主に次のような方々だと言います。

  • 國分功一郎(哲学者:東京大学大学院総合文化研究科教授)

  • 青山拓央(哲学者:京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)

  • 千葉雅也(哲学者・小説家:立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)

  • 伊藤亜紗(美学者:東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)

  • 古田徹也(哲学者:東京大学准教授)

  • 苫野一徳(哲学者:熊本大学大学院教育学研究科准教授)

(参照:山口尚 2021「日本哲学の最前線」講談社現代新書 p8,193)

 山口尚さんによると、J-哲学は2010年代に「意志」概念について批判的に取組んでいたというのです。山口尚さんはJ-哲学の上述の6人の哲学者たちに共通しているのは、次のように、自由の大前提である「意志」概念の批判だとしています。

 J哲学の2010年代は「不自由論」の季節であった。ただしその議論は、人間の不自由を強調してばかりの悲観論ではなく、真に自由であるために不自由を無視しないという<自由のための不自由論>である。

引用:山口尚 2021「日本哲学の最前線」講談社現代新書 p4

 2010年代の日本の哲学者の最前線は、事実として「意志」概念の批判的考察を通じて人間の不自由に目を向けてきた。

引用:山口尚 2021「日本哲学の最前線」講談社現代新書 p196

 このように、日本において「意志」概念は哲学的に批判されてきていることを、まず確認しておきたいと思います。

(2)行為の出発点に「意志」がある?古典的意志理論

 「意志」とは何か、何が問題なのか哲学者たちの議論を整理してみたいと思います。
 まず、「意志」とは行為の源泉、出発点だと言えます。

 國分功一郎(哲学者)さんはこの「意志」の在り様を次のように指摘しています。 

 行為の源泉としての「意志」、意志を行為の出発点と見なすとは、・・・意志に先行する原因は存在せず、何もないところに意志がむっくりと現れて行為を生み出したということです。

國分功一郎、熊谷晋一郎 2020年「<責任>の生成-中動態と当事者研究」p110

 つまり、「意志」とは行為に先行し、行為の原因となるものだということです。

 池田喬(哲学者)さんは古典的意志理論、つまり、行為に先立つ「意志」なるものについて次のように説明しています。 

 「腕が上がる」という物理的動作に「腕を上げよう」という意志が加わることで「腕を上げる」行為が成立していると言える一方で、あくびをしたり躓いたりすることはそれをしようという意志を欠いているため、行為とは呼べない、というわけだ。

引用:池田喬 2024 『ハイデガーと現代現象学』勁草書房 p61

 古典的意志理論は、腕を上げようという意志があるから腕が上がるという、とてもシンプルな論理です。しかし、実際に私たちは、その「意志」なるものを経験しているのでしょうか。

 池田喬さんは、次のように「意志」の経験を否定しています。

 「例えば、過去十五分に限ったとしても、ライルが言うように、私たちの誰も、何度「~しよう」という意志を経験したか、それぞれの意志はどれくらいの長さ持続したか、あるいはどれくらいの強さだったかを言うことはできない。行為に先行するはずの意志についてこんなに単純な報告もできないのだ。」
 「各々の行為に先行する意志なるものの存在は仮定にとどまると言うべきであって、その存在に経験的根拠はないと言うことは妥当であるように思われよう。」

引用:池田喬 2024 『ハイデガーと現代現象学』勁草書房 p62

 また、池田喬さんは自分で「意志」決定した、決意したと勘違いしたりすることがあると、次のように指摘しています。 

「・・・「~しよう」と決意したり言い聞かせたりする場面については、次のように考えるのが妥当だろう。すなわち、この場合、私たちはまさに自分自身に対して語るという特殊な振る舞いをしているのであって、行為に先立ってはっきりと経験されているのは強い意志の存在ではなく、自己に語るというこの振る舞いである、と。」

 「・・・当の意志の存在を確認しようとすると、その場面は決心などの自己語りがなされる場面に限定される。」

引用:池田喬 2024 『ハイデガーと現代現象学』勁草書房 p63

 ようするに、「さあ起きよう」と意を決して起きた場合も、「さあ起きよう」と自分に言い聞かせているのであって、「さあ起きよう」と「自分に言い聞かせる行為」に先立つ意志についての経験は見当たらないということです。結局、次のように言わざるを得ないようです。

古典的意志理論は、行為の説明としての力をもたないだけではなく、私たちが行為と呼んでいるものを行為として扱うことを阻害してしまう。

引用:池田喬 2024 『ハイデガーと現代現象学』勁草書房 p64

 確かに、日常的に何らかの行為の原因には「意志」があると思い込んでいることが多いと思います。例えば、今日、孫と一緒に遊園地に行ったのは私の「意志」だと普通に言いますし、また、昼に炒飯を食べたのも私の「意志」だと思い込んでいるのです。しかし、よくよく考えてみれば行為の出発点に「意志」なるものがあるとは言えないことが多いと思います。例えば、遊園地に行ったのは孫にせがまれたからで、昼にチャーハンを食べたのは昨日のテレビ番組の炒飯特集を見たからかもしれません。

 例えば「彼女がディズニーシーに行きたいと言っていたから、昨日、ディズニーシーに行った」という場合、この行為は私の純粋な「意志」によるものと言えるのかという問題です。ディズニーシーに行くのは彼女の希望だったから、つまり、ディズニーシーに行くという行為の出発点には私の「意志」ではなく、行為の原因は彼女の要望にあると言えるでしょう。また、その彼女もなぜディズニーシーに行きたいと言ったのかというと彼女の「意志」ではなく友人がディズニーシーに行って楽しかったといつ話を聞いたからかもしれません。どこまで行ってもなかなか「意志」を見つけることはできません。

(3)ハイデガーの辛辣な「意志」批判

 國分功一郎さんは、ハイデガー(Martin Heidegger; ドイツの哲学者 1889年 - 1976年)の辛辣な「意志」批判を伝えてくれています。

「意志は絶対的な始まりであることを主張する。いや、そう主張していなくとも、そうでないならば意志は意志でありえないのであった。」

「意志しようとするとき、人は過ぎ去ったことから目を背け、歴史を忘れ、ただ、未来だけを志向し、何ごとからも切り離された始まりであろうとする。」

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p204,205

 ハイデッガーの意志に対する批判はさらに続きます。

「ハイデッガーはつまり、意志することは忘れることだと述べている。」

「つまり、ハイデッガーはこう言っているのだ、意志することは考えまいとすることである、と。」

「意志することはただ未来のみを志向する。だが、一切の「在った〔es war〕 」こと、すなわち過ぎ去った過去をどうすることもできない。」

「ハイデッガーは意志することは憎むことであり、復讐心を抱くことだ。」

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p205,206

 ハイデガーはまるで「意志」概念がかたきでもあるかのように、実に苛烈かれつな批判的言辞を並べていますね。

  「意志」するとは、過去のしがらみや経緯などの延長線上でなりゆきにまかせて何かを決めることではなく、しがらみを断ち、自らが責任をもって主体的に未来志向で何かを決めること、だと思われています。
 ですから、「意志」は過去のしがらみから断絶した始まりであり、過去に引きずられず、過去や経緯を顧みない、考えないということになるのです。
 だからこそ「意志」は行為の出発点、原因とみなされ、その行為の結果が問題視されると責任を問われるのです。

(4)「意志」概念の弊害

① 認識論的瑕疵

 山口尚さんは自身の著書「日本哲学の最前線」(2021講談社現代新書)で國分功一郎さんの「意志」批判を次のように紹介しています。

 『ハイデッガーの議論から國分が引き出すことは、「意志」の概念の無批判的な使用は却って認識や思考の欠如を招来する、という事態への警告である。』
 『つねに過去を背負い、つねに他者との相互性の中にいる人間については「それは何某が自分の意志で決めた」という表現はそぐわないものかもしれない。』
 『私たちがこの概念(意志)を素朴な仕方で使用するさい、忘却などの無視できない認識的痂疲かしが生じる』

引用:山口尚 2021「日本哲学の最前線」講談社現代新書 p44

 「意志」概念の無批判的な使用は、過去を背負い、他者との相互性の中で生きているという事態に関して認識的痂疲かし、欠陥を生じさせてしまう怖れがあるということでしょう。 

 具体的には、過去や経緯や社会的関係と断絶する「意志」という概念を用いた結果、今までの人間関係や過去からの経緯や社会関係をないがしろにしてしまいがちになるのではないかという恐れがあると思います。

 私は、「意志」とは、なにか瞬間芸のようなイメージだと思います。人間関係、しがらみ、経緯を無視して、「エイヤー」と決めるみたいな・・・「意志」には危なげなニュアンスがあるように思われます。

② 「意志」概念は自己責任論の基盤

 最初に記しましたが、J-哲学が2010年代に「意志」批判を展開したのですが、なぜJ-哲学がこの時期に「意志」批判をしたのかという問題があるでしょう。私は、これは1990年代から始まった新自由主義の影響が深刻化してきたのが2010年代だったからかもしないと思っています。

 2010年代は約20年間にわたる社会経済の自由主義化によって、派遣労働の拡大、非正規化等により労働力が流動化し、社会保障が厳しく制限されるなか、自己責任論が跋扈ばっこするようになったわけですが、この自己責任論を支える概念が「意志」ではないかと思われるのです。
 自由な意志を持った人間がその都度の「意志」決定の結果、社会から落ちこぼれたとしても、それは自己責任だから国家は責任を取らない、という言説がはびこるようになりそれへの抵抗として、J-哲学が、「意志」概念の批判を俎上にあげたと私は推察しています。 

 自己責任を強調するのは一般社会だけではなく福祉・介護の世界でも同じです。
 そもそも、ニーズは社会的な承認が必要ですから、本人が勝手にニーズを意志決定することは原理的にできません。ニーズを判定する専門家たちとの共同作業の中でニーズは形成されていく、合意されていくのです。にもかかわらず、「意志」決定という概念を用いると、前述のプロセスすべてが当事者の「意志」決定に帰することとなってしまいます。まさしく、これは当事者に自己責任を押し付けるものだと言えます。

2.「意志決定支援」思想の福祉・介護への影響

(1)「意志」概念のケアマネジメントへの影響

 今、日本の介護保険制度のインフラストラクチャー(infrastructure)であるケアマネジメントに忍び込んでいる「意志」という概念を批判的に検討する必要があると思います。私は「意志」概念を無批判に用いることに対して、特に次のことを心配しています。

① 原理的に不可能な「意志」決定は当事者の過去や他者との相互関係を軽視する思考上の傾向を招来させること。

② 「意志」決定した当事者(障がい高齢者)本人の新自由主義的な自己責任を問う論理を内包していること。

③ 原理的に支援が不可能な「意志」決定であるがゆえに、実際は、お仕着せのサービスプランの説得にしかならないこと。

 人は言葉でしか考えられませんので、言葉、概念は思考や行為に大きな影響を与えます。言葉の用い方が制度や構造を支え、構造を規定していると言えます。福祉・介護の世界で「意志」概念がどのように扱われ、どのような影響を与えているのかをしっかりと見極める必要があります。

(2) 「意志決定支援」導入までの経緯

 福祉・介護の世界における「意思決定支援」という概念はそんなに古いものではないようですが、なぜ、「意思決定支援」という概念が福祉・介護の世界に取り入れられることになったのでしょうか。

 木口恵美子(鶴見大学短期大学部, 保育科, 准教授)さんは、障がい者の意志決定支援の導入の経緯等を次のように概観しています。

・2008年、応益負担制度に危機感を強めた障がい者本人や家族が全国8ケ所の地方裁判所(最終的には全国14ケ所)で障害者自立支援法違憲訴訟を起こしたが、2010年には厚生労働省と原告団・弁護団の間に合意が成立した。

・また、2011年には障害者基本法の改正、2013年には国連障害者の権利条約が批准された。

 木口恵美子さんは次のように指摘しています。

 この一連の障害者制度改革の中で「意思決定支援」が着目され、日本の法制度にも組み込まれた・・・

木口恵美子「自己決定支援と意思決定支援-国連障害者の権利条約と日本の精度における「意思決定支援」-p29」https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=6689&file_id=22&file_no=2

(3) 法的概念としての意志決定支援

 障がい者運動等や権利条約批准、障害者基本法等の法整備上の必要により「意思決定支援」が着目され始め制度化されていく時期が、J-哲学が「意志」概念に取組んでいた時期(2010年代)と合致していることは興味深いです。
 また、「意思決定支援」は基本的に法的概念であることがこの過程をみると透けて見えてきます。

 國分功一郎さんも、障がい者支援、精神障がい者支援の歴史を振り返り、患者、被支援者(障がい者)が治療・支援における決定プロセスから排除されていた状況から「意思決定支援」へと転換してきたと指摘しています。

 國分『・・・患者あるいは被支援者がこれまで治療・支援における決定プロセスから排除されてきたということがある。自己決定権、あるいは、・・・「主権」といってもよいかもしれませんが、それが無視されてきた。パターナリズムという言葉でこれを説明してもいいでしょう。パターナリズムがもたらした排除への反省から「意思決定支援」という考え方が出てきたことはよくわかります。・・・この反省は結局、意思の概念に寄りかかるものとなってしまった。』

引用・参照:國分功一郎・熊谷晋一郎 2020「<責任>の生成-中動態と当事者研究」新曜社 p198,199

 「意思決定支援」は決定プロセスから排除されていた人々が、自己決定権を取り戻した成果といえます。
 自己決定権は障がい者運動が勝ち取った権利
なのです。このことは最大限評価されねばなりません。

  木口恵美子さんは「自己決定」ではなく、「意思決定」とした理由を次のように紹介しています。

「意思決定をするのは知的障害者自身であるが、支援者や環境との相互作用の中で本人の意思が確立していくことから『自己決定支援』ではなく『意思決定支援』と表現することにした」

木口恵美子「自己決定支援と意思決定支援-国連障害者の権利条約と日本の精度における「意思決定支援」-p30

 上述のように決定プロセスに参画し自分のことを自分で決められる権利、自己決定権を「意思」決定権としたため、「意思」概念の副作用が出てしまう怖れが生じてしまったと私は思います。
 自己決定権は権利であり、権利であるからにはそこには責任がある、つまり、自己責任だというロジックになります。さらに法的性格が強い「意思決定」という概念がその自己責任性を強化してしまうのだと思うのです。

(4) 責任逃れのための意思決定支援

 しかし、決定プロセスへの参加を実現するために「意思」概念が必須だったのでしょうか。いずれにしても「意思」という概念にたれ掛かり過ぎてしまったという國分功一郎さんの指摘はポイントを突いていると思います。

 國分功一郎さんは「意思決定支援」が治療する側や支援する側の責任回避の論理に取り込まれてしまっていることも明確に指摘しています。

 その結果、どうなっているかというと「意思決定支援」は、限りなく、治療する側や支援する側の責任回避の論理に近づいてしまっている。これは、インフォームドコンセントの問題に非常に似ています。・・・アメリカでもインフォームドコンセントが医者の訴訟逃れの手段になっていることが指摘されています。

引用:國分功一郎・熊谷晋一郎 2020「<責任>の生成-中動態と当事者研究」新曜社 p199,200

 國分功一郎さんは、「意思決定支援」についてインフォームドコンセント(informed consent) と同様に、結局は新自由主義的な自己責任論が背景にあるとし、「意思決定支援」はある意味、専門家の責任逃れにも使われていると指摘しているのです。

(5) 「意思決定支援」は諸刃の剣

 福祉・介護における「意思決定支援」という概念は当事者の主権回復を支える概念であり評価すべきなのですが、その当事者主権、自己決定権の基盤にある「意思」「意志」概念は諸刃もろはつるぎです。

「当事者主権・自己決定権 ⇒ 意思決定権 ⇒ 自己責任 ⇒ 専門家・支援者の無責任」という構図になってしまう怖れがあるのです。

 結局、当事者の主権回復を目指して用いられた「意思決定支援」という概念は、当事者の自己責任を追求する新自由主義的思想にからめ取られてしまっているのではないでしょうか。

再度、図式化すると・・・

「意思決定支援 = 自己決定権 ≒ 自己責任論 = 新自由主義思想」

ということになると思います。

3.原因と結果の逆転ロジック

(1)ニーズがケアマネジメントの始点 

 ケアマネジメント(居宅サービス計画)が単なる介護サービスのパッケージ(package)の提案・提供にしている、という批判があります。なぜ、このようなことになってしまうのでしょうか。

 当事者(障がい高齢者)のニーズが福祉・介護・ケアマネジメントの始点です。
 しかし、このニーズを当事者が「意志」決定するという言い方は不自然だと思います。ニーズにはもともと社会的側面があるので、自分だけで決められるような性格のものではありません。
 ニーズについては、当事者本人が「了解」「納得」できるか、できないかということなのではないでしょうか。
 そして、当事者が了解、納得したニーズに基づいてどのようなサービスをどのように利用するかという「意志」決定のプロセスは次に来るはずです。

 簡略化してプロセスを示せば・・・

「当事者のニーズ確認・了承・納得 ⇒ 支援者からの選択肢の提示 ⇒ 当事者の「意志」決定 ⇒ サービス利用」ということになります。

(2)介護サービスの選択から遡及的に抽出される「意志」

 さて、一般的に「意志」概念は本来的に未来志向であり過去の経緯や色々な経過、出来事、他者からの影響等々の軽視を前提としています。
 普通、過去やしがらみに引きずられて、または他者から強い影響を受けて、または強いられていたのでは、「意志」決定したとは言えないでしょう。
 どのようなサービスを利用するかを「意志」決定するという場合は、過去の経緯に影響されずに、他者から強いられることなく「意志」決定されなければならないというのが建前ですが、ここに「意志」決定を強調することにより過去の経緯やニーズなどの諸事情から断絶されてしまう可能性が生じてしまうのだと思います。「意志」決定という言葉を使う限り、そのニュアンスや含意から、過去の要因の集積、他者との相互関係の総合であるニーズが軽視されてしまう怖れがあります。

 そして、何らかのサービスを選択した結果、そこには当事者(要介護高齢者)の意志があったとして遡及的に見なされるようになるのです。その結果、サービス選択がケアマネジメントの中心となってしまいます。
 ケアマネジメントにおける「意志決定支援」とは、何らかのサービスを選択した結果、遡及的に当事者が「意志」決定したとされ、専門家がそれを支援したことにされてしまうのです。

 端的に言うと、当事者の「意志」決定があり介護サービスが選択されたというのは勘違いで、サービスが選択されたということで当事者が「意志」したということにされてしまっているのです。

 また、このような逆転した論理は、ニーズとソリューション(解決策)との関係にも転化します。つまり、因果関係で言えばニーズが原因でありサービスが結果なのですが、これが逆転し、現状の提供可能なサービスに合わせてニーズ(原因)が創作されてしまう怖れも出てきます。
 もちろん、上述のニーズの軽視、忘却は「意志」決定した当事者だけではなく「意志決定支援」したケアマネジャーたちをも巻込むことになりかねません。

 「意志」概念は、始原の諸事情やニーズの軽視、原因‐結果の論理の逆転を招く怖れがあるのです。

(3)ケアマネジメントは介護サービス利用支援

 端的に言えば、「意志」決定支モデルのケアマネジメントは、介護保険で定められている既存の介護サービス利用支援です。

 よく、ケアマネジメント(居宅サービス計画)が福祉用具貸与、訪問介護、通所介護、短期入所等々のありきたりなサービスパッケージ(service package)に陥ってしまう問題が指摘されますが、これもケアマネジメントがフィクションに過ぎない「意志決定支援」とされ、「意志」の忘却機能、思考排除機能により、ニーズを忘却し思考停止した結果、サービスパッケージの形式的、形だけの「意志決定支援」となってしまっているからです。介護サービスさえ選択決定できれば遡及的に「意志決定支援」したことにされるのです。

 ようするに、人は「意志」概念に引きずられ、過去の経緯や心身状況等の集積、他者との相互関係の総合であるニーズを軽視し、忘れやすくなるのです。

 ハイデガーの言葉を思い出しましょう、「意志することは忘れること」です。

(4)意志はフィクション

 人は言葉の枠組みに思考が縛られてしまいます。ケアマネジメントにおいては、「意志」決定という言葉から自由になる必要があると思います。ないしは、「意志」概念を批判的に捉える必要があります。
 そもそも、「個人が自由に物事を選択していて、その背景に意志があるというのはフィクションに決まっている。」のですから。

(引用:國分功一郎2021千葉雅也・國分功一郎「言語が消滅する前に」幻冬舎新書p193)

 フィクションでしかない「意志」をケママネジメントに導入したことで思考が縛られ誘導されてしまいます。

 やはり、ケアマネジメントの中核であるニーズに焦点を当てる用語、例えば「ニーズ形成支援」と言い換えた方がケアマネジメントの本質に根差し、とにかくサービスさえ選べば良いというサービス決定至上主義に陥ることを防げるのではないでしょうか。

第2章 「意志」概念と新自由主義的自己責任論

1.「意志」概念にまとわりつく「責任」

(1)「意志」概念と帰責性 

 何かを「意志」決定し実行した場合、その行為が他者に迷惑などを掛けることとなれば責任が問われます。「意志」は責任を生み出す母でもあるのです。「意志」概念には「責任」がまとわりついているのです。

 國分功一郎(哲学者)さんによると、英語には「責任」に該当する言葉が二つあるといいます。一つはimputability(インピュタビリティ)でもう一つはresponsibility(レスポンシビリティ)です。

imputability(インピュタビリティ)は「帰責性」と訳され、「罪や欠陥などをある人に帰属させる」ことを意味します。

responsibility(レスポンシビリティ)はresponse(レスポンス)つまり応答に由来し、目の前の事態に自ら応答(response)するということです。

 「帰責性」は法律の根幹をなす概念で、引き起こされた罪の帰属先を確定するものです。「意志」概念に「責任」概念がまとわりついていると言った場合の「責任」は「帰責性」という意味です。つまり、「意志」概念は「帰責性」を問う法的な概念なのです。

 (参照:國分功一郎2021『「他利」とは何か』集英社新書p174~176及び國分功一郎2021千葉雅也・國分功一郎「言語が消滅する前に」幻冬舎新書p194)

 國分功一郎さんは「意志」概念と「責任」概念との結びつきを次のように説明しています。

 意志を、何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることかできる。ある行為が過去からの帰結であるならば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為は、その人によって開始されたものではないからである。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界-意志と責任の考古学」医学書院 p131

 「意志」は何事かを開始する能力です。そして開始する能力である「意志」によって行為がなされるからこそ、「責任」を問われることになるのです。

 意志の概念は責任の概念と強く結びついている。このことは「意志」が、その日常的用法においても何ごとかを始める能力として思い描かれていることを意味している。何らかの行為を自らの意志で開始したと想定されるとき。その人はその行為の責任を問われるのである。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界-意志と責任の考古学」医学書院 p130

 「責任」を問われる行為をした場合には、そこには「意志」があると遡及的に認識されるようになると思います。

責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界-意志と責任の考古学」医学書院 p26

 普段は「意志」なんてあまり意識などしていないのに、「責任」があると判断された瞬間に遡及的に「意志」が出現するというところに「意志」概念の特徴があるような気がします。
 ケアマネジメントでいえば、利用者がサービスを選択した途端とたんに、遡及的にそこには「意志」があったとされるのです。

(2)「意志」決定支援と新自由主義

 なぜ、ケアマネジメントに「意志決定支援」、「意志」という概念を用いるのでしょうか。それは、法的な権利主体として当事者を位置づけるとともに、その当事者の「責任」「帰責性」を問える体制、つまり自己責任体制を明確にしておく必要があるからでしょう。
 当たり前のことなのですが、サービスを選ぶ権利があるのは当事者だけで(自己決定権)、その選んだサービスが悪い場合でも、「そのサービスを選んだのは、あなたです」と言える仕組みが必要なのです。
 そして、問題があれば「お嫌でしたら別のサービス事業者にしましょうか」と、また新たな「意志」決定を迫ればよいのです。「意志」の過去やしがらみにとらわれない性質を生かして未来志向で行けばよいのです。

 また、「意志決定支援」は日本政府が推進する個人の自己責任を重視する新自由主義との相性も非常に良いのです。新自由主義が徹底された社会では、自由な「意志」決定ができ、自己「責任」を果たせる「自立」した人間像が推奨されています。
 さらに、介護の目的は「自立」というのが日本政府公認の考え方ですが、この介護の目的も新自由主義的価値体系に親和的です。
 「意志」「責任」「自立」という三位一体的な基本概念で構成される「意志決定支援」としてのケアマネジメントは、新自由主義的価値を基にした社会保障の一翼を担う思想的ツール(tool:道具)に他なりません。

2.「帰責性」の過剰がもたらすエビデンス主義

(1)帰責性過剰の現代社会とエビデンス主義

 現代社会では「帰責性」を意味する「インピュタビリティ(imputability)」が過剰に強調され過ぎていて、「帰責性」に追い回されて、さまざまな事態にレスポンス(対応)できないでいるように思います。
 例えば、職場で何か問題があっても、その問題への具体的対応を放っておいて、誰が悪いのかと責任追及(帰責性)するような雰囲気、組織風土になっていませんでしょうか。問題はさておいて責任を追及する雰囲気が強くなっているように思うのです。

 國分功一郎(哲学者)さんは次のように指摘しています。

 いまはインピュタビリティが過剰になって、それを避けることにみんな一生懸命だから、レスポンシビリティが内から湧き起ってくる余裕がない。

引用:千葉雅也・國分功一郎 2021「言語が消滅する前に」幻冬舎新書 p194

 現代社会は応答としての責任、つまり「レスポンシビリティ(responsibility)」ではなく、「帰責性」を問う責任(imputability)ばかりが強調される時代です。カスタマーハラスメントが問題になっていますが この背景にも帰責性を問う風潮があるのではないでしょうか。
 この過剰な「帰責性」の基盤、要因に「意志」概念があるのだと思います。「意志」決定は責任・「帰責性」を明確にする際に不可欠な法的概念だからです。
 そして、この「意志」概念がもたらす「帰責性」の過剰、厳格化にともなって生じてきたのがエビデンス主義です。しかも、このエビデンス主義は責任回避の手段となっていると千葉雅也(哲学者)さんは指摘しています。

 状況によって判断することの難しさと責任から逃れようとしていると思うんです。その意味で、エビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。

引用: 千葉雅也・國分功一郎 2021「言語が消滅する前に」幻冬舎新書 p190,191

 さらに、國分功一郎さんも、「意志」概念がもたらした過大な責任を負わせる社会がエビデンス主義を招来させたとしています。

 意志概念に基づいて、個人に過大な責任を負わせるシステムを作ったら、逆説的にそのシステムを信じている人ほど、この過大な責任を避けたいと思うようになった。その結果としてエビデンスだけに従うマインドが出てくる。責任主体を立ち上げようとしていたがゆえに、エビデンスやルールに従うことでその責任を回避するという無責任な社会が出てきてしまう。

引用: 千葉雅也・國分功一郎 2021「言語が消滅する前に」幻冬舎新書 p192

(2)エビデンス主義・科学的介護情報システム(LIFE)批判

 「意志」概念がもたらした過大な責任を負わせる潮流がエビデンス主義を招来させたのですが、介護の世界でもエビデンスに基づく介護が脚光を浴びています。エビデンスに基づく介護とは科学的介護情報システムLIFE(Long-term care Information system For Evidence)に代表される科学的介護のことです。

 科学的介護とは、要介護者の自立支援や重度化防止につながることなどが、数字データなどの客観的なエビデンスによって認められた介護サービスのことです。厚生労働省では、「科学的に自立支援等の効果が裏付けられた介護サービス」とも説明しています。

ソラスト 2023.09.06「科学的介護」でこれからの介護のあり方が変わる!?その言葉の意味と4つのメリットをわかりやすくご紹介|ソラまめ+|介護サービスのソラスト


 エビデンスに基づく介護、科学的介護は2021年導入のLIFEにより介護報酬上の加算算定(科学的介護推進体制加算)と相まって介護現場を席巻しつつあります

※ LIFE導入1年後の2022年4月LIFEのユーザー登録は、特養が9 割程、通所系が7 割程、特定施設は5 割程。
(参照:2022年4月「加算算定状況等調査 結果の概要」公益社団法人全国老人福祉施設協議会)

 エビデンスに基づく介護は、まったく根拠のない介護よりは良いに決まっています。しかし、良いことだけではなく問題もあるのです。
 千葉雅也さんはエビデンスについて次のように指摘しています。

 多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されているもの。もちろん代表的には数字です。それに対して言葉というものは。解釈が可能で、揺れ動く部分があって、曖昧でメタフォリカルです。エビデンスにはメタファーがない。

引用: 千葉雅也・國分功一郎 2021「言語が消滅する前に」幻冬舎新書 p115

 ※パラメーター(parameter):変数または媒介変数のこと。物事の条件や基準を示す指標。
 ※メタファー(metaphor)」隠喩いんゆ 白い肌を「雪の肌」と言うなど。

 さらに、國分功一郎さんも次のように指摘しています。

 エビデンス主義には・・・・非常に少ないパラメータだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。

引用: 千葉雅也・國分功一郎 2021「言語が消滅する前に」幻冬舎新書 p190

 また、エビデンス主義とは科学主義の別名です。

 木村文(社会学者:ハワイ大学マノア校社会学部教授)さんが指摘する科学主義の問題点はエビデンス主義にも言えるでしょう。

 科学主義とは、本来、多層的であるはずの事象を科学だけで解決できるかのように矮小化することを言います。

斎藤幸平+松本卓也編 2023『コモンの「自治」論』集英社コモン p136

 科学主義のもうひとつの落とし穴として、数値化やデータ化できない事象が周縁化されていく点があげられます。

斎藤幸平+松本卓也編 2023『コモンの「自治」論』集英社コモン p138

 紹介した木村文さんの科学という言葉をエビデンスに置き換えると次のようになります。
 「エビデンス主義は、本来、多層的であるはずの事象をエビデンスだけで解決できるかのように矮小化してしまうし、数値化やデータ化できない事象が周縁化されてしまう。」

(3)介護に効率性を求める新自由主義

 新自由主義に染められた社会ではこのエビデンス主義は効率的なものとして歓迎されています。何故なら少ないパラメータで自動的に判断が可能となるからです。介護の世界でもエビデンス主義(EBC:Evidence・Based・Care)に基づき科学的介護情報システムLIFEを導入するのは、生産性向上、効率化のためです。
 しかし、実際の介護では数値化できない事象、つまり、個々人のナラティブ(narrative物語)、経験、主観、感情、気分が大切なのです。それをエビデンスという限られたパラメータ(parameters:変数)だけを参照項目として介護し、その介護の質を判定するのは、人間の矮小化わいしょうか、介護の矮小化だと思います。 

 今後、介護現場では、ますますLIFEに重きが置かれ、現場の介護記録などのデータをAIか解析し、フィードバックされた分析結果が介護の評価とされるようになるでしょう。そして、現場へのフィードバックは問答無用のアドバイス、指示となり、個々の当事者の経験や物語、実存は無視されないがしろにされるようになります。
 AIは介護労働者の構想(精神労働)を取り上げてしまい、介護労働者はもう、考える必要はなくなります。AIの指示とおり働けばよいのです。 


 労働における構想の問題は以下のnoteをご参照願います。

 そんな、一面的で軽薄な介護を日本式介護として胸を張る、恐ろしい近未来を想像してしまいます。このまま行けば、近々、エビデンスに基づきケアプラン(居宅サービス計画・施設サービス計画等)をAIに作ってもらうことになるでしょう。そのようになれば、当事者の自己決定権など無視され、「意志」批判など古き良き時代の話になってしまうかもしれません。

 繰り返しになりますが、エビデンスに基づいた科学的介護が悪いと言っているのではありません。エビデンスだけに頼る介護は、障がい高齢者のほんの一面しか捉えられないので、薄っぺらく、当事者がうとんじられてしまうのではないのかと危惧しているのです。

 國分功一郎さんの次の指摘も介護の世界にも当てはまることだと思います。

 エビデンス主義が掲げる科学主義は宗教的なものの危険性に対して極めて敏感であるわけですが、他方でそれ自体が狂信的になっている感がある。・・・エビデンス主義そのものが宗教みたいになっていのではないか。

引用:千葉雅也・國分功一郎 2021「言語が消滅する前に」幻冬舎新書 p190

 介護の世界でもエビデンス主義、LIFEは大切ですが、エビデンス主義、LIFEを宗教にしてはいけないと思います。

 整理すると、「意志」概念は、ケアマネジメントにおける「意志」決定をする当事者(利用者)にも「意志」決定支援をする専門家たちにも以下のような影響を与えかねないということです。

  • 当事者 ⇒「意志」決定 ⇒ 帰責性 ⇒ 自己責任 ⇒ 新自由主義

  • 専門家 ⇒「意志」決定支援 ⇒ 帰責性 ⇒ エビデンス主義・科学主義 ⇒ 生産性向上 ⇒ 新自由主義

 こうみると、「意志」決定なるものは、新自由主義を支える一つの神話・フィクションだと言えるのかもしれません。

第3章 ケアマネジメントと「意志」決定

1.ケアマネジメント過程と「意志」決定

(1)ニーズの社会性

 ケアマネジメントのプロセスを単純化すれば次のようになると思います。

ニーズの形成 → 課題解決のための目標設定 → サービスの選定・決定 → サービス提供 → モニタリング

 ケアマネジメントの始点はニーズです。

 上野千鶴子(社会学者)さんによると、そもそも、ニーズとは社会的なものだと言います。

 ニーズとは第三者によって社会的に決定されるものである。・・・社会福祉学におけるニーズ概念を検討すれば、ニーズの判定者は当事者ではなく、第三者優位の概念構成がなされている。
 社会福祉学ではその関与者によって「主観的ニーズ」と「客観的ニーズ」とに分類される。「主観的ニーズ」よりは「客観的ニーズ」の方が、社会的承認を伴うことでより適切なニーズであるという規範的な含意がこの概念には前提されている。
 ニーズは援護水準によって「顕在ニーズ」と「潜在ニーズ」とに分類される。「顕在ニーズ」が当事者によって自覚されたニーズであるのに対し、「潜在ニーズ」とは、当事者によっては自覚されないが、専門家や第三者によって判定されたニーズを言う。定義上、顕在ニーズより潜在ニーズの方が援護水準が高いと見なされている。

引用:上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版 P68,69

 ニーズは社会的なものなので、ただ単に当事者の訴えや要望がニーズとなるわけではなく、ケアマネとのコミュニケーションをとおして、社会的な合意として形成されていく必要があるのです。
 ようするに、ニーズは既に「在る」ものではなく、社会的な合意「形成」されるものということです。
 そして、このニーズ形成過程では当事者(障がい高齢者)よりもケアマネなどの専門家がイニシアティブ(initiative)・主導権を有しているのは明白です。
 ですから、ニーズ形成過程は当事者が専門家にとともにニーズを形成していく過程であって当事者が何かを「意志」決定するというような話ではないように思われます。

(2)サービス決定の瞬間

 ケアマネジメントの過程の中で、当事者の「意志」決定らしきものがあるとすれば、サービスの決定でしょう。これはサービス購入者として法的な権利と責任が求められる場面ですから、法的概念としての「意志」概念が要請されるのです。つまり、当事者自らに責任を取ってもらうために、つまり、帰責性に基づき遡及的に「意志」決定したことみなす必要があるのです。
 しかし、介護サービス購入者として利用するサービスを「意志」決定するというより、サービスを「選択」したと言った方が実態に近いのではないでしょうか。

 結局、ケアマネジメントでいう「意志」決定支援とは、一種のキャッチフレーズ(catch phrase)、謳い文句であって、そこで伝えたい内容は「当事者が法的な主体(契約主体)であって、その当事者主権を尊重し、なるべく当事者の意向に沿うようにします」ということだと思います。

 いずれにしても、大切なのはニーズは既に「在る」のではなく、ニーズは社会的に「形成」される必要があるということです。ケアマネジメントの実践においては「ニーズ形成支援」という概念が大切だと思います。

2.「選択」と「意志」

(1)「選択」と「意志」の違い

 ケアマネジメントは当事者(障がい高齢者)の「意志」決定支援であると言われますが、当事者が必要なサービス、利用頻度、利用日時、サービス料金、保険給付額、サービス提供の目的や方法等々を理解でき、自ら主体的に決断(「意志」決定)を下せるのでしょうか。
 当然、困難な場合が多いでしょう。サービスを選択し、「意志」決定するのが非常に困難だからこそ支援が必要だというロジックになっているのです。

 実際のケアマネジメントにおいて、当事者には何らかの希望があるのかもしれませんが、結局、ケアマネジャーが勧めるサービスをただ鵜呑うのみにして「Yes」と応えることが多いのだと思います。

 そもそも、このような「Yes/No」が「意志」決定と言えるのでしょうか。
 國分功一郎(哲学者)さんは、「意志」と「選択」を明確に区別すべきだと説いています。

 日常において、選択は不断に行われている。人は意識していなくとも常に行為しており、あらゆる行為は選択である。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p131

 また、國分功一郎さんは「選択」とは過去の要因の総合または過去からの帰結だと指摘しています。 

 とにかく、過去にあったさまざまな、そして数えきれぬほどの要素の影響の総合として「リンゴを食べる」という選択は現れる。それはつまり、過去からの帰結としてある。

引用・参照:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p132

 ようするに、リンゴを食べる選択をしたとしても、それは、ビタミン不足だったからかも知れないし、テレビで青森のリンゴの宣伝を見たからかもしれないし、誰かに「昨日食べたリンゴが美味しかった」と言われたからかもしれないのです。
 日々行われている過去からの帰結である「選択」と「意志」とは全く水準の異なるものだと國分さんは次のように指摘しています。

 選択がなされたならそこに意志があったのであり、意志があるから選択がなされるのだ、と。しかし、意志は心のなかに感じられるものであり、選択は現実の行為です。存在している水準がまったく異なっている。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p116,117

(2)介護サービス「選択」支援 vs 「意志」決定支援

 「選択」は現実の行為であり、「意志」は心のなかに感じられること、「選択」したという事から遡及的に要請された概念です。単に「選択」でしかないことも、いつの間にか「意志」へとすりかえられてしまうと國分功一郎さんは指摘しています。

 選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行なわれるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが・・・いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすりかえられてしまう。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p133

 このように、「選択」と「意志」を区別してみると、ケアマネジメントで言っている「意志」決定支援とは、過去の経緯や環境条件、心身状況を基にした介護サービス「選択」支援だといえます。 
 そもそも、先行する原因は存在せず、何ものにも影響されず、「意志」がある瞬間に立ち現れて行為を生み出す。そんな「意志」概念を前提とすれば、「意志」決定を「支援」するというのは「意志」概念の矛盾でしかありません。「意志」決定を支援しては「意思」決定にはならないのです。
 やはり、ケアマネジメントを「意志」決定支援という観点からではなく、介護サービス「選択」支援という観点から捉え直した方が、現実のケアマネジメントの営為に近いのだと思います。

3.生きづらい社会

(1)意志+自立=自己責任

 「選択」支援でもよいはずなのに、ケアマネジメントにおいて、なぜ、敢えて「意志」決定支援という言葉、概念を用いる必要があるのでしょうか。そこが問題なのです。
 「意思」概念は日本政府公認の介護の根本理念である「自立」支援、つまり「自立」概念を補強する概念、親和性の高い概念だからではないかと、私は思っています。「意志」概念と「自立」概念が「自己責任」概念を支え、補強しているのではないでしょうか。

「意志+自立=自己責任」という図式です。

 新自由主義的思想が席捲せっけんしている現代社会の基本的な理念、価値観が「自己責任」であるため、社会保障の場面でも「意志」決定支援、「自立」支援、「自己責任」が強調されることになるのです。
 ケアマネジメントへの「意志」概念の適用が、新自由主義的な「自己責任論」の一翼を担う役割を果たしているのです。

(2)100歳まで生きたくない

 株式会社Hakuhodo DY Matrixのシンクタンク「100年生活者研究所」は2023年9月15日、人生100年時代に関する意識調査の結果を公表しました。
 この調査は、アメリカ・中国・フィンランド・タイの4カ国の合計2400人と、日本の2400人の回答結果を比較したものです。
 この調査結果で「100歳まで生きたいか?」の問いに対して「とてもそう思う」「そう思う」と回答した人が最も多かったのは中国で79.4%、次いでアメリカ(62.3%)、フィンランド(54.5%)、タイ(53.2%)と続き、日本は26.6%で最下位だったと言います。

(参照:株式会社Hakuhodo DY Matrix 100年生活者研究所 2023年9月15日)

  日本人の4人に3人は100歳まで生きたくないという結果は衝撃的でした。

 この結果は、社会保障領域にまで新自由主義的価値観、つまり、「自己責任」思想が強化・浸透してしまった結果、100歳まで生きてしまっては「人様に迷惑をかける」という暗黙裡の規範が浸透し強化されたからではないかと、私は疑っています。
 「自己責任」を強調し、「意志」決定支援、「自立」支援を強調する社会は「生きづらい」社会なのです。

第4章 寄り沿うケアマネジメント

1.非自立的同意

(1)非自立的同意

 ケアマネジメントにおいて、当事者(障がい高齢者)がケアマネジャーの提示する介護サービス種類、サービス事業所等々を「選択」するとして、はたして当事者たちは「自発的」に同意しているのでしょうか。この場合の「自発的」とは純粋に自発的な能力としての「意志」に他なりません。
 もちろん、ケアマネジャーは自らの提案を当事者に強制しているわけではありません。当然、複数案を提示し選択してもらうのでしょうが、厳密な意味で「自発的に同意」する当事者がいるのでしょうか。
 たぶん、多くの当事者は、よくわからないけれど、ケアマネジャーが言うのだからと、なんとなく同意する、よくわからないから取り敢えず?仕方なく?同意する場合が多いのだと思います。

 國分功一郎(哲学者)さんは、強制はないが自発的でもない同意は日常にあふれていると指摘しています。

 強制はないが自発的でもなく、自発的でもないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p158

 國分さんは、このような強制はないが自発的でもない、仕方なく同意することを「非自発的同意」と名付けています。

 介護施設における施設サービス計画への当事者の同意なども、確かに強制はありませんが、本人、家族が介護サービスに詳しくない限り、他に選択肢はほとんど無いのですから入居者が同意したとしても、それは「非自発的同意」でしょう。しかたなく、なんとなく同意しているに過ぎません。それでも、ご本人が自発的に同意した、「意志」決定したということで自己責任を負わされるのです。

(2)施設サービス計画と居宅サービス計画の相違

 蛇足になりますが、介護施設の入居契約は実質的には全権委任契約に近いものです。いったん、この全権委任契約に同意(非自発的同意でもかわいませんが)すれば、施設サービス計画への同意は単なる手続き上の形式的同意にすぎなくなります。
 在宅での居宅サービス計画への同意については、施設サービス計画よりも自発的に同意する可能性は高いでしょう。居宅サービスの場合はさまざまな選択肢があるのですから。
 しかし、ケアマネジャーと当事者やその家族との情報の非対称性を考慮すれば、やはり、自発的同意よりも非自発的同意の方が圧倒的に多いのだと思うのです。

※ 全権委任とは、ある人が自分の権限を完全に委任し、代理人がその権限を行使すること。

(3)「意志」決定/自発的同意/非自発的同意の関係

 非自立的同意が悪いのではありません。非自立的同意は日常生活にあふれています。ケアマネジメントにおける当事者の同意は必ずしも自発的でない、仕方なしに同意する非自発的同意もあり得るという事態を直視することが大切なのです。
 ケアマネジメントが「意志」決定支援だとする理念とその実際は少々かけ離れているということをしっかりと認識することが必要なのです。
 「意志」決定と自発的同意、非自発的同意の関係を次に示しておきます。

・「意志」決定 ≒ 自発的同意 ≠ 非自発的同意

(4)自発的同意はフィクション

 ケアマネジメントの現実は、ほぼ非自発的同意に基づくものなのですが、それを何とか自発的同意・「意志」決定へと是正していくことが必要だとは考えない方が良いと思います。
 國分功一郎さんが指摘しているように「意志」概念に支えらた純粋に自発的な同意など幻想、フィクションに過ぎないのですから。

 意志の存在は哲学的にはとても支持しえない。純粋な始まりなどないし、純粋に自発的な同意もありえない。

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p158

 個人が自由に物事を選択していて、その背景に意志があるというのはフィクションに決まっている。

引用:國分功一郎 2021千葉雅也・國分功一郎「言語が消滅する前に」幻冬舎新書 p193

 ケアマネジメントを基本的に「意志」決定支援と捉えるのではなく、当事者の過去、経緯、取巻く社会的環境、心身の諸状況の集積・総合であるニーズを丁寧につむいでいき、ニーズ・課題に対応したソリューション(解決策)を共に模索していくプロセスとして理解した方が良いと思うのです。たぶん、多くのケアマネは上述のようにケアマネジメントを捉えていると思うのですが、いかがでしょうか?

2.寄り沿うニーズ形成支援

(1)ケアマネジメントの時制論

 ケアマネジメントは、どうしても「意思」決定支援、または、サービスの自発的「選択」支援でなければならないのでしょか。「意志」決定支援にしても自発的「選択」支援にしても、それが起こるのは時間の中のある一点です。「意志」決定の瞬間、「選択」の瞬間があるにちがいないからです。
 そうすると、ケアマネジメントは意志決定する一瞬、選択する一瞬という現在の一点に収斂しゅうれんしていきます。つまり、時間の特定のポイント・時制に位置づけられるということです。
 しかし、この現在の一瞬に定位される「意志」決定やサービス「選択」という概念では、当事者(障がい高齢者)のナラティブ(narrative:物語)、過去の経緯、諸般の事情、取巻く人々を考慮する枠組みにはなりえません。

 これに対して、「ニーズ形成支援」は時間的な幅があります。何かを形成していくためには、過去、現在、未来を含む一定の時間的な幅を想定しなければなりません。この「形成支援」としてのケアマネジメントのイメージを明らかにしていくことが大切だと思うのです。

(2)生成的コミュニケーション

 山口尚(哲学者)さんは、伊藤亜紗(美学者)さんの著書「手の倫理」(2020年講談社選書メチエ)を参照して、生成的コミュニケーションという概念を紹介しています。この生成的コミュニケーションという概念はケアマネジメントを考えていくうえでとても有益なものだと思います。

 伊藤亜紗さんは、ブラインドマラソンの実例を引き合いに出しながら、生成的コミュニケーションについて考察しています。このブラインドマラソンでは、「目の見えないランナー」と「目の見えるランナー」がペアになって、ロープを小さな輪にしたものをともに握り、腕の振りのリズムを合わせながら一緒に走ります。

ブラインドマラソン

 いわゆる伴走ですが、この伴走では、見える人が見えない人をサポートするわけですが、伊藤亜紗さんはこの伴走のペア間では次のような経験が生じているといいます。

 実際の身体感覚としては、そこに「伴走してあげる側」と「伴走してもらう側」というような非対称性はない。つまり、伝達ではない、生成的な関係が生まれているのです。

 一方が〈主〉で他方が〈従〉という「伝達的」コミュニケーションとは区別された、「生成的」コミュニケーションが生じる。

参照・引用:山口尚 2021「日本哲学の最前線」講談社現代新書 p129,130,131

 この場合のコミュニケーションとは伝達的なものではなく、「ひとびとが互いのやり取りの中で物事の意味を作り出していく」というようなタイプのコミュニケーションだとしています。(参照・引用:山口尚2021「日本哲学の最前線」講談社現代新書p129,130,131)

(3)ケアマネジメントにおける「形成」 

 ケアマネジメントにおけるコミュニケーションも伝達的なものではなく、生成的な在り方の方が良いのだと思います。ケアマネジメントの始点において、当事者は曖昧模糊あいまいもことしてハッキリはしていないけれど、既に潜在的なニーズを抱えています。
 であれば、この潜在的で曖昧なニーズを整った形にするという「形成」という概念の方が相応しいと思います。
 人の思考は、言葉に縛られます。だからこそ、どのような言葉、概念を用いるのかが重要なのです。
 ケアマネジメントを「意志」決定支援として理解するのか、「選択」支援として理解するのか、それとも「ニーズ形成支援」として理解するのかではケアマネジメントのコミュニケーションや人間関係は全く異なってくるように思うのです。

(4)寄り沿うケアマネジメント

 よく「寄り添う介護」と言われますが、「寄り沿うケアマネジメント」もありだと思います。正しくは、寄り添うという表記になるのでしょうが、ここでは寄り「沿う」にしたいです。
 「添う」は離れずに傍そばに一緒にいるという状態を表しますが、「沿う」は並行して進行することを指します 。
 ニーズを形成する過程を支援する場合、状態を表す「添う」よりも、進行を表す「沿う」の方が相応ふさわしいと思うのです。また、「添う」では当事者とケアマネジャーとの適切な距離感の大切さが欠落してしまうかもしれません。当事者と「向き合う」ケアマネジメントよりも、ブラインドマラソンのように伴走する「寄り沿う」ケアマネジメントの方が求められているのではないでしょうか。
  次の言葉が「ニーズ形成支援」的なケアマネジメントの本質を言い当てていると思います。

 選択や行為に先立つ原因群を切断させるような「意志」の支援ではなく、原因群のすり合わせ過程に伴走して「~したい」が形成されていくのを支援する・・・

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p201,202

 ケアマネジメントを当事者(障がい高齢者)の「意志」決定と定義してしまうと、自己責任に向けてケママネジメントが猛進していくことになってしまいます。もう少し「意志」概念から距離をとる必要があるのだと思います。今、「意志」概念とは少し違う観方、少しだけズラした観方が必要なのではないでしょうか。
 「意志」決定支援とは違う、伴走するケアマネジメント、寄り沿うケアマネジメントの論理と実践が求められていますし、そのための新しい言葉・概念が求められています。

第5章 ケアマネジメントにオープンダイアローグ的視点を!

1.ニーズ形成支援手法としてのオープンダイアローグ

 ケアマネジメント・システムとは、高齢者のニーズを特定し、ケアプランを作成して説明し、同意を得た上で介護サービスを提供する一連のプロセスを指します。私はこのケアマネジメント・システムの起点であるニーズの特定プロセスは、國分功一郎(哲学者)さんの提唱する「欲望形成支援」という視点が大切だと思っています。 

 選択や行為に先立つ原因群を切断させるような「意志」の支援ではなく、原因群のすり合わせ過程に伴走して「~したい」が形成されていくのを支援する・・・

引用:國分功一郎 2017「中動態の世界 意志と責任の考古学」医学書院 p201,202

 この「欲望形成支援」を介護の世界に翻訳すれば「ニーズ形成支援」ということになるでしょうが、まだ具体的な手法が確立されていないように思います。
 ニーズ形成支援の具体的手法を考える際には、オープンダイアローグ[1](Open Dialogue:急性期精神病における開かれた対話によるアプローチ、 以下「OD」と略します。)がとても参考になるのではないかと思っています。
 なぜなら、ODは当事者の主体性を尊重するばかりではなく、専門家同士の上下関係も平等化するので、関係の非対称性が強く、潜在的に権力性、抑圧性がある介護領域にも相応ふさわしいのではないかと思われるからです。

 ODについて、単なるイメージでしかありませんが、幾つか参考になりそうなポイントを紹介したいと思います。

(1)一対一でやらない

 当事者と介護支援専門員(ケアマネジャー)や、ケアマネと当事者の娘とか一対一の相談は避けた方が良いようです。
 一対一の相談では知識の非対称性を緩和、克服することは困難ですし、どうしても専門家が相談者を指導、説得することになりかねません。やはり複数の専門家、当事者とその家族等の複数での対話の機会を確保した方が良いのだと思います。

 斎藤環 ・・・大事なことは「一対一でやらない」ということです。・・・  
 極論すれば、対話は二人では無理なんですよ。二者関係ってどうしても力関係が不均衡になりやすかったり、話が深まりすぎて過剰な自己開示になったりしやすいので、健全な対話をするには「n対n」の関係が必要なんです。理想的にはこちら側も複数いて、向こうも彼の代弁をしてくれそうな人がもう一人いてくれると非常にいいと思いますね。

引用:看護師のためのwebマガジン医療書院 國分功一郎/斎藤環《中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援》

 具体的に何人くらいのミーティングが望ましいかというと、ODの発展と普及に寄与してきたセイックラ[2](フィンランドのユバスキュラ大学心理療法(psychotherapy)の教授)によると3人がベストとのことです。

 であるならば、日本のケママネジメントにおいては、ケアマネ、介護職員、看護職員の3人で相談にのぞむのが良いのかもしれません。
(参照:斎藤環2015「オープンダイアローグとは何か」医学書院 P47)

(2)議論,説得,尋問,アドバイスの禁止

 議論、説得、尋問じんもん、アドバイスの禁止と聞くと、どうして良いかわかなくなって戸惑うかもしれませんが、専門家の「結論ありき」を防ぐためには必要なことでしょう。

 オープンダイアローグでは以下のことが実質的に「禁止」されている。すなわち、議論、説得、尋問、アドバイスである。なぜこれらが好ましくないとされるのであろうか。いずれも「結論ありき」で、その結論を相手に受け容れさせようという姿勢があるためである。アドバイスは一見マイルドなようでも、その前提は「あなたは間違っている」であるため、意見の押しつけとして受けとられる可能性がある。ある患者の言葉を借りれば、これらはいずれも患者をエンパワーするどころか「力を奪う」とのことであった。

引用:精神神経学雑誌 特集 「共同意志決定」を生む対話についての検討―患者の権利,意志とはなにか―「意志決定支援」から「欲望形成支援」へ

 当事者(お年寄り)やその家族への説明と同意を求める際に「尋問」なんてあり得ないと思うかもしれません。でも、斎藤たまき[3]さんの「尋問」についての説明を読むと納得できます。「尋問」は老人介護の世界でもよくあることだと思えるのではないでしょうか。

斎藤 それから、尋問しないこと。「どうしてほしいですか」とか、「何がしたいですか」とか、ついつい支援者が口にしがちな質問は、欲望がない状態の人にとっては“尋問”にしか聞こえない。そういう尋問で傷めつけないということが大事になってくると思います。

引用:看護師のためのwebマガジン医療書院 國分功一郎/斎藤環《中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援》

(3)開かれた質問

 オープンダイアログ・ODでは「開かれた質問」が推奨されています。「開かれた質問」とは、Yes/No以上の答えが求められる質問のことです。

例えば・・・

 「要介護認定を受けましたか」
 「訪問介護を利用しますか」
 「デイサービスを利用しますか」
 「施設に入居させるのですか」

という質問はYes/Noで答えられる質問です。

 このような質問だと質問者(専門家)の聞きたいことだけ、知りたいことだけを聞くということになり、あなたは私の質問にさえ答えれば良いということになってしまいます。これはやはり、尋問に近いものでしょう。いろいろ尋問し、知りたい情報を確保した後に「何か希望はありますか?」と型どおりに聞くことは、ケアマネジメントの過程でもよくあるように思われます。
 このような型とおりの面談は専門家によるモノローグ[4]、情報収集の場に過ぎず、とても双方向の対話とは言えないと思います。そこには、当事者(相談者)の主体性も確保できませんし、当事者と専門家のダイアローグ[5]・対話が成立していません。

 これに対し、「何にお困りですか。」「どのような希望をお持ちですか」「不便に感じることは何ですか」などはYes/Noで答えられない「開かれた質問」だと言います。この「開かれた質問」だと、当事者は自分の困っていることや思いをなんとか伝えようとします。そして、上手く言葉が見つからない場合もあるでしょうが、対話をとおして、言葉を見つけ、困っている事柄や思いを共有し相互理解ができるようになるのだと言います。

 「開かれた質問」は当事者(相談者)と専門家たちとのダイアローグ・対話へと導くアリアドネの糸[6]・道標みちしるべといえるでしょう。
(参照:斎藤環2015「オープンダイアローグとは何か」医学書院 P37)

(4)リフレクティング

 ODにおけるリフレクティング(reflecting[7])もケアマネジメントに有効だと思います。

 当事者(お年寄り)やその家族がケアマネや看護職、介護職の専門家同士の専門的対話を聞くことによって、一つの決まりきった結論ではなく、他の結論もあり得ることに気づくことができ、じっくりと考える機会を得ることが可能です。

 ODにおいては、家族療法の技法の1つである「リフレクティング」が取り入れられている。リフレクティング・トークは家族療法家のAndersen, T.とその同僚が開発した手法であり、ODの根幹をなす手法の1つである。
 患者や家族の訴えを聞いた専門家が、当事者の目の前で意見交換をしてみせ、それを聞いた患者や家族が感想を述べる。ごく簡単に言えば、この過程を何度か繰り返すことが、ODにおけるリフレクティングである。患者や家族の目の前で、専門家同士がケースカンファレンスをするようなイメージである。リフレクティングの意義としては、対話にさまざまな「差異」を導入し、新しいアイディアをもたらすこと、参加メンバーの内的対話を活性化すること、当事者が意志決定をするための「空間」をもたらすこと、などが指摘されている。

引用:精神神経学雑誌 特集 「共同意志決定」を生む対話についての検討―患者の権利,意志とはなにか―「意志決定支援」から「欲望形成支援」へ

 2.ケアマネジメントに対話を!

 ケアマネジメントは当事者をアセスメントし、サービス提供計画を作成し、当事者及び家族に説明し同意を得るというプロセスですが、現在のこのシステムには対話という要素が希薄なのかもしれません。
 例え、対話があるように見えたとしても、それは結論ありきの疑似対話(説得、アドバイス、尋問)におちいっている怖れがあります。

 ケママネジメントにおいて、対話を大切にする新たなプロセス、手法を模索する必要があるように思われます。

 新たに模索すべきプロセスや手法は、形式的な意志決定ではなくて、「あなたのニーズは何なのか」を対話の中で丁寧にはぐくむこと、当事者と共に一緒にニーズを形成しようとすることが基本になると思います。

 オープンダイアローグ (Open Dialogue)は、この対話を中心としたニーズ形成プロセスのための具体的な手法を提供できるのではないでしょうか。


[1] オープンダイアローグ (Open Dialogue)とは、「急性期精神病における開かれた対話によるアプローチ(Open Dialogues Approach in Acute Psychosis)」とも呼ばれ、フィンランドで開発された対話実践の手法/システム/思想である。主に、統合失調症患者、うつ病患者、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)、家庭内暴力の治療に用いられている。
[2] ヤーコ・セイックラ( Jaakko Seikkula 1953~)フィンランドのユバスキュラ大学心理療法(psychotherapy)の教授
[3] 斎藤 環(1961~)は、精神科医、批評家。 医学博士、精神保健指定医、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授
[4] モノローグ(Monolog)とは登場人物が相手なしにひとりで言うせりふ。独白。dialog
[5] ダイアローグ(dialogue)とは対話のこと。考えをはっきりと述べつつも、自分の主張や立場に固執することなく、互いの言わんとする意味を深く探求する会話。ダイアローグは相互理解と共通の理解を見いだすために有効とされる。なお、ディスカッションは相手を説得し結論を出すことを目的としており、ダイアローグとは異なる。(参照「人材育成・研修・マネジメント用語集」 https://www.recruit-ms.co.jp/glossary/dtl/0000000045/
 2022.08.30)
[6] アリアドネの糸(The thread of Ariadne)とは、非常に難しい状況から抜け出す際に、その道しるべとなるもののたとえ。〔由来〕ポロドーロス「ギリシャ神話」に載っている伝説から。アテナイの王子、テセウスは、ミノタウロスという怪物を退治するため、通路が非常に複雑に入り組んでいる「迷宮(ラビリンス)」という建物に入ろうとするが、そこから脱出する方法がわからない。すると、アリアドネという少女が、通り道に沿って糸を張りながら奥へと進み、怪物を退治したらその糸をたどって戻ってくればいい、と教えてくれた。その通りにしたテセウスはみごと、ミノタウロスを退治することができた。
[7] reflecting- reflectの現在分詞。反射する、 反響する。

おわりに

 読み返してみると、なんと重複が多いことか、自分でも驚いてしまいます。ずいぶん同じことを繰り返して書いています。それだけ、自信がないとうことかもしれません。
 これだけしつこく書くのは、「ケアマネジメントは意志決定支援である」ということへの批判に意味がないのではないかという思いもあるからだと思うのです。ケアマネジメントの現場にいない、ただのコンサルタントが、ケアマネジメントという既に整備された仕組に対して、卓袱台ちゃぶだいかえしのようなことをしたところで、後に残るのは散乱した食い物や食器で単なるカオスにしかならないのではないかという虚しさも付きまといます。
 この文章(『ケアマネジメント再考』)は私の言葉への趣味的、病的、偏執的なこだわりに過ぎないのかもしれません。
 それでも、私はケアマネジメントが載っている卓袱台ちゃぶだい、テーブルが気に食わないのです。もっと広くて素敵なテーブルがあった方が良いように思われてなりません。

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