【創作大賞2024】遅れてきた青春の日々8
マレクが屋敷に帰って二日が経った。ガリューが窓の外に揺れる草木をぼんやりと眺めていると、トレイに朝食を乗せたジェレミーがやってきた。パンケーキの上のバターが溶け出し、その香りに刺激されてか、ガリューの腹が鳴った。
「今日も暑くなりそうだな」
本格的な夏はまだ少し先だというのに、このところやたら暑い日が続いていた。湖畔でこの暑さでは町の方は耐えきれない程だろうとジェレミーは想像していた。
「午後までにデッサンを終わらせて僕は昼寝をするよ」
ナイフで一口大に切ったパンケーキを口に運んだ。ガリューは暑さに弱いらしく夏の間は昼間寝て夜行動することが多かった。もっとも寒いのはもっと苦手そうだが。
食事を終え、紅茶を入れようとガリューが立ち上がると、入口の扉を激しくノックする音がした。突然のことにジェレミーは飛び上がりそうになった。
「私だ、カタリンだ! 開けてくれ!」
ただならぬ雰囲気に気圧されて錠を開けると倒れ込むようにカタリンが飛び込んできた。汗だくな上に息も絶え絶えで、喋ることもままならない。ガリューが水を持ってくる間、ジェレミーは彼の口癖を思い出していた。
『良い報告はゆっくりでもいいが、悪い報告は出来るだけ早く』
悪い予感がしていた。それが的中しないことを静かに願った。
ガリューの持ってきた水を一気飲みして、ようやく少し落ち着きを取り戻したカタリンはガリューに詰め寄り、その両肩を掴んだ。
「これから男爵様の私兵がここにやってきます。ガリュー殿を捕まえるためです。どうか早くお逃げになってくだされ! 今ならまだ間に合うはず!」
話が飲み込めずキョトンとするガリューの肩を揺さぶる。
「ガリュー殿は普通の人間じゃないのでしょう。それが男爵様に知れてしまったのです。捕まれば間違いなく殺されてしまう。私に出来るのはこれを伝えてあなたたちを逃すことだけなのです!」
どうやら屋敷に帰ったマレクが男爵になにか言ったらしい。血のことだろうか? それともなにか他に隠し忘れていたものがあっただろうか? マレクのいた日々を思い返してみる。マレクがなにか伝えようとしていたのはなんだったのか。それが関係あったに違いない。あのとき、森から戻る前に聞いておくべきだった。ジェレミーは自責の念に強く拳を握りしめた。
「急いでくだされ。沼のある森の方はまだ固められていないはずです! 私は兵の配置を確認してまいります!」
それだけ言ってカタリンは来たときと同様に走り去って行った。
「……逃げようか」
カタリンの勢いに気圧され、事態を飲み込めず固まっていた二人だったが、彼が去ってようやく我に返った。ガリューは荷物をまとめてくると言って二階へ駆け上がって行った。ジェレミーも早く支度をしなければと気を焦らせたが、考えてみれば彼に持ち出すような荷物はなかった。せめて数日分の食べ物を持っていこうとキッチンで携帯できそうな食料を探していると、ノックもせず乱暴に扉が開かれた。男爵の私兵とやらかと恐る恐るジェレミーが顔を覗かせると、早くも戻ってきたカタリンが先ほど同様肩で息をしていた。
「もう間に合いませんでした。すでに森の外から包囲が始まっています。かくなる上は自ら投降して命乞いなさるしかない。私もマレク様もあなた方の弁護を致しますゆえ」
物音に気付いて降りてきたガリューとジェレミーに申し訳なさそうに頭を下げたまま固まった。顔は見えないが彼のことだから泣いているのかもしれない。
「顔を上げてくれカタリン。それから彼と話し合うから二人にしてくれないか?」
ガリューは慰めるように微笑みを浮かべ、カタリンの肩を叩いた。何度もガリューに謝りながら館を後にする。
「知らせてくれてありがとう。あとはこっちでなんとかするから」
目を拭う仕草をしたので本当に泣いていたのかもしれない。彼を見送り、今度はしっかりと扉を施錠するとジェレミーに向かって微笑みかけた。
「さて、とりあえず紅茶を入れてくれないか?」
ゆっくりとテーブルに歩くガリューを目で追い、椅子に座った瞬間、駆け寄った。
「そんな悠長なことをしてる場合か? なにか策を考えないと!」
「だからとりあえず紅茶を入れてくれ。君の分もだ」
こうなってしまってはなにを言っても無駄だとジェレミーは鼻を鳴らした。湯を沸かしてる間も外の様子が気になって仕方がない。今のところいつもの穏やかな風景だが、包囲はどこまでやってきているのだろう。森の中から甲冑姿の兵士が現れるのを想像しては、カップを持つ手に力が入った。
ジェレミーとは違い、ガリューは随分落ち着いて見えた。早足で持ってきたカップを「ありがとう」と受け取る所作もいつもより優雅に感じる。そのカップにガリューは四つ、砂糖入れた。
「甘っ! よくいつもこんなものを飲んでるね!」
顔をしかめるガリューはそう言いながらも二口目をすすり、また同じ顔をした。
「そんなことよりどうするんだ? カタリンが言うように助けを乞うか?」
ガリューは首を振る。やはりそんなことをしても無駄だと思っているのかもしれない。気を落ち着かせようと紅茶に口をつけるがなんの味もしなかった。砂糖を入れ忘れていたことに気付き、焦るように放り込む。
「これから調合室に行って僕の血を可能な限り君に譲る。そのあと僕が囮になって君だけなんとか逃す。そもそも連中の狙いは僕なんだから、君だけならなんとか見逃してくれるだろう」
思ってもいなかった提案にジェレミーは言葉を失った。それではまるで……
「それでお前どうなるんだ? 死ぬつもりか?」
質問には答えず、ガリューは窓の外を見た。
「もしうまく逃げ延びたとしても一生逃亡生活だ。二人ともまともな生活なんてできなくなる。僕が死ねばそれで全部丸く収まるんだ」
そう言ってようやく目を合わせた。
「僕はもう充分に生きたよ。もう悔いなんてない。僕と一緒にいて君まで殺されてしまったらそれがなによりの後悔だ。君はここから逃げて夢だった絵を完成させるんだ」
気がつくとジェレミーはガリューの胸ぐらを掴んでいた。そのまま椅子から倒した拍子にカップが倒れた。紅茶が床に流れ落ち、琥珀色の水溜りを作る。
「ふざけんな! それじゃ俺の気持ちはどうなる? 俺には後悔しながら生きろっていうのか? そんな勝手なことさせるか!」
「……わかってくれよ」
床に大の字になったガリューの声はか細く、ジェレミーが馬乗りになって再び胸ぐらを掴み、ようやく聞こえるようになった。
「僕はここで独りで生きた百年以上よりも、君と過ごしたほんの一年足らずの方がよっぽど濃厚で、価値があって、楽しかった。何千枚と描いてきた絵よりも君の方がよっぽど大切で、貴重で、失いたくないんだ。だからお願いだから生き延びてくれ。君はこの世界でたった一人の……僕の友達なんだから……」
ガリューの目から溢れた涙の筋が耳に落ちた。初めて見る彼の涙だった。ジェレミーは掴んでいた手を離し、慈しむようにガリューの頬に手を置いた。
「だったら……ここで一緒に死ぬか」
間もなく森を抜ける。自分の師を、恩人を狩るための一団、その先頭の馬上にマレクはいた。共に乗る父、エグバード男爵はうなだれる彼とは対照的に浮かれたように不敵な笑みを浮かべていた。なにせ相手はたった二人、簡単な戦だ。それで得られるのは町の近隣に住む化け物を退治したという名誉だ。その手柄をより強固なものにするべく男爵自ら兵を引いてやってきた。この情報をもたらした息子の頭を満足そうな表情で撫でた。
マレクが屋敷に帰り、食事をしながらこの一ヶ月を振り返っているときだった。一番驚いたことは何かと聞かれたマレクは以前から気になっていた湖の色の作り方が分かったことと答えた。ジェレミーの発案で樽の中に隠れ、その作り方を盗み見ているとガリューは手首のあたりをナイフで傷つけ、その血を瓶の中に流し込んだ。そのときまでマレクは人の血というのはみんな同じく赤いものだと思っていた。ガリューの鮮やかな青色の血を見て初めはショックでそのことをジェレミーにさえ話せずにいたが、世の中にはそういう人もいるのだろうと思い直した。ジェレミーやカタリンがなんの不自然さもなく接していたので、父に言われるまでガリューが普通の人間ではないことなど考えもしなかった。
こんなことになるのならあのとき、あの森の中でジェレミーに調合室で見たものを伝えておくべきだったと後悔していた。
男爵とマレクを乗せた馬が森を抜け、ほぼ同時に他の道を通ってきた部隊も姿を現した。見慣れた館と湖を百人近い武装兵が綺麗な円で取り囲む。館の周辺からは物音一つしないが、中に二人がいるのは確実だろう。小動物一匹見逃さないような包囲をここまで狭めてきたのだから。
「あそこで間違いないな?」
男爵が指差す先をマレクは直視することができなかった。
「父上、もう一度お願いします。なんとか考え直しては頂けないでしょうか。彼らはここで静かに暮らしているだけで町の人や我々になんの迷惑もかけていません。それどころか僕の命の恩人なのです。どうか命だけは助けてもらえませんか?」
「残念だがそれはできない。得体の知れないものが近くに、いや、この世界にいるのを人々は認めない。誰もがお前やカタリンのようではないんだよ」
男爵がもう一度彼の頭を撫でる。「お前のその優しさは普通の人間に向けなさい」
館を円で囲むように整列した兵たちがそれぞれ武器を構える。あとは男爵の号令を待つだけとなった。マレクは館から顔を背ける。もしこのことをベラベラと父に話さなければ、先にジェレミーに言っておけば、そもそもここへ修行で訪れなければ。様々な後悔とともにマレクの脳裏に浮かんだのは楽しかった館での日々だった。最後にもう一度二人に会いたい、謝りたい。その思いで館の方へ振り返った途端、目の前の館が轟音をあげて爆発した。
マレクは目を大きく開けて燃え盛る館を見つめた。最初の爆発で館の半分は崩れ落ち、残りは空高く昇る煙を吐き出し続けている。マレクが暮らしていた部屋の窓から炎が吹き出し、それを見た彼は反射的に馬から降りて駆け出そうとした。それを近くにいた兵士が止める。マレクが二人の名前を叫んだが、それも断続的に起こる爆音によってかき消されてしまった。
「もう逃げ場がないと思って自ら火をつけたのでしょうか?」
「そうだろうな。あれでは助からんだろう。近くに潜んでないか確認したあと引き上げるとしよう」
手間が省けたな。そう言って男爵は館に背を向けた。館を包んだ炎の勢いは凄まじく、一団が周辺の捜索を終えるまで消えることはなかった。
館の爆発から三年が経った。燃え尽きた館からは二人の死体もガリューが化け物である証拠も出てこなかったが、元々人望のあった男爵の行動を疑うものはおらず、彼は化け物退治の英雄としてさらにその地位を高めていくこととなった。
留学先での生活に慣れてきたマレクは休日のたびに大小の美術館や、画廊、個展を回ることを日課にしていた。二人を殺してしまったせめてもの罪滅ぼしにと、若い画家や実力はあるのに評価されず埋もれてしまっている画家を支援する活動を始めようとしていた。
中心を運河が流れるこの町は特に駆け出しの画家が多く、マレクが訪れるのもこれが三度目だった。運河から枝分かれした小さな川をいくつもの橋が繋ぐ。アーチ状の橋を渡ってすぐの裏通りに初めて見る画廊を発見した彼は迷わずその扉を開いた。
風景画を中心にコレクションされた絵をゆっくりと見て回る。マレクの若さから冷やかしだと思っているのか、オーナーは挨拶すらしてこなかったが、それも慣れたもので彼は気にも留めていなかった。
奥にあった一枚の風景画の前でマレクの足が止まった。それから彼は時が止まったかのようにじっとその絵を注視し続け、異変に気付いたオーナーが声を掛けるまで息をするのも忘れていた。
「この絵の作者は?」
この国の南方にある有名な洞窟を描いた作品だった。もちろんマレクも訪れたことがある。ある時期のある時間になると光の反射で洞窟中が青色に染まる。それを表現した深い青色には見覚えがあった。
「その作者なら先月、絵を買い取ってくれとふらっとやってきてた二人組だね。うちはそういう飛び込みは基本的にはお断りしてるんだけど、あまりにも良い作品だから何点か買い取ったんだ。他にもあるけど見ていくかい?」
「もちろん!」マレクは前のめりに頷き、その勢いにオーナーは一歩身を引いた。金庫から持ってきた数枚の絵をマレクは全て買い取った。その中の一枚、懐かしい湖畔の前でキャンバスに向かう三人の姿を描いた作品にだけ作品名が記されていた。
『遅れてきた、青春の日々』と。
