楽園へ 第12話
島の西側に位置する四季小学校。この島で唯一の小学校。京吾ら七人はそこの一階の保健室に逃げ込んでいた。
薬品の匂いに、清潔なシーツの匂い。美晴以外の六人にとっては、小学生時代を思い出させる懐かしい匂いだ。しかし誰ひとりとしてそんな感慨に浸っている者はいなかった。皆一様に疲れて苛立った表情を浮かべている。
美晴と凜はベッドに腰かけて肩を寄せあっている。金助はせわしなく貧乏ゆすりをして、銀次はというと二分に一回くらいのペースで扉の前に立って外の音に耳を澄ませている。
京吾は目を閉じてソファに座っていた。両隣の慧と幸生も同じように背もたれに体をあずけて黙りこくっている。
大粒の雨が窓ガラスを叩く音。雷の音。どこかの家の扉が強風によって開いては閉じてを繰り返す音。まるで薄い透明な膜に包まれているかのように、すべての音が遠く聞こえる。膜の内側はひどく寒い。骨の髄まで寒さがしみて震えが止まらない。
京吾はゆっくりと目を開けた。視界が白っぽくかすんで、向こうにいる金助たちの輪郭がぼやけて見える。
左腕はさっきまで熱をもって疼いていたが、今はもうほとんど痛みを感じない。聴覚や視覚だけでなく痛覚まで鈍くなっている。それなのに嗅覚だけは研ぎ澄まされている。
幸生の血の匂い、傷口を爪で抉って血をすすると美味そうだ。慧の汗の匂い、あの白い首筋に歯を突き立てたら慧はどんな顔をするだろう。
京吾はそんなことを考えている自分に気がついて、慌てて首を振った。自分の体がすこしずつ蝕まれていく気がする。左腕の傷に爪を立てる。が、効果は微塵もなかった。むしろ痛みを感じないせいで、自分の体が人ならざるものに近づいているのだという事実を、改めて突きつけられただけだった。
「いつまでここに立てこもってりゃいいんだ」金助が言う。「救助はまだ来ないのか」
「今夜は無理だろうね」と凛。「この台風じゃ救助ヘリも船も出せないから、いちばん早く来たとしても明日の朝かな」
金助が時計に目をやる。九時二分。ここに逃げ込んでから一時間弱が経過している。「今夜さえ乗り切れば希望はあるってことか」
その楽観的な一言で室内の空気がすこしだけ弛緩した。京吾以外の全員が明日に思いをはせる気配がする。明日になれば救助隊が来て、自分たちをこの絶望から救い出してくれる。
美晴がため息をついた。「お腹すきましたね」
「バーバラのでっかいハンバーガーにかぶりつきたい」と凜。「カロリーとか気にせずに思う存分食べまくりたい」
「油でギトギトのハッシュドポテトにチリソースを山ほどかけて……って、おい凛。お前、なんで美晴ちゃんに膝枕してもらってるんだ。俺だってしてもらったことないのに」
凜はいつの間にか美晴の膝の上に頭を置いている。凜は首だけを起こすと、金助に向かって中指を立てた。
美晴も凜にならって中指を立てたあと、「そんなことより」と言って京吾に顔を向けた。「榛名さん、ずいぶん顔色が悪いみたいですけど大丈夫なんですか」
京吾は顔をあげた。平衡感覚がおかしくなったのか視界がぐらぐら揺れる。何か言おうと口を開いたが、自分がいま美晴にどんな質問をされたのかを忘れてしまい、言葉に詰まった。
「大丈夫です。出血のせいですこし意識が朦朧としているだけです」慧が代わり答えた。
「出血って言ったって、もうほとんど止まってるじゃないかよ」廊下をうかがっていた銀次が眼鏡を手の甲で押し上げる。「ほんとに出血なのか?」
慧が目を細めて銀次を見る。何が言いたい、という表情だ。
「ゾンビに噛まれたんじゃないのかよ」
銀次の言葉を聞いたほかの三人が息をのむ気配があった。眉をひそめて京吾の腕に視線をよこす。
「これは宮下にやられた時の傷だ」慧が言う。「みんなだって見てただろう。あいつが投げたショベルで切ったんだ」
「そうよ、こんな時に怖いこと言わないでよ」と凜が言い、美晴が「コバンザメのくせにおかしなこと言ってんじゃないわよ」と銀次を睨む。
しかし銀次はなおも食い下がった。
「そのあとだよ。俺、見たんだ。京吾は幸生をかばってゾンビに噛まれてた。誰も何も言わないから、俺の見間違いかと思って黙ってたけど、やっぱり噛まれてたんだよ。幸生もこいつが噛まれたところを見てたよな、な?」
幸生は何も言わなかった。口を引き結んで気まずそうに目をそらす。しかしその態度は、見たと言っているも同然だった。
全員の視線が京吾に集まる。
「それ本当なの?」凜が訊く。
京吾はどう答えるべきか迷った。嘘をついてまでここに残る理由などあるのだろうか。
指先はもう氷のように冷たくなっている。誰かに噛みつきたい衝動もさっきよりも強くなっている。きっとゾンビになるのも時間の問題なのだ。
ここに残って幸生や慧に噛みつくくらいならば、自分の意思で出ていく方がいいのではないか。
けれど京吾の右腕をつかむ幸生の手が、京吾を見つめる慧の瞳が、「何も言うな」と訴えかけてくる。
「京吾」銀次が詰め寄る。「その包帯をとれよ。傷口を見せろ。噛まれてないんだろ、だったらできるよな?」
「歯形があったら? ゾンビがいるところに放り出すのか?」慧が凛と美晴を指さす。「京吾がいなかったら、あんたら二人とも宮下に殺されていたんだろ。それなのに──」
「慧、もういい」京吾は膝に手をついて立ち上がった。すこしふらつくが歩くのには問題ない。「銀次の言う通り、俺は噛まれた。出ていくよ」
「京吾っ」
「幸生のことを頼む」京吾は慧にそう言ってから、今度は幸生に顔を向けた。「俺が宮下に目をつけられたばっかりに、怪我をさせて悪かったな。俺はもうここまでだ。ちゃんと慧の言うことを聞くんだぞ」
「京吾、京吾」幸生が泣きながら京吾の手をつかんで首を振る。「だめだよ、京吾、外キケンです」
京吾はその手を優しく払いのけた。色んな感情が押し寄せてきて、喉がつっかえるような感覚に襲われる。何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
「行くな、京吾」慧が言う。「あちこちゾンビであふれてるんだ。行く場所なんかないよ。ここにいればいいだろ」
「屋上に行くよ。あそこなら誰もいないだろうし。それに」
京吾は一呼吸おいてから言葉をつづけた。
「俺は人間のまま死にたい」
慧がはっと息をのんだ。真っ赤に充血した瞳が大きく見開かれる。
京吾は慧の頬に手を伸ばした。しかしその手は頬に触れることなく、空中で静止した。すこしの間そうしていたが、やがて諦めた様子で手をおろした。自分のような汚れた存在が触れていいはずがない。
自分の名前を呼ぶ慧に背を向けて部屋を出る。
六人の前で、扉はぴしゃりと閉ざされた。
「京吾っ、京吾!」
「やめろ幸生! 開けんじゃねえ」金助が、扉にすがりつく幸生の体を抱きすくめる。筋肉に自信がある金助だが、幸生の力が思いのほか強くて苦戦している。
「ああもう、だから嫌いなのよ、この馬鹿コバンザメ」美晴が銀次をにらみつけた。「ひとりじゃ何もできないくせに、こんな時だけ粋がってんじゃないわよ」
「だってあいつがゾンビになったら全滅だろ。俺はただみんなのためを思って…」
「あの人は私たちを助けてくれたのよ。公民館の時だって、自分のことは後回しでわたしたちを先に逃がしてくれたのに…。前々から思ってたけど、どうしてみんなして榛名さんのことを除け者にしようとするの? 意味わかんない」
銀次が「それは……」と口ごもり、凜は美晴の肩を抱いて「ちょっと落ち着いて」と彼女をなだめる。
京吾は彼らの声を背中で聞きながら廊下を歩いた。
まるで船に乗っているみたいに視界がぐらぐら揺れる。階段までたいした距離はないのだが、ひどく遠く感じる。
廊下にいた数体のゾンビが京吾の足音に反応して、こちらに顔を向けたが襲ってはこなかった。おそらくゾンビ化が進んでいるせいだろう。同類だとみなされたのだ。
手すりにもたれながら階段をのぼっていく。意識が朦朧としているせいで歩みはとても遅い。
踊り場には大きな窓がある。京吾はそちらを見ないように下を向いて通り過ぎた。もしも目が白濁していたら、肌が死人のように青白かったら、そう思うと怖くて顔をあげることができなかった。
階段を踏みしめるようにしてのぼっていく。
そういえば慧と仲良くなったのは、この階段で起こったとある出来事がきっかけだった。そう思った途端、京吾の胸の中にさまざまな記憶がよみがえってきた。
はじめて慧と話した時のこと。薫を紹介された時のこと。慧と幸生と薫の四人で祭りに行った時のこと。
一段一段、階段をのぼるたびに、心の奥底で眠っていた思い出が鮮やかによみがえった。なんでもない、ささやかな日常の光景が目の前に広がっている。手を伸ばせば触れられそうなほど近くに、慧の笑った顔がある。
気がつくと涙があふれていた。
左腕に巻かれた服の切れ端を握りしめる。傷を見せろと迫られたが、どうしてもほどくことができなかった。ほどきたくなかったのだ。慧が巻いてくれたものだから。
京吾は振り返って階段の下に目をやった。誰もいない踊り場を、稲光が青白く照らし出す。
ついさっき別れたばかりなのに、また慧と幸生に会いたいと思ってしまう。いますぐこの階段を駆け降りたい衝動に駆られる。ふたりならきっと京吾のことを受け入れてくれるに違いない。彼らは優しいから。
しかしだからこそ戻ってはいけないのだ。あの二人には絶対に生き延びてほしい。
京吾は衝動を振り払うように、強く目を瞑った。
ゆっくりと目を開ける。上だけを見据えて歩きはじめる。屋上へ出る扉はもうすぐそこにある。
階段を上りきった京吾はドアノブに手をかけた。体が震えている。死への恐怖が京吾の体をすくませる。自分の体はもう半分死んでいるようなものだ。それなのに、まだ生きたいと願う自分に腹が立つ。指先が白くなるほどドアノブを強く握りしめる。
京吾は長い間そうしていた。が、やがて意を決したように顔をあげると扉を押し開いた。
*
誰も何も言わない。重苦しい沈黙が部屋の中を支配している。聞こえてくるのは雨の音と幸生のすすり泣く声だけだ。
金助は頭をかきむしった。何か言おうと思っても言葉が出てこない。沈黙を破ろうとするのだが、つい口を閉じて耳をそばだててしまう。廊下の向こうから京吾の悲鳴が聞こえてこないか、戻ってくる京吾の足音が聞こえてこないか。あいつが出ていってからもう十分も経つのだから、そんな音が聞こえてくるはずもないのに。
貧乏ゆすりが止まらない。もしかしたら自分は間違いを犯してしまったのでは?
だって京吾は最後まで傷口を見せなかった。本当は噛まれていなかったのではないか。
たとえ周囲からいわれのない罪で責められたとしても、反論することなく黙って受け入れる。京吾は昔からそんなやつだった。だから今回も…。
窓に目をやる。淡いピンク色のカーテンの隙間から、強風に吹かれたクスノキの枝が激しく揺れているのが見える。京吾はもう屋上についただろうか。京吾の体が地面に叩きつけられる音は、ここまで聞こえてくるのだろうか。
そんなことを思っていた時、銀次が「あっ」と小さく声をあげた。
扉に耳をくっつけている銀次は、五人に向かって人差し指を立てた。「なにか聞こえる。誰かいる」
「京吾か?」
金助は立ちあがり、引き戸に耳を近づけた。扉の上部には窓がついているが、すりガラスなので何も見えない。廊下に面した窓もすりガラスであるため、外の様子をうかがうには音を聞く以外に方法はないのだ。
「違うと思う」と銀次。「口笛? を吹いてる」
銀次の言う通り、廊下の向こうから口笛の音が聞こえてくる。だが、そんなはずはない。廊下にはゾンビがいるから、口笛なんか吹いたら、やつらの格好の餌食となる。
けれどたしかに聞こえてくる。幻聴ではない。音はさっきより近い。
口笛の音、グッデーグッバイだろうか。
扉を開ける音、たぶん隣にある職員室の扉だ。
舌打ちの音。いくつもの足音が近づいてくる。足音はどれもおぼつかない。ゾンビのようだ。ハーメルンの笛吹き男のように、ゾンビを引き連れてやって来る何者かの姿を想像して、ぞっとした。
扉のすりガラスに影が映る。たぶん男。そのうしろで蠢く影がいくつも見える。やはりゾンビがいるのだろう。だとするとこの男はどうして襲われないんだ。
扉がガタンと音を立てて揺れた。男が扉を開けようとしたのだ。しかし鍵がかかっているので開かない。
男の舌打ち。
金助と銀次が後ずさって扉から離れたのとほぼ同時に、窓ガラスが割れた。
窓の向こうに宮下が立っていた。左頬の肉が裂けている。
「お前、死んだはずじゃ…」金助が目を見開いた。あの時たしかに、ゾンビに喰われる宮下の姿を見た。
宮下が窓から身を乗り出して、部屋の中を見回す。生きている人間の匂いを嗅ぎつけたのか、そのうしろから五体のゾンビが奇声をあげて、金助たちに向かって手を伸ばす。
「京吾いる?」宮下は、部屋に入ろうとするゾンビを鬱陶しそうに払い除けながら訊いた。「もしかして死んだ?」
「あんた、何で生きてんの…」凜が言う。「ていうか何で襲われないの」
宮下が目を細めて凜を見た。蛇のような冷たい視線に射すくめられた凜は思わず口を閉じる。以前からこの男が身にまとっていた暴力的な威圧感が、より一層強くなっている。
宮下は近くにいた女のゾンビの後頭部を右手でつかんで金助の方に突きつけた。
窓から身を乗り出す格好になった女は、歯をむき出しにしながら金助に襲いかかろうと体をばたつかせる。だが宮下に頭をつかまれているので部屋に入ってくることはできない。
「京吾は?」宮下が訊く。
これは脅しだ。答えないとゾンビを中に入れると彼は言っているのだ。
「おっ、屋上!」銀次が叫んだ。「屋上、屋上に行った。死ぬって言って…」
宮下が首を傾げ、続けるように目顔で示した。
「ここに来る前にゾンビに噛まれたんだ。それで、ゾンビになる前に死ぬって言って屋上に行った」
「いつ?」
「えっと…、十分くらい前」
宮下はちらりと時計を見た。それからひとりひとりの顔を見回し、「あとで殺しに来るから、ここにいろよ」と言うと、女の顔を窓のレールに叩きつけた。ぐしゃっと音を立てて女の頭が腐ったトマトみたいに潰れた。
飛び散った肉片が金助の足元に落ちる。
その場にいた全員が目を見開いて宮下を見た。そして察した。目の前にいるこの男は人間ではないと。人の形をしているだけの化け物であると。
宮下は手についた肉片を、動かなくなった女の背中で拭くと、階段の方に歩いていった。
宮下が部屋の前を去ると、代わりにゾンビが窓に群がった。お互いの体を押しのけ合いながら部屋に入ってこようと暴れる。八本の腕が金助たちに向かって伸ばされる。
金助は慌ててソファを持ちあげた。侵入してこようとするゾンビをソファで押し戻す。「お前らも手伝え!」
慧と銀次が薬棚を持ちあげて窓の前に置く。美晴と凜は机を薬棚の前に置き、金助はその机の上にソファを乗せた。
薬棚がガタガタと激しく揺れる。こんな即席のバリケードでは三分も持たないだろう。
金助は薬棚が倒れてこないようにソファを背中でおさえた。四体のゾンビが力任せに体当たりしてくる。その衝撃はすさまじく、体が前につんのめりそうになる。
「お前らさっさと窓から逃げろ!」金助が叫ぶ。「俺は最後でいい。軽トラまで走れ」
美晴と凜と銀次がうなずいて、校舎の外に面した窓に駆け寄る。
慧も幸生の手を引いて外に出ようとした。が、幸生が動かない。その場に立ちすくんで慧の手を振り払う。
「どうした、幸生?」
「京吾、まだ。ここで待ちます」
「何言ってんだ馬鹿。この状況で待てるわけないだろ」
金助が叫ぶが、幸生はかたくなに首を振る。「待ちます。ここにいます」
「慧、早くそいつをなんとかしろ」
慧は、目に涙を浮かべて唇を引き結ぶ幸生を見つめたあと、深いため息をついた。「わかったよ幸生。僕が京吾を連れてくる」
金助が口を挟む。「そんなの無理に決まってんだろうが。お前まで何考えてんだ」
「外にある非常階段を使う。そこから四階まであがって屋上に行く」
「宮下は? あんな化け物とどうやって闘うんだ」
「なんとかするよ」慧は持っていた手斧を金助に押しつけると、今度は幸生の前に小指を差し出した。「あとから必ず追いつくから、今は金助たちと逃げてくれ。ほら、約束の指切り」
幸生が慧の小指に自分の小指を絡める。
ふたりが窓から脱出する。
強風にあおられたカーテンが大きく膨らんで翻った。非常階段に向かって駆けていく慧の姿が見えた。
「ちくしょう…」金助はつぶやく。「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう」
自分がとても情けない人間に思えてきた。島を救うなんて言って牧場から意気揚々とやって来たくせに、このザマだ。平岡は死んだ。京吾を部屋から追い出した。
そして今。金助は手斧を握りしめた。なぜあいつが武器を持って行かなかったのか。これを手渡してきた時の、あいつの目。覚悟を決めた人間の目だった。
自分は今、慧を見殺しにしようとしている。
「金助なにやってんの、早く来て」凜が叫ぶ。
「わかってる!」
金助は駆け出した。床を蹴って窓枠を飛び越える。コンクリートの地面に着地すると、水たまりの水が跳ねて足の裏がじんと痺れた。
いい奴ばかりが死んでいく。愛する者のために立ちあがった奴から死んでいく。なのに、自分は生きている。卑怯者だからか、臆病者だからか。
「慧のやつ、どうして逆方向に走って行ったんだ」銀次が言う。
「屋上に行った。京吾を助けに」金助は言った。声が震えている。「殺されるに決まってるのに…」
部屋の中から薬棚が激しく揺れる音が聞こえてくる。じきに倒れる。
凜が金助の手をぎゅっと握った。苛立っているような、すがるような目で彼を見つめる。「お願いだから変なこと考えないで。逃げるよ」
「まずいよ金ちゃん、早く行かないと」
薬棚が倒れる音。
金助は半ば凜に引きずられる形で走り出した。
激しい雨と風のせいで目を開けているのがつらい。靴が水を吸って重くなる。
うしろを振り返る。ゾンビが一体、窓から転がり出てくるのが見えた。
金助は立ち止まった。
つられてほかの四人も立ち止まる。
「何やってんだよ金ちゃん」
「悪いけど俺、このまま逃げるなんて無理だ。あいつらを助けに行かねえと」
「あんたどんだけ馬鹿なの?」凜が叫ぶ。「見たでしょ、あいつがゾンビの頭をかち割るところ。助けに行くなんて無理よ。自分から殺されに行くことないわ」
「そうだよ金ちゃん、早く逃げようよ。金ちゃんこの前、京吾のこと嫌いだって言ってただろ。そんなやつのために戻るなんてどうかしてるよ」
金助は、走ってくるゾンビの首めがけて手斧を振った。刃先が首の肉に沈みこむ感触。そのままゾンビの体を地面に叩きつけた。仰向けに倒れて動かなくなったゾンビの首から手斧を引き抜く。
「うるせえ! それでも通さなきゃなんねえ筋ってもんがあるんだよ。俺もお前も間違ってた。京吾を追い出すべきじゃなかった。だからあいつらのところに謝りに行く」
「どうしてよ。放っておけばいいじゃない」凜が言う。
「そうはいかねえよ。だってこの状況だと…」金助は手斧を握りしめた。「この状況だと、どう考えても慧の方がヒーローっぽいじゃねえか」
美晴が黒目をぐるりと回して天を仰いだ。
「バッカじゃねえの。俺もう金ちゃんなんて知らないから、行くなら勝手に行けよ。俺は一人で逃げる」
銀次が四人に背を向けて走りだす。
金助は非常階段に向かって走りだした。保健室の窓から二体、三体とゾンビが転がり出てくる。
「ちょ、ちょっと…、」凜はおろおろと別方向に走って行く二人の背中を見比べる。こんな時に仲間割れなんて。
「先輩、金助が心配なんでしょう。行ってください」美晴が金助の背中を指さす。「あの馬鹿コバンザメはわたしに任せてください。頬をひっぱたいておきますから」
「でも…」
「いいから早く」美晴が凜の背中を押した。
「わかった。ありがとう美晴」凜はうなずいて幸生の手を握った。
三人は走り始める。
凜はすこし走ったあと、思い出したように足を止めて振り返った。遠ざかる背中に向かって大声で呼びかけた。「美晴。あとで…、ぜんぶ終わったら、バーバラで一服しよう」
雨にけぶる景色の向こうで、美晴が右手を挙げるのが見えた。
