楽園へ 第16話

 昔から運動が嫌いだった。
 ドッジボールではいつも真っ先に当てられた。持久走はいつもビリ。プールは泳ぐことすらできない。団体競技では、どっちのチームが銀次を取るかで熾烈しれつなジャンケン争いが繰りひろげられた。もちろん負けた方が銀次をチームに入れるのだ。
 だから運動なんて大嫌いだ。
 でも今はすごく後悔している。ちょっと馬鹿にされたくらいでヘソを曲げずに、体育の授業に真面目に参加していればよかった。週に一回くらいでいいからランニングでもしていればよかった。
 銀次は歯を食いしばった。ずっと走っているせいで息が完全にあがっている。喉からヒューヒューと変な音が鳴っている。足はもう棒のようだ。
 だけど立ち止まるわけにはいかない。うしろからたくさんのゾンビの足音が迫ってくるから、それもある。しかし今、銀次の背中を押しているのは美晴の最後の言葉だった。
 走れ、コバンザメ。
 だから銀次は走る。美晴から託されたこの拳銃を届けるために。一人じゃ何もできない臆病者ではないことを証明するために。
 通りの向こうにいた四体のゾンビが銀次の足音に気がついて、こちらを振り向く。うしろからはゾンビの大群が迫っている。ここは家を囲うコンクリート塀が立ち並ぶ一本道で、ほかに逃げ場はない。
 銀次は電柱に飛びついた。横についている足場ボルトをのぼっていく。雨のせいで手も足も滑る。
 一体のゾンビが銀次の足をつかんできた。
 銀次は悲鳴をあげて足を振った。何本もの腕が銀次の足をつかんで引きずり降ろそうとする。
 その時、三メートルほど向こうの柱に設置されたスピーカーから、美晴の声が鳴り響いた。金助たちに呼びかけている。
 ゾンビが美晴の声に反応してそちらに顔を向けた。
 銀次はその隙にゾンビの手を振りほどいた。ふたたびのぼりはじめる。下ではゾンビたちが電柱に群がって手を伸ばしている。
 ある程度のぼったところで体の向きを変え、近くの民家のコンクリート塀の上に左足を置いた。次に右足を置く。手は足場ボルトをつかんだままだ。不安定な姿勢で腕がブルブル震える。
 ゾンビたちが伸ばした手が銀次のつま先に触れている。落ちたら終わりだという恐怖が銀次の体をすくませる。
 銀次は二、三度、深呼吸をした。そして落ち着いて体勢を整えると、右手を足場ボルトから離して塀の上に立った。左手を離した瞬間、強い風が吹いた。
 驚いた銀次は体勢を崩した。両手をばたつかせて体を前後に揺らしたかと思うと、塀の下に落下した。
 背中に痛みが走る。顔をあげると、塀の向こうから伸びるたくさんの手が見えた。銀次の体は運よく民家の裏庭に落下したのだ。
 すぐに立ち上がり民家の正面にまわる。軒先に置いてあった自転車を拝借すると、門扉を開けて飛び出した。
 疲労で脚が悲鳴をあげているが走るよりはずっとマシだ。バーバラまではあと七分ほど。ここを道なりに行き、坂道を下れば着く。
 スピードを上げる。眼鏡はくもって前がよく見えないから、額の上に追いやった。
 その時、地響きのような轟音が鳴り響いた。地面がかすかに揺れている。
 思わず自転車を止めて振り返る。夜空を真っ赤に照らす炎と、黒い煙があがっているのが見えた。
 「美晴ちゃん…?」
 あっちはたしか美晴が走って行った方向だ。ざわざわと胸の中に不安が渦巻いてくる。どうしてもさっきの美晴の意味深な放送と、この爆発とをつなげて考えてしまう。
 様子を見に行こうか。
 銀次は苦しそうな顔で首を振った。後ろを向きかけているハンドルを前に戻す。ペダルに足を置いてふたたび漕ぎ始める。
 振り返るな、今は自分がなすべきことやれ。
 通りを駆け抜ける。うしろからはゾンビの足音。だけど走っていた時よりも心理的な余裕がある。こっちの方がずっと速い。
 道の向こうで、何か蠢くものが見えた。目を凝らす。銀次は息をのんだ。
 道の先にゾンビがあふれている。十体はいるだろうか。どう考えても彼らの間をすり抜けていくのは不可能だ。かといって戻るわけにもいかない。
 「やってやるよ…」銀次はつぶやく。
 ハンドルを思いっきり左に切った。
 自転車は向きを変えて通りを横切っていく。目の前には長い石段。その先には堤防と、黒くうねる海が見える。
 自転車はスピードそのままに石段を駆け下りていく。何度も尻がサドルにぶつかり、何度も上下の歯がぶつかってガチガチ鳴った。
 転びそうになりながらもハンドルを握りしめる。あともうすこし。
 自転車が最後の一段を駆け下りる。
 やった、と思ったのもつかの間、自転車が何かに激突した。通りの真ん中に停まっていた車のボンネットに、横からぶつかったのだ。車体が黒だったせいで見えなかった。
 銀次の体は自転車から投げ出されて宙を舞った。堤防を飛び越える。飛びながら、階段を団子になって転がり落ちてくるゾンビの姿が見えた。
 銀次は背中から砂浜に落下した。呻き声をあげる。さっき塀から落ちた時とは比べ物にならないほどの衝撃だ。起き上がろうとするが体に力が入らない。
 砂浜にいた一体のゾンビが銀次に向かって駆けよってきた。
 銀次はぎゅっと目をつむった。
 死ぬ。こんなところで、約束も果たせないまま。
 その時、何かが空を切る音が聞こえた。
 目を開けるとゾンビが砂浜に倒れていた。その脇に立つ、手斧を持った金髪の男。
 「金ちゃん!」
 「立て、銀次。逃げるぞ」金助が銀次の腕を取って立ちあがらせる。
 銀次はなかば引きずられるようにして走りだした。
 「金ちゃん、どうしてここに?」
 「あの放送を聞いてバーバラに向かって軽トラを走らせてたんだよ。そしたらお前が宙を飛んでた」
 よく見ると金助の軽トラは、銀次が衝突した車のすこしうしろの方に停まっていた。
 金助はしばらく黙りこんだあと、意を決したように口を開いた。「美晴ちゃんは?」
 銀次はどう答えるべきか迷った。
 しかし金助はその逡巡ですべてを察したようだった。「そうか」とうなずいた。
 堤防の階段を駆けあがる金助の背中に向かって、銀次は言った。「金ちゃん、俺、美晴ちゃんから預かったものがあるんだ」

 *

 宮下は激しく咳き込んだ。全身の肌だけでなく内臓までもが焼けるように痛む。
 「あのクソアマ」
 呻くようにつぶやく。喉も焼けたのか、かすれた声しか出なかった。
 手に持っていたゾンビの体を投げすてる。
 美晴が火をつけた瞬間、宮下はとっさに近くにいたゾンビを盾代わりにしながら、うしろに飛び退しさったのだ。
 爆発をもろに受けたゾンビの体は、炭のように真っ黒に焦げて煙をあげている。もはや男か女かも判別がつかない。黒い皮膚はところどころひび割れ、そこからピンク色の肉がのぞいている。
 こいつのおかげで爆発に直撃せずに済んだ。だがそれでも、完全に防ぎきることはできなかった。宮下の肌は真っ赤に焼けただれ、右腕は肉がえぐれて白い骨が露出している箇所もある。
 自分の顔に手をあてると、ぐちゃりと音がして、掌が血と膿で汚れた。
 舌打ちをする。
 黒焦げのゾンビの顔を踏みつける。何度も何度も。ゾンビの頭蓋骨が割れると、中から熱い湯気があふれ出した。それが不快でよけいに腹が立った。
宮下はコンクリート塀の上に飛びあがり、そこから家の屋根に飛び乗った。周囲を見回す。あの保健室にいた奴らの姿を探す。あいつらには死ぬよりも苦しい思いを味わわせてやる。
 屋根から屋根に飛び移りながら奴らの姿を探す。今、宮下を突き動かしているのは堪えがたいほど怒りだ。
 青白い稲光が宮下の横顔を照らす。憤怒によって支配されたその横顔は、もはや人間とはかけ離れたものだった。

 *

 暗い水の底から浮き上がるように、慧は目を覚ました。意識はまだ夢とうつつの境にある。見覚えのない暗いミント色の天井。すすり泣きながら話し合う男女の声。油っぽい匂い。
 ここはどこだ。
 そう思った時、慧の脳裏に京吾の顔がよぎった。地面に叩きつけられる直前に見た京吾の微笑み。
 慧は勢いよく起きあがった。
 周囲を見回す。赤いソファに白と黒のチェック柄の床、壁に並んだいろんな種類のモデルガン、見慣れたバーバラの店内。その床に寝かされている京吾の姿が目に入った。その脇には幸生が座っている。
 幸生は京吾の額の上にかざした掌を、円を描くようにくるくると回している。そういえば六年前、京吾があの崖から飛び降りて入院していた時も、幸生はこうして京吾の額に手をかざしていた。
 あとで京吾にそのことを言うと、それはおまじないだと教えてくれた。小さい頃、京吾が泣いていると幸生が手をかざして元気になるおまじないをかけてくれたらしい。兄貴にとっては俺はいつまで経っても小さな弟のままなのだと京吾は笑っていた。
 慧は京吾のもとに駆けより、首に指をあてる。かすかにだが脈があった。
 生きてる。
 慧は深いため息をついた。全身の力が抜けたような気がした。
 幸生が心配そうに顔をのぞきこんできたので、慧は「大丈夫、京吾は生きてる」と言って微笑みかけた。
 けれどそのあとですこしだけ不安になった。なぜ京吾は生きているのだろう。あの時たしかに京吾はゾンビに噛まれていたはずだ。それなのにゾンビ化の兆候が一切ない。
 慧はそこまで考えて頭を振った。
 京吾の顔を見ながらもう一度、「生きてる」とつぶやいてみる。今度は自分自身に言い聞かせるように。そう、どんな形であれ生きていさえいてくれればいいのだ。
 「慧、起きたのか」
 名前を呼ばれて振り返ると、うしろに金助と凜と銀次が立っていた。三人とも泣きはらした目をしている。美晴の姿がない。
 「僕はどうしてここに?」
 「屋上から落ちてきたお前らを、俺と凜と幸生で運んできた」
 金助が鼻をすすりながら、ここに来るまでの経緯を語った。
 慧が宮下を追って屋上に向かったあと、金助たちが仲たがいしたこと。屋上から落ちてきた二人を軽トラに乗せてここまで運んできたこと。美晴がゾンビに噛まれたこと。銀次がバーバラに拳銃を届けに来たこと。
 「十五分くらい前にものすごい爆発音が聞こえたんだ」銀次が言う。「もしかしたら美晴ちゃんが、あいつをやっつけたのかも」
 「だといいんだが」と金助。「宮下は屋上から飛び降りても死ななかった。それにお前らも見ただろ、あの化け物みたいな強さ。あんな奴がそう簡単にくたばるとは思えねえ」
 「もし生きていたら?」
 慧の質問に答えたのは凜だった。
 「わたしたちを殺しに来るだろうね。だから今、みんなでどうやって迎え撃つか話し合ってた」彼女の目は据わっていた。美晴が殺されたことで覚悟が決まったのかもしれない。
 「ほんとに来んのかな」と銀次。
 「来ないなら来ないでいいのよ。最悪なのは来ないと思っていたのに来た時。なんの準備もなしにあいつと闘ったら、わたしたちは間違いなく全滅する」
 「計画はあるのか?」
 「うまくいくかどうか、わからないけど。宮下をこの店の前におびき寄せて、殺すつもり」
 凜はそう前置きしてから計画を慧に話して聞かせた。
 聞き終えた慧は考えこんだ。果たしてそんなにうまくいくだろうか。「その計画だと、金助が危険すぎないか? もし途中であいつに捕まったら殺されるかもしれないだろ」
 「ヒーローってのはな危険な役を自ら買って出るからヒーローなんだ。お前らモブはしっかり俺を引き立たせてくれればいい」
 拳銃を握る金助の手は震えている。虚勢を張っているのは明らかだった。
 「金助。ひとつだけ頼みがあるんだ」
 慧はそう言うと金助に耳打ちした。
 金助の顔がくもった。「お前、正気か?」
 「信じてくれ、絶対に大丈夫だから」
 金助は慧の顔を見て、それから京吾と幸生をしばらく見つめたあと、ため息をついた。「わかったよ。お前がそこまで言うんなら、俺も信じてみるよ」
 「金ちゃん、なんの話してんの?」
 「男同士の内緒話だ」金助は首を振ってはぐらかしたあと、ほかの四人を急かすように手を叩いた。「時間がない。さっさと準備するぞ」
 そこからの四人の行動は迅速だった。
 バーバラの店主が住居として使っていた二階の部屋に京吾と幸生を避難させ、次に、窓際に三つ並んだテーブル席のうち、真ん中の席のカーテンを外して窓を割った。
 計画通り、それぞれの配置につく。
 凜と慧は、窓を割ったテーブル席のソファで向かい合って待機する。ふたりは、さっき外したカーテンの四隅をそれぞれ手に握っている。銀次は隣の家の前の道路に停めた軽トラの運転席に、金助は店の入り口に立って、いつでも飛び出せるように待機している。
 全員が緊張した面持ちで窓の外を見つめる。雷雨と風と波の音がうるさく響いているのに、お互いの呼吸が聞こえてきそうなほど、全神経を集中させている。
 その時、銀次の視界の端で何かが動いた。顔をあげると、店の庇の上に立つ黒い人影が見えた。
 閃く稲光が男の姿を照らし出す。
 真っ赤に焼けただれた肌、左の頬の肉がそげてむき出しになった歯、おぞましい光を放つ二つの目。間違いなく宮下だ。しかし人間だった頃の面影はどこにも存在していない。
 あれは鬼だ、と銀次は思った。地獄絵図に載っている鬼にそっくりだ。
 宮下が道に降り立ち、こちらに歩いてくる。真っ赤に充血した目は銀次をまっすぐ見すえている。
 銀次ははっと我に返った。アクセルを思いっきり踏み込む。軽トラはものすごい勢いで宮下に突っ込んでいく。
 ガクン、と車体に衝撃が走る。宮下は右手だけで軽トラを受け止めていた。
 空回りしたタイヤが唸り声をあげる。後輪がわずかに浮いているのがわかる。轢き殺すつもりで突っ込んだのだが、あっさりと止められてしまった。が、予想通りだ。
 金助は店から飛び出した。宮下の三メートルほどうしろに立ち、拳銃の撃鉄を起こす。カチリ、という音。
 拳銃から弾丸が発射されたのと宮下が振り向いたのはほぼ同時だった。
 風を切って飛んでいった弾丸は、フロントガラスを貫通して助手席のシートに風穴を開けた。宮下にはかすってすらいない。
 「クソッ」
 金助は悪態をついてふたたび拳銃を構えなおす。
 宮下が金助に向かって駆けよってきた。人間離れした身体能力のせいで、宮下が一歩、二歩地面を蹴っただけで、ふたりの距離は一瞬で縮まった。彼の右手は今にも金助にとどきそうだ。
 金助はすぐさま踵を返して走り出した。すぐうしろから宮下の気配。振り返る余裕はない。まっすぐ前だけを──さっき割ったバーバラの窓だけを見すえて走る。
 「凛! 慧!」
 金助は二人の名前を呼びながら、地面を蹴って窓から店内に飛び込んだ。テーブルの上で前転して床に着地すると、すぐさま左に飛びのいた。
 すこし遅れて宮下が窓から中に飛び込んでくる。その瞬間、テーブルの両脇にいた慧と凜が、窓全体を覆うようにカーテンを広げた。
 カーテンに体をすっぽりと包まれた宮下は、バランスを崩して机から転げ落ちる。体はまだカーテンに包まれたままだ。
 凜は火のついた状態のジッポライターを宮下に向かって投げた。
 カーテンが勢いよく燃えあがる。あらかじめウィスキーをたっぷり沁み込ませていたからだ。青い炎はあっという間に宮下の体を飲みこんだ。
 宮下が悲鳴をあげながらカーテンを床に投げ捨てる。
 金助は彼の首めがけて手斧を振るった。
 宮下は金助の右手首をつかんでそれを受け止める。彼が手に力をこめると、金助の手首からボキッという嫌な音が響いた。
 金助の悲鳴。手斧が床に落ちる。
 宮下は手斧を拾いあげると、金助を斬りつけた。手斧が金助の左腕に食いこむ。
 「金助!」
 慧は宮下につかみかかろうとしたが、左頬を殴られた。慧はテーブルの上に仰向けに倒れこんだ。起きあがろうとしたところで宮下に顔面を蹴られ、慧の体はうしろに吹っ飛んで窓から外に転がり落ちた。
 慧は窓枠に手をかけて立ちあがる。しかし今度はみぞおちを蹴られて道路の真ん中まで転がっていった。慧はその場で嘔吐した。頭がくらくらして激しく咳き込む。吐瀉物には血が混じっている。
 「お前、生きてたのか」
 宮下の声が頭上から降ってくる。
 慧は顔をあげた瞬間、宮下に首をつかまれた。腹の上に宮下が馬乗りになっている。彼の指が首に食いこむ。慧の口から呻き声が漏れ、徐々に視界がぼやけていく。
 宮下はその反応を愉しむかのようにゆっくりと力を込めていく。
 薄れゆく意識の中で、慧は窓ガラスが割れる音を聞いた。


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