楽園へ 第11話
「原因不明の伝染病」瀧川がちゃぶ台の上に置かれた大きな透明の瓶を爪でコツコツと叩く。もともとは梅酒が入っていた瓶だが、いまは別のモノが入っている。「いいんですか、そんなめちゃくちゃな嘘ついて。原因、こいつでしょ?」
「巨大な寄生生物が原因です、なんて荒唐無稽なこと言えるわけないだろ。未知の伝染病の方がまだ信憑性がある」
それはそうですけど、と瀧川が唇を尖らせる。
放送室をあとにした田崎と瀧川は、そこからすこし歩いたところにある駄菓子屋に逃げ込んでいた。他人の家なのですこし申し訳ないが、もしもの時のためにふたりとも靴を履いたままでいる。
店の中にも、住居として使われている二階にも人の姿がないところを見ると、ここの住人は死んだか、あるいは別の場所に逃げ込むかしたのだろう。
今ふたりがいるのは居間として使われていた場所だ。障子を隔てた向こう側には駄菓子売り場がある。
田崎は障子戸の隙間から外の様子をうかがった。
懐かしい駄菓子が並ぶ棚の奥に出入口がある。出入口の引き戸は閉まっているがガラス張りなので、外の通りの様子が確認できる。今のところゾンビの姿はない。
京吾と慧は無事に避難できただろうか。
救助の要請はすでに済ませてある。たぶん今は、警察を派遣すべきか自衛隊を派遣すべきかで揉めている頃だろう。どこが救助に来るかはわからないが、とにかくそれまでは、彼らには安全なところに避難していてほしい。
うしろからカメラのシャッター音が聞こえて、田崎は振り返った。
瀧川が瓶に入っている生物とツーショットを撮っていた。
「記念写真ですよ、記念写真」田崎の視線に気づいた瀧川が言う。「俺が死んだらこの写真を遺影に使ってください」
「お前なあ…」
田崎は瓶に目をやった。瓶の中では子供の掌くらいの大きさの白い生物が蠢いている。柔らかそうな扁平な体からは細長い触手が無数に伸びている。スキューバダイビングをした時に見たアカオニミノウミウシを連想させた。
これはゾンビの体から回収してきたものだ。
いまから十五分ほど前。ここに来る途中で、ふたりは苦しそうに体をばたつかせるゾンビを発見した。”苦しそうなゾンビ“というのもおかしな言い方だが、とにかくそのゾンビは道の上にうつ伏せに倒れて体を痙攣させていた。
「えらい苦しそうですね」瀧川が言う。
「えらい苦しそうだな」田崎も言う。
ランニングシャツを着た老人だった。白濁した眼球に灰白色の肌。ゾンビ化した人間の特徴。ランニングシャツが破けて背中がむき出しだ。割れた頭蓋骨からのぞく脳は一部がぐちゃぐちゃに潰れてカニ味噌のようになっていた。
「交通事故ですかね」瀧川が言う。
両足の下腿骨折にくわえ、地面に残っているタイヤのスリップ痕。瀧川の言う通り、車にはねられたらしい。
老人は田崎たちの存在に気づいているかどうかも怪しかった。喉から絞り出したような呻き声を漏らしながら、体を痙攣させるばかりだ。おそらく脳が破壊されているので、体の統制がとれていないのだろう。
ふと田崎の視線が老人の首に注がれた。
うなじが盛り上がっている。瘤かと思ったがそうではない。盛り上がって薄くなった皮膚の下で何かが蠢いている。まるで呼吸をするかのように、ゆっくりと上下に。
「瀧川、刃物持ってないか」
はい、と返事をして瀧川がどこかの民家から鎌を拝借してくる。
田崎は鎌を老人のうなじに突き立てた。皮膚のすぐ下にいる“何か”を傷つけないようにそっと切り開く。
皮膚の下から白いものが現れた。人間の掌のように扁平な形をしており、体から生える無数の触手を脳に向かって伸ばしている。よく見ると、ぱっくり開いた頭蓋骨の隙間から、ミミズのような細長い触手が数本、くねくねと動いている。
田崎は鎌の刃先をその生物の体の下に差しこんで持ちあげた。雑草を根っこごと引っこ抜いた時のような、ずるずるとした感触とともに、生物がうなじから取れた。
「うわ…」瀧川が顔をしかめる。「なんですか、それ」
刃先には得体の知れない生き物がくっついていた。どろりとした黒い血を滴らせながら、体中から無数に伸びる細長い触手を蠢かせている。
「寄生生物、か?」田崎は足元の男に目をやった。
男は完全に死んだようだった。
うなじに寄生し、触手を脳に伸ばすことで人間を操る寄生生物、というところだろうか。
寄生生物の胴体部分には直径二センチほどの穴が空いており、そこだけ触手が生えていない。絨毛のような無数の短い襞に覆われた開口部は、ゆっくりと開閉をくり返し、ポタポタと透明な粘液を吐き出している。
唾液のようだが、もしかすると肉眼では観察できないほどの小さな卵が含まれているのかもしれない。
卵は唾液腺に入り、寄生した人間の唾液中に排出される。ゾンビ化した人間が他の人間を噛むことで、傷口から卵が体内に侵入する。卵は体内で急速に成長して成体となり、うなじに寄生して人間を狂暴化させる。
おおよその感染の経路はこんなところだろうか。といっても田崎には医学的知識はないので、必ずそうだとは言えないが。
寄生生物は田崎のことを認識しているようで、こちらに向かって触手を伸ばしている。
田崎は眼鏡を押し上げてため息をついた。ゾンビ化した人間に未知の寄生生物。殺人犯を追ってこの島に来たはずなのに、いきなりSF映画のような世界に放り出されたのだ。めまいがする。
「あ、死んだんちゃいますか」畳に寝そべっていた瀧川が体を起こした。
瓶の底で、寄生生物が丸まっていた。あちこちに伸ばしていた触手を、すべて体の内側に折りたたんでいる。さっきまで扁平な体だったのに、いまはほとんど球体に近い。
瓶を振ってみるが動く気配はない。
「こいつ、何なんでしょうね」瀧川が言う。「四季島にだけ存在する未知の寄生虫、とか?」
「地球外生命体」
「ええ?」瀧川が半笑いを浮かべる。完全に馬鹿にしている顔だ。
「この島の禁足地の祠には、たしか四百年前──安土桃山時代頃──にこの島に落下した隕石を祀っていた。そして何年か前に、台風によって土砂の中から発見された大量の人骨。あれもたしか安土桃山時代の人骨で、どの骨にも首を切断された形跡があった。このことから考えると」
「それってつまり安土桃山時代にこの島は、隕石に乗って地球にやって来た地球外生命体によって、ゾンビパニックに見舞われた。島民はゾンビの首を切り落として殺すことでなんとか事態を鎮静化した。で、二度とこいつに寄生される人間が出てこないように、ゾンビの死体をまとめて山に埋めて、禁足地にした……、ってことですか?」
「こじつけと言われればそれまでだが」
瀧川が「んん?」と首を傾げる。まだ納得がいっていないようだ。
「でもゾンビは殺しつくしたんでしょ。なんで今日になっていきなり蘇ったんですか」
「もしかしたら池にいたミイラに寄生していたものが蘇ったのかもしれない」
「あれって四百年前のミイラってことですか。たしかに、えらい古そうな服着てましたけど…。でもいくら地球外生命体とはいえ、四百年も生きられますかね」
「クマムシのように乾眠状態をとれるのなら可能だ」
「乾眠状態?」
「いわゆる仮死状態のことだ。自分の体を収縮して、生命活動を一時的に停止させる。この状態にあるクマムシは、百度以上の高温環境やマイナス百度の低温環境にも耐えられる。それに条件さえ整えば、半永久的に生き続ける」
瀧川がぐるりと黒目をまわして天を仰いだ。「そんなめちゃくちゃな」
「クマムシの場合は水に浸せば元の状態に復活するが、こいつの場合はおそらく」
田崎は親指の腹を噛み切って出血させた。瓶の蓋を開けて血を数滴、寄生生物の上に垂らす。
するとさっきまで丸まっていた寄生生物がもぞもぞと触手を動かしはじめた。血の匂いに反応しているのだろう。田崎の親指へ触手を伸ばしてくる。
田崎は瓶の蓋を閉めて言った。「血液で復活する」
「あの池で殺された月野の血液に反応して、四百年前の残りカスが目え覚ましたってことですね」瀧川が頭をかきむしる。「宮下のボケ、ほんま…」
瀧川はしばらくの間、苛立った様子で部屋の中をうろうろと歩き回っていたが、やがてため息をついて座った。腹を立てたところでどうしようもないのだ。
田崎は寄生生物に目を向けた。
寄生生物は何本もの触手を瓶の側面にくっつけて、なんとか外に出ようとしている。
田崎には一つだけわからないことがあった。
あの池で見つけた死蝋化した遺体。不思議なほど穏やかな顔をしていた。まるで自ら望んで死を選んだかのような。表情といい、祈るようなポーズといい、あれは通常のゾンビではありえないことだった。
なぜ寄生されていながら、あんな表情を浮かべることができたのだろう。
*
誰かの足音で目を覚ました。
くっつきそうになる瞼を無理やりこじ開ける。見慣れない白い天井。しかも二日酔いの時のように視界がぐるぐると回っている。記憶をたどる。すこし経ってから、自分はゾンビに襲われたのだと思い出した。
宮下は勢いよく上体を起こした。
周囲を見回す。斜めうしろにゾンビが立っていた。
宮下は慌てて立ちあがって身構える。
が、襲ってこない。口の端からよだれを垂らすその男は、ふらふらと体を左右に揺らすだけで宮下には見向きもしない。気づいていないのだろうか。
宮下はそっと立ち上がった。
男は出入口の扉の前に立っている。準備室から出るにはあの男をなんとかしなければならない。さいわい床にはパイプ椅子や画面が割れたテレビ、CDケースなど使えそうなものがたくさん散乱している。
宮下はパイプ椅子に手を伸ばした。
──カタッ。
パイプ椅子を持ちあげた拍子にCDケースの山が崩れて音を立てた。
男が宮下の方にバッと顔を向ける。しかし襲ってこない。男はすこしの間、鼻をひくひくさせながら周囲の匂いを嗅いでいたが、すぐに興味を失ったようでまた体を左右に揺らし始めた。
どうもおかしい。なぜこいつは襲ってこないのだろう。
宮下は試しに男をパイプ椅子で突き飛ばしてみたが、結果は同じだった。殴ろうが蹴ろうがいっこうに襲ってこない。宮下のことを認識できていないみたいだ。この男だけかと思ったが、他のゾンビたちも宮下に襲いかかってくることはなかった。
宮下は視聴覚室を出て、ゾンビがひしめく廊下を歩きながら考える。自分の身に何が起こったのか。
宮下の両腕にはゾンビに噛みつかれた歯型がいくつもある。肉が食い千切られて筋組織がのぞいている箇所もある。それなのに痛みはほとんどない。まさか自分はゾンビになってしまったのだろうか。だから彼らは宮下を同類とみなして襲ってこないのか。
窓に映る自分の姿を見る。左側の頬の肉が喰いちぎられて、歯の一部が露出してしまっているが、それ以外はとくにおかしなところはない。目も白濁していないし肌の色も正常だ。ゾンビ化の兆候などどこにもないのだ。
自分の身に何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。けれど不思議と気分がいい。羽が生えたみたいに体が軽い。
宮下は三階へ降りる階段の前で立ち止まった。
横倒しになった長机が行く手を阻んでいる。美晴たちが築いたバリケードが壊れたのだろう。六台の長机は階段の下で折り重なり、団子状になっている。長机の下敷きになってもがくゾンビの姿もある。
宮下は窓を開けた。外では激しい雨が降り、雷が鳴っている。風も吹きこんできた。窓枠に足をかけて身を乗り出すと、地上に飛び降りた。
エレベーターを使えばよかったのだが待っているのが面倒だった。だから飛び降りた。
風を切り、宮下の体は落下する。あっという間に両足が地面に着いた。足の裏から衝撃が伝わる。しかしすこしも痛くない。普通の人間ならば四階から飛び降りて無事なはずがないのだが。
周囲にいた数体のゾンビが音に反応して、鼻をひくひくさせながら近寄ってきた。
宮下は女のゾンビの頭を右手でつかんだ。女の顔を公民館の壁に叩きつける。クシャッと卵の殻を割ったような感触がして、女の頭蓋骨が砕けた。掌が女の冷たい脳の中に沈んでいる。生のハンバーグに手を突っ込んだようで気持ちが悪く、思わず手を引っ込めた。
女はゆっくりと地面に倒れたきり、動かなくなった。
宮下は自分の掌を見つめる。
雨が掌についた血を洗い流す。稲光が彼の横顔を青白く照らした。
明らかに自分の体に異常なことが起きている。しかしそれはおそらく宮下にとってプラスの方向に働いている。
宮下は両手で髪をかき上げてから大きく伸びをした。
たくさんのゾンビがさまよう道を、足取りも軽やかに歩きはじめる。京吾を乗せた軽トラが走っていった方向へと。
