楽園へ 第2話

 *十六年前

 幼い京吾は、姉の手をぎゅっと握った。やわらかくて温かい手。いつも京吾を優しく包み込んでくれる手。
 でも今はひどく冷たい。それに。
 京吾はつないだ手に視線を落とした。
 赤い。ぬるりとした感触。ふたりの掌の隙間から滴り落ちた血液が、砂浜に黒い染みをつくっている。
 地面に横たわる若い男の目が京吾を見つめる。男の腹には刺し傷がいくつもある。大きく見開かれた眼球に、一匹の蠅が止まって、手をこすり合わせている。まるで男の死を悼んでいるみたいに。
 その男からすこし離れたところに、もうひとりうつ伏せに倒れている。手前に倒れている男よりもいくらか歳がいっている。背中にはいくつもの刺し傷。潰れたヒキガエルみたいに両足を大きく広げている。
 彼らは教師だった。ランドセルを背負った子供たちやその保護者と話しているところを見たことがある。彼らの、頼りがいのありそうな優しい笑顔を覚えている。
 けれど姉に接するときだけは違った。唇を歪めて、姉の体を上から下まで舐めるように眺めながら、何かしらの言葉を吐いた。まだ五歳だった京吾にはその意味はわからなかったけれど、姉を辱める言葉であることは理解できた。
 京吾は姉を見あげた。
 姉は遠くを見ていた。海のずっとずっと向こう。海と空とが溶け合う水平線の先。その顔はとても穏やかだった。いつもの思いつめた顔ではない。憑き物が落ちたような、すっきりした顔。
 姉が京吾の手をほどいた。
 「おねえちゃん…?」
 姉は手に持っていた包丁を自分の首に押しあてた。男たちを刺した包丁。それが、姉の白い首筋に沈む。
 首から真っ赤な血がほとばしった。姉の体が砂浜にくずれ落ちる。
 京吾は泣きながら姉の名前を呼び続けた。
 けれど姉は一度も京吾のことを見なかった。

 自分の名前を呼ぶ声で宮下は目を覚ました。
 くっつきそうになる瞼を無理やりこじ開ける。古くなって黒ずんだ板張りの天井が目に入る。見慣れない景色に一瞬頭が混乱して、その後で知人の家に泊まっているのだと思い出した。
 もう一週間近くここで寝泊まりしているというのに、いまだに寝起きだと自分がどこにいるのか忘れてしまう。
 宮下は寝転んだまま枕の位置を調整すると、自分の名前を呼んだ男を見上げた。
 前歯がすこし前に出た、臆病そうな顔。小学生の頃から顔も性格もほとんど変わっていない。誰かの陰に隠れながら、常に他人の顔色を──とくにその場でいちばん権力を持っている人間の顔色を──うかがっている。そんな人間だ。
 「昼ごはん買ってきたんだけど、食べる?」山本がテーブルの上の紙袋を指さす。「唐揚げ弁当とエビフライ弁当。どっちがいい?」
 宮下は顔の前で片手を振った。
 山本は少し残念そうに頷き、それから思い出したように「そういえば」と口を開いた。「宮下くんっていつまでうちにいるんだっけ?」
くだらない質問のために起こしてきたと思ったら、本当に訊きたかったのはこっちか。
 「警察が来たのか?」宮下が訊く。
 「いや、そうじゃないよ。ただ近所のおばさんに、最近、夜中でも家の明かりが点いていることがあるけど、何かしているのかって聞かれたから。もちろん適当にごまかして──」
 宮下は話を聞き終える前に立ち上がった。腰を左右にねじって関節をポキポキ鳴らしてから玄関に向かう。
 「この前も警察が来たし、今は出かけない方が…」山本はそこまで言って口を閉じた。むしろ宮下が警察に捕まってくれた方が、邪魔者を厄介払いできて良いと気がついたのだろう。
 いってらっしゃいと呟く声を背中で聞きながら外に出た。
 家々の立ち並ぶ路地裏を歩く。ひび割れて黒ずんだブロック塀や壊れた室外機のそばを通りすぎ、生い茂った雑草が放つ、むっとした熱気に顔をしかめる。
 たいていの逃亡犯は人の目を気にする。警察官はいないか、自分に気がついた人間はいないか、常にビクビクしながら生活を送っている。けれど宮下は、そんな警戒とは無縁だった。いや、むしろ絶対に捕まらないという自信すらあった。
 なぜなら宮下は透明人間だから。
 東京からフェリーで二時間半。自然と噂話と退屈以外、何もない島。この四季島の島民たちには宮下の姿が見えていない。
 彼がそのことに気がついたのは七歳の時だった。
 宮下の父親は暴力的な男だった。酒を飲んでは怒鳴り散らして彼を殴った。気に食わないから、口答えしたから、視界に入ったから、理由は様々だったが、とにかく年端のいかない子供を容赦なく殴りつけた。そのため宮下は、読み書きよりも先に身を守る方法を覚えた。どうすれば父親を怒らせないか、どこを殴られれば痛みがマシになるかを。
 もちろん宮下だって、父親の暴力に耐えかねて島の人に助けを求めたことはある。
 紫色に腫れあがった頬をおさえながら保育園の先生に泣きついたことも、熱したアイロンを押し当てられた足を引きずって、近所の家の戸を叩いたこともある。
 けれど彼らは何もしてくれなかった。困ったように眉間にしわを寄せ、そそくさと宮下の前から去っていった。
 もしも宮下が大人だったら、彼らは厄介ごとに巻き込まれたくないからそうしたのだ、と気づけただろう。しかし幼い宮下は、そうは思わなかった。
 自分が透明人間だから、みんなの視界に入っていないのだと思った。
 それで、宮下は試しに小学校の同級生を殴ってみた。相手は泣いてしまったが、先生に叱られることも親が宮下の家に怒鳴りこんでくることもなかった。教室で全裸になったり、校庭の池に農薬を注いで鯉を全滅させたり、同級生を山の木に縛り付けて放置したりしてみたが、やはり誰も何も言わなかった。
 宮下は確信した。やはりみんなには自分の姿は見えていないのだと。
だから絶対に捕まらない。
 宮下は口笛を吹きながら髪をかき上げる。ひどく蒸し暑い。
 ゴミ箱の蓋に乗った三毛猫が彼に向かって、にゃあと鳴いた。撫でてくれと催促しているようだ。この島の猫は人懐っこい。それに島のいたる所で見られるので、猫目当てにやって来る観光客もいるくらいだ。
 宮下は右手を伸ばし、三毛猫の首根っこを掴むとブロック塀に叩きつけた。
 三毛猫が「ギャッ」と悲鳴を上げる。
 ブロック塀に真っ赤な血が飛び散った。
 鼻がムズムズしてくしゃみが出た。だから猫は嫌いだ。
 宮下は右手を服の裾で拭いて、再び歩きはじめる。足は自然と四季山にある墓地へと向かっていた。

 死んだ人間の魂は海の向こうから来た使者によって楽園へといざなわれる。かつて四季島に住んでいた人たちはそう信じており、その考え方は現代でも四季島の島民に受け継がれている。
 だから四季島の墓地は海を見下ろすことができる崖の上にある。並び立つ墓石はすべて海の西側を向いている。太陽と海が溶け合う水平線の向こうから来る楽園の使者を迎えるように。
 宮下は墓地に足を踏み入れた途端、堪えがたい怒りに襲われた。
頭が沸騰したように熱くなり、逆に手足は冷たくなりブルブルと震える。
またこの感覚だ。
 子供の頃からそうだった。この感覚に支配されると、もう自分ではどうしようもない。気が済むまで周囲の物を破壊し、人を殴りつづけてしまう。体の制御がきかなくなる。
 あの保護司はこれを“特性”だと言った。それはきみの特性だから、意識して抑えられるようになるまで一緒に頑張ろう、と言ってきた。
 何が特性だ。
 宮下は十八歳の時に殺人未遂で逮捕されて、刑務所に入れられた。しかしそれは冤罪なのだ。自分はやっていない。取り調べで何度もそう訴えた。刑務所に入れられたあとも、六年後にようやく出所したあと、あの保護司にも、自分は嵌められたのだと訴えた。
 それなのに保護司は宮下の言葉を信じなかった。こともあろうに、宮下が逮捕されたのはその特性のせいだと言ってきた。
 だから宮下は保護司を殴った。
 何が特性だ。宮下はそう言いながら、保護司の頭にガラス製の花瓶を振り下ろした。何が特性だ、言ってみろよ、何が特性なんだ。何度も何度も訊きながら頭を殴りつづけた。
 何が特性だ、何が特性だ、何が特性だ…。
 静かな波の音に、のどかな鳥の鳴き声。今はそれすらも腹立たしい。宮下は衝動に任せて墓地を荒らした。
 墓前に供えられた鮮やかな色の花を投げ捨て、果物を踏み潰し、ワンカップの酒を墓石に投げつけて割った。それでようやく怒りは収まった。
 墓前のタバコを手に取ったが、ライターがないことに気がついて舌打ちをする。タバコの箱を靴の裏で踏みにじる。
 ふと宮下の目に、大石家之墓と彫られた墓石が飛び込んで来た。
 そうだ、思い出した。自分はこのために、この島に戻って来たのだ。
 大股で墓石に歩み寄る。
 周囲の墓には雑草が生い茂っているが、この墓の周りにはほとんど生えていない。こまめに掃除されているようだ。
 きっとあの男がやっているに違いない。この島で唯一、宮下のことが見える人間であり、無実の宮下を陥れて刑務所に送りこんだ人間。
 榛名京吾。
 あいつのことを考えるだけで、どうしようもなく殺意が湧いてくる。刑務所の中ではあいつを殺すことだけを考えて生きてきた。
 宮下はズボンのジッパーを下すと、墓石に向かって立小便をした。黄色い液体が墓石に当たって周囲に飛び散る。
 立小便を終えた宮下は、今度は墓石に体を寄せて自身の陰茎をしごき始めた。最初は、あのとき犯した少女のことを思い出しながらゆっくりと、そして徐々に激しく。
 まだ十五歳だった少女の汗の匂い、恐怖と苦痛に歪んだ顔、白い太腿の内側を流れる真っ赤な血。京吾が妹のようにかわいがっていた少女。一度しかヤれなかったのが残念だ。レイプされたくらいで自殺するなんて。
 宮下はぶるりと体を震わせて、吐精した。

 *

 京吾は民宿の壁にもたれながら数年前の出来事に思いをはせていた。
 夜の闇を淡く彩るオレンジ色の電球。祭囃子の音。焼きそばの香ばしい匂いに、ベビーカステラの甘い匂い。いつもはがらんとした広場が、この日だけは活気づく。京吾たち四人は笑いあいながら人の流れに乗ってゆっくり歩いていた。
 「まずどこから回る?」
 慧の言葉を聞いた薫が笑った。一卵性の双子である慧と薫は笑った時の顔がそっくりだ。
 「お兄ちゃん、そんなこと聞くまでもないでしょ。毎年、射的から回ってるんだから。ね、幸生くん?」
 薫だけが四人の中で唯一、浴衣を着ていた。白地に水色と紫の朝顔の模様が入った浴衣だ。妹は今夜のためにわざわざ一時間もかけて着付けてもらっていたのだと、さっき慧が耳打ちしてきた。
 「射的します」幸生は嬉しそうにうなずいた。「射的、射的」と言いながらぴょんぴょん飛び跳ねる。嬉しいことがあると、よくこうして飛び跳ねるのだ。
 射的屋の赤いひな壇には、筒に入ったラムネ菓子、クッキーやチョコレート、有名なアニメのフィギュアなどが並び、屋台の天井の骨組みには飾りつけのためなのか、網に入った小さめのビーチボールがS字フックでぶら下げられている。
 「どれにしますか?」幸生がコルク銃をいじりながら訊いてくる。コルクの重さや銃身の傾きから、飛び具合を推測しているのだ。
 「兄貴がどれでも好きなものを撃ち落としてくれるって」京吾が言う。「薫は? どれが欲しい?」
 「じゃあ…、あれお願い」
 薫が指をさしたのは、いちばん下の段に飾られたテディベアだった。棚に並んだ景品の中で最も大きく、高さは二十センチくらいある。
 「あんなのどうやって落とすんだよ」慧が言う。
 「知らない。でも幸生くんなら落とせるでしょ」
 三人は期待を込めた目で幸生を見た。
 幸生がじっくり狙いを定めて引き金を引く。
 コルク玉はテディベアから大きく外れた場所に飛んでいった。

 京吾は目を開けて、懐かしい記憶の世界から現実の世界へと戻ってきた。途中だった玄関前の掃き掃除を再開しようとしたが、どうにもやる気が出ない。
 上を見あげる。真っ青な空を白い雲が流れていく。子供の頃はあの雲に乗ってどこか違う世界へ、誰も自分のことを見ない世界へ飛んでいけたらと思っていた。いや、本当は今でも思っている。自分たちを除け者にするこの島も、この古びた民宿も、すべて捨ててどこかへ飛んでいけたら。
 十八になったら四季島を出ていくつもりだった。それなのに二十一歳になった今でもまだ自分は島に残っている。本土の女の家に入り浸り、たまにしか帰ってこない父親に代わって、この小さな民宿を兄と切り盛りしている。
 目の前の道路を軽ワゴンがゆっくり走っている。運転席には金物屋の親父の姿がある。あんな事故を起こしていながら、懲りもせずにまだ車を運転している。
 うしろの窓ガラスをコツコツ叩く音がしたので振り返ると、兄の幸生と目が合った。
 「京吾、京吾」幸生はその場でぴょんぴょん飛び跳ねながら窓を指さして、開けるように催促している。
 短く切りそろえられた髪の毛に、黒目がちの大きな瞳、半開きの口。それと、段違いになっているシャツのボタン。三つ年上の兄なのだが、京吾よりもずっと幼く見える。九歳の時に交通事故に遭ってから、幸生の時間は止まったままだ。
 京吾はホウキを置いて窓を開けた。冷房の涼しい空気が室内から流れ出てきた。
 「金助来たよ」幸生は弟の同級生の訪問が嬉しいのか、そわそわと体をゆすっている。
 幸生のうしろの受付カウンターの上にスナック菓子の袋が乗っているのが見えた。
 「受付でお菓子を食うなって言ってるだろ」
 京吾はため息をついて幸生のシャツのボタンを直してやる。そこでふと幸生の左掌が血で汚れていることに気がついた。よく見ると親指に、刃物で切ったような傷ができている。
 「どうしたんだよ、これ」京吾が訊く。
 「切った」
 「何で?」
 「包丁。洗い物してる時」
 京吾はまたため息をつく。
 救急箱を取りに行こうかと思ったが、消毒液も包帯も切らしていたことを思い出した。めったに使わないせいで、いつも買うのを忘れてしまう。
 この程度の傷なら放っておいても大丈夫だろう。
 「ちゃんと洗っておけよ」京吾はそう言って幸生に背を向ける。しかし数歩、歩いたところで思い出したように振り返った。「傷口を舐めるんじゃないぞ」
 幸生が、口元に持っていこうとしていた左手を慌てて背中に隠す。

 京吾は民宿の正面入り口に回った。ちょうど金助が軽トラックの荷台から段ボール箱を下ろしているところだった。昨日までプリンみたいだった頭が、きれいな金髪に戻っている。染め直したらしい。
 助手席には金助の子分の銀次が座っている。いがぐり頭の銀次はいつもトラックから降りてこない。肉がついて段々になった後頭部。わざとらしくそっぽを向いて京吾を見ないようにしている。京吾のことが嫌いなのだ。
 一方、金助はそんなあからさまな態度は取らない。腹の中では京吾を嫌っていたとしても態度には出さない。ほかの人たちと同じように接する。
 なぜなら金助は、誰にでも優しい頼れるアニキ、というキャラクターを常に演じているからだ。そのため、そのキャラクター像から外れることは絶対にしない。京吾には理解できないが金助にとって、頼れるアニキでいることは何よりも重要なことらしい。
 「おう」と気さくな笑顔を向けてくる金助のもとに、京吾は走り寄った。
 「いつも悪いな」と言って段ボール箱を受け取る。ずっしりと重い。中身は肉だったり牛乳だったりチーズだったり、どれも牧場を経営している金助の家で販売している物だ。
 「京吾、ガンバレ、ガンバレ」幸生は、民宿の中に荷物を運び込む京吾を応援する。
 「馬鹿、お前も手伝うんだよ」金助が幸生のおでこを叩いて、卵が入ったパックを手渡す。
 幸生が子供のような笑い声をあげて嬉しそうにジャンプした。
 そんな四人のもとへ観光客がやって来た。おさげ髪の若い女と、丸眼鏡をかけた三十代くらいの男だ。
 今朝、この民宿にチェックインした二人組だ。男の方は平岡という名前だった気がするが、女の方は思い出せない。別々の部屋に宿泊しているので恋人同士ではないらしい。
 「ねえ、どっかに水着ない?」と女が前置きもなしに京吾に尋ね、平岡が慌てて「突然すみません。彼女、水着を忘れちゃったみたいで。どこかにかわいい水着を売っている店はありませんか」と付け加える。
 「海の家の近くにショップがありますよ。地図を描きましょうか?」
 「あそこ無理。全然かわいいのがなかったんだもん」
 「ええっと、ほかの店だと…」京吾は口ごもる。金助に助けを求める。「どっかに水着売ってる店あったっけ?」
 「あの店以外ないだろ」
 「は? 萎えるんだけど」女が言う。「わざわざこんな田舎まで来た意味ないじゃん」
 「あっ、でもせっかく来たんだから、いちばんマシなのを見繕って撮影しようよ。ファンのみんなも愛奈ちゃんの水着姿を楽しみにしてるし…、ねっ?」
 「やだ。やる気でない。そんなにやりたいなら平岡くんがやればいいじゃん」愛奈はくるりと踵を返して民宿へと戻っていく。
 「いや、僕の水着姿は需要がないから──…」
 平岡の言葉が終わる前に、彼女は建物の中に消えた。「だから田舎って嫌い」と大きな独り言を残して。
 「だったら来るなよ」金助がつぶやく。
 「すみません、悪い子じゃないんですよ。ただ愛奈ちゃんはちょっと素直すぎるというか…。あ、そうだ。これよかったらどうぞ」平岡は懐から写真を取り出して四人に渡して回った。「彼女、“でぃあらいふ“という地下アイドルグループで活動しているんです」
 「はあ…」と京吾。
 チェキで撮られた写真には、かわいらしい衣装に身を包んだアイドルが五人写っている。愛奈は左端にいた。
 「今はまだ無名ですけど、愛奈ちゃんはいつか絶対に天下を取ります。僕はそのお手伝いをしたいんです。だからお兄さんたちも、愛奈ちゃんのことを推してください。後悔はさせませんから」
 平岡は早口にそう言い終えると、ぺこりと頭を下げて民宿へ帰って行った。
 「布教活動ってやつか」金助が苦笑する。「都会の人間はおかしな奴ばっかりだ」
 京吾は平岡の後姿を眺めながら、姉の写真のことを考えていた。カメラに向かって屈託のない笑顔を向けている姉。
 ずっと昔に、京吾は家族の写真をすべて燃やしてしまった。けれどあの写真だけは唯一、燃やすことができなかった。
 自分はあれをどこに仕舞ったのだろう。

 離れの玄関戸の前に幸生が立っている。京吾が家から出られないように通せんぼうをしている。もうかれこれ五分以上、ふたりはこうして向かい合っている。
 「兄貴、頼むからそこをどいてくれ」京吾が言う。
しかし幸生は激しく首を横に振る。「だめだ、行っちゃだめ、ここにいます」
 京吾は腕時計に目をやった。午後三時四十分。
 十分ほど前に港についたという連絡が来たので、もう民宿に来ていてもおかしくない。
 本土の大学に行った慧が一年ぶりに島に帰ってくると知って、さっきまで嬉しそうにしていたのに。京吾と慧が、薫の墓参りに行くと気づいた途端に態度が豹変した。行っちゃだめだと何度も繰り返して京吾の行く手を阻んでいる。
 幸生は、京吾が墓地に行くことをひどく嫌っている。そのため墓地に行く時は、幸生にばれないようにこっそり行っていたのだが、今日に限って墓参りの準備をしているところを見られてしまった。
 「明日、三人で祭りに行こう。兄貴の好きな射的もあるから。だから今日は家でおとなしくしていてくれ、な?」京吾は幸生の両肩を掴んで扉の前から移動させると、外に出た。
 自宅として使っている離れから、母屋へと小走りで向かう。民宿の入り口の戸を開ける。
 「京吾、ひさしぶり」と笑う懐かしい慧の笑顔が目に入る。
 それと、その隣にいる女の姿も。長い黒髪の内側をピンク色に染めた、華奢な女。見覚えのない顔だ。
 興味深そうな顔で、一階の畳敷きの広間やその向こうにある台所、二階にのびる板張りの階段などを眺めている。
 京吾は目を細めた。「その子は?」
 「大学の知り合い。オカルト系の動画を配信していて、この島の祭りを取材したいって言うから一緒に来た」慧が切れ長の瞳を女に向ける。「悪いけど彼女、宿を取っていないらしいから、ここに泊めてやってくれないかな」
 「それはもちろん構わないけど」京吾は女に記入用紙を手渡す。「祭りって、今夜の鬼追い祭りのこと?」
 四季島には鬼追い祭りと呼ばれる奇祭がある。
 鬼の面をかぶった禰宜を、二人の宮司が追い立てるというものだ。大昔に島で悪さをしていた鬼を、修験者が退治したことが由来らしい。鬼は島中を回り、最終的に禁足地である四季山の山中まで追い立てられ、そこで宮司によって退治される。
 昔は供物として鬼役の人間の首を本当に切り落としていた、なんて噂もあるが、現在はそういったことは行われていない。刀で斬るふりをするだけだ。
 そして祭りが行われる夜の間は外に出てはいけない、見てもいけないという決まりがある。この点こそが、鬼追い祭りが奇祭と呼ばれる所以である。
 そのため鬼追い祭りの前日と当日は、客を取らないようにしている宿も多い。
 「そう、鬼追い祭り」女は頷きながら、見た目にそぐわない綺麗な文字で記入用紙を埋める。月野という名前らしい。少し舌足らずなかわいらしい話し方をする。
 「前々から来たかったのよ。だってこの島ってオカルトの宝庫でしょ?」
 「そうなの?」と慧。
 「大昔に悪い鬼が島民を殺して回ったっていう伝承や、円盤型の光る物体が四季山の山頂に現れたっていう伝承があったり。あと四季山の東側が禁足地になっていたりとか。そもそもこの島の名前だって、元は『死んだ鬼の島』と書いて死鬼島だったわけでしょ。オカルト好きにとっては聖地みたいな場所なのよ、ここは」
 変なスイッチが入った月野が早口でまくし立てる。
 「初耳だなあ」と慧。
 「祭りの最中は外に出られないんだから、取材も何もないんじゃないのか」京吾が訊く。
 すると月野はしまったという顔で口をつぐんだ。
 出るつもりだったのか。
 慧が月野の鼻先に人差し指を突きつける。「出るなよ」
 「…出ないよ」
 「出るなよ?」
 「出ないってば」
 そう言ってから月野は慌てて話題を変えた。「ねえ、それよりわたし、これから四季島の資料館に行こうと思ってるんだ。道がわかんないから慧くんが案内してよ」
 「ごめん僕、これから京吾と行く場所があるんだ」
 月野が頬を膨らませて京吾を見る。
 そんな顔をされても困る。
 「いいもん。一人で行くもん。寂しくないですよ、べつに」月野が長い黒髪をひるがえして部屋へと向かう。彼女は「慧くんのケチ」と捨て台詞を残してから階段をあがっていった。
 「よかったのか?」
 「いつものことだよ。三十分もしたらコロッと忘れてる」慧は腕時計を確認した。三時四十九分。「それより僕たちも早く行こう。日が暮れちまう」


 海から心地いい潮風が吹いている。水平線の向こうには夏の訪れを告げる真っ白い入道雲が浮かんでいる。
 慧と肩を並べて海沿いの道を歩く。
 京吾は車で行くつもりだったのだが、慧は歩いて行こうと言った。久しぶりの潮風にあたりたいのだという。
 小学校時代の同級生の家の前を通り、あくびをする猫を見て目を細め、途中、自販機で水を買い、海沿いの道に立つ場違いなアメリカ風のダイナーの前を通り過ぎ、墓地へと続く道を歩く。
 その間、二人の会話は途切れることがなかった。といっても喋っていたのは、ほとんど慧の方だった。
 京吾は慧の声が好きだ。ほかの人よりも少しだけトーンが高くて、川のせせらぎみたいな滑らかな話し方をする。だからつい聞く側に回ってしまう。もっと聞いていたいと思う。慧の声を聞いている間だけは、自分の境遇を忘れられるから。
 「京吾も何か喋れよ」慧が京吾を肘で小突く。「僕ばっかり喋ってる」
 京吾は気になっていたことを質問した。「一緒に来てた月野さんって、お前の彼女か?」
 水を飲んでいた慧が激しく咳き込んだ。口元を拭って京吾を見る。「月野が? まさか。サークルが同じってだけの、ただの知り合いだよ。そんなんじゃないって」
 「俺にはそうは見えなかったけど」
 京吾は慧を見ていた月野の目を思い出す。たいていの女はああいう目で慧を見上げる。魔法にかかったような熱っぽい目。みんな慧の涼しげな瞳や、色白の肌にやられてしまうのだ。
 「あのなあ、慧。ただの知り合いの好きでもない男と二人で旅行に来る女なんて、この世にいないぞ」
 ないないない、と顔の前で手を振る慧に、京吾はため息をつく。
 「お前は昔から鈍いからな」
 四季山へ入り、墓地へと続く階段を上がる。
 墓地に来た二人は言葉を失った。
 墓が荒らされていた。お供え物の花が地面に散らばって干からび、ぐちゃぐちゃに踏み潰された果物には何匹もの蠅がたかっている。
 中でもいちばんひどく荒らされていたのが、薫の墓だった。墓石には小便がかかっている。昨日供えた菊の葉に滴っているこの白い液体は精液だろうか。
 あの男だ。
 京吾は自分の呼吸が浅くなるのがわかった。
 慧が肩を震わせる。強く握りしめすぎた彼の拳は真っ白になっていた。
 不愉快なアンモニアの臭いが鼻をつく。ふたりをあざ笑うかのように、蠅が耳元でブンブン飛び回っている。
 あの男。軽薄な笑みを浮かべる男の顔が、思い出したくもない男の顔が、京吾の頭の中によみがえる。
 「一週間前」京吾は口を開いた。声が震えていた。「刑事が来た。宮下が人を殺して逃げてるって」
 殺すべきだった。
 刑務所に送るなんて生ぬるい。あのとき自分は選択を間違えた。そのせいで薫は二度、宮下に犯された。

 *

 午後六時を告げる時報が鳴っている。
 たいていの市町村では夕焼け小焼けや、遠き山に日は落ちてが流れるのだが、この島ではなぜかグッデーグッバイが流れる。

 あなたと会えて ほんとによかった
 やさしい心 ありがとう
 やさしい心 ありがとう
 グッデー グッバイ
 グッデー 
 グッバイ マイフレンド

 美晴はダイナーから一歩出るなり、日焼け止めスプレーを鞄から取り出した。店の出入り口の前で立ち止まって、顔や腕はもちろん足やデコルテにも、全身くまなく吹き付ける。後ろの人間がつっかえようが、鼻をつまもうが構いはしない。日焼けするくらいなら死んだほうがマシ、というのが美晴の信条だ。
 「そんなところで立ち止まるな」うしろに立つ凜が、美晴のショートボブの頭を小突いてくる。「まったく毎回毎回…」
 スプレーをしまってから、ようやく美晴は脇にどいた。店のひさしの端にある灰皿の前に移動してタバコをくわえる。
 美晴と凛はよくこのダイナーに来ている。大のアメリカ好きの店主が数年前に建てた、海沿いにあるアメリカ風のダイナー。バーバラという店名は、店主が好きな映画の主人公から取ったらしい。
 白と黒のチェック柄のタイルや真っ赤なソファ、ミント色の壁に飾られたいろんな種類のモデルガン。店主のアメリカンジョークはうっとうしいが、雰囲気は嫌いではない。
 そしてなによりも気に入っているのが、店の脇に喫煙所があることだ。
 四季島は好きではないが、このダイナーだけは例外だ。東京にもこういう店が一件くらいあったらいいのにと思う。
 「あんた何でそんなに日に焼けたくないわけ?」凛がジッポのライターでタバコに火をつける。
 彼女は美晴が働く四季島町役場の一年先輩の職員。無気力でいつも死んだ目をしている。理由は知らない。もしかしたらただ単に、そういう顔をしているというだけなのかもしれない。
 「この島で日焼けなんか気にしてるのなんて、あんたくらいよ」
 「それはこの島の人間が年寄りばっかりだからですよ。まだピチピチの二十歳のわたしは、日焼けなんて死んでもしたくないんです」
 ぶりっ子ポーズをとる美晴を、凜が鼻で笑う。あんたの肌が白かろうが黒かろうが誰も気にしないよ、という笑いだ。
 「美晴って生まれも育ちも東京のお嬢様なんでしょ? あんた、なんでこんな島にいるの?」凜が訊く。この島は日焼けを神経質に気にする人間が来るような島ではない。
 「言われてみればたしかに。超名門進学校出身の超優秀なわたしが、どうして大学にも行かずにこんな辺鄙な田舎にいるんですかね…。日差しはきついし、潮風はベタベタするし、海ばっかりで遊ぶ場所はないし」
 それにこの島にはいまだに男尊女卑の観念が根付いている。
 宴会の席では男たちにお酌をすることを強いられる。セクハラまがいの言葉を投げかけられるのはしょっちゅうで、体を触られることだってある。
 「わたしがここにいるメリットって一つもないですよね」美晴はびっくりしたような顔で凛を見る。考えれば考えるほど島の嫌な部分ばかり見えてくる。「逆に、先輩はどうしてこの島にいるんですか?」
 「わたしはここでの生活に満足してるからね。本土に行きたいとも思わない。それにここには金助がいるし」
 凜が照れたように笑う。風に踊る彼女の長い黒髪が、夕焼けの光を反射してきらきら光っている。金助の話をしている時の凜は、少女みたいな顔をするのでかわいらしい。
 「あんな筋肉ゴリラのどこがいいんですか」
 美晴は金助のことが好きではない。
 頼れるアニキ面しているところ、いい年して銀次とかいうコバンザメを引き連れているところ、何度断っても諦めずに告白してくるところ。なんというか、すべてが受け付けない。
 「わたし、小学校の時からずーっと片思いしてるのよ。かっこよくて、筋肉があって、男らしくて」凜はそう言ってから美晴を横目で見た。「女の趣味が悪いことを除けば完璧」
 わたしに言われても、と美晴は肩をすくめる。
 「あんたはどういう男が好みなの?」凜が訊く。
 「そりゃあ、この島で一番かわいいわたしに釣り合うくらい、かっこよくて優しくて…」
 海の向こうで夕焼けが真っ赤に燃えている。
 さっき美晴が、夕焼けがきれいなので明日は晴れですね、と言ったら凜に「これだから都会っ子は」と鼻で笑われた。
 通りの向こうに人影が見えた。墓地から伸びる石段を、二人の男が沈痛な面持ちで降りてくる。
 ひとりはたしか榛名京吾という名前の男。彼が金助以外の島民と話しているところを、美晴は見たことがない。
 てっきり性格に難があるのかと思っていたが、何度か話した限りでは、そういうわけではなさそうだった。凜にどうしてなのかと聞いてみたら、はぐらかされた。だから島民が彼を避ける理由は知らない。
 京吾の隣には色白の整った顔立ちの男がいる。
 あんな男、この島にいただろうか、と目で追いながら考える。
 「京吾はやめときな」美晴の視線を勘違いしたのか、凜が言う。「榛名の家の人間は幸せになれない」


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