楽園へ 第4話
「田崎さんって昔、公安におったってホンマですか」
田崎は眼鏡を押し上げて、隣を歩く後輩に目をやった。
瀧川は田崎が所属する警視庁捜査一課の後輩刑事である。身長も顔立ちも平凡な田崎と違って背も高く、吊り上がり気味の目に尖った顎、と刑事向きの見た目をしている。生まれも育ちも東京のはずなのに、なぜか関西弁を使う。出会ったころから妙に馴れ馴れしく、無鉄砲で人の話を聞かない。
しかし田崎は一回り年下の彼のことを不思議と気に入っている。自分とは真逆の性質だから凹凸がはまってしっくりくる、という感じだろうか。
「昔、すこしだけいた」
田崎は答えながらも周囲に視線を巡らすことを忘れない。宮下を探している。出所後すぐに保護司を殴り殺した男を探すために、わざわざ二時間半もかけて四季島にやって来たのだ。
昨日、この島の墓地が荒らされていたと島民から聞かされた。宮下は十八歳の時に殺人未遂を犯している。その現場となったのが墓地であることを考えると、宮下の仕業である可能性が高い。
「じゃあ、あの噂もホンマですか。カルト組織に監禁されて両腕を折られたけど、蹴り技だけで組織の人間を全員倒して生還したってやつ」
「デマだよデマ。ジャッキー・チェンでも無理だろ、それ」
田崎が否定すると、瀧川は「やっぱりデマか」と残念そうな顔をした。
そう、折られたのは左腕と右手の小指だけだ。それに倒したのは全員ではなく、たったの八人。
三叉路に来たところで瀧川が立ち止まった。
「のど乾きましたね。たしかこの先にコンビニあったんで、俺、何か飲み物でも買って来ましょか」瀧川は、田崎の答えを聞く前にすでに早足で歩きはじめている。とにかくせっかちな男なのだ。「セッターも買ってきましょか?」
「タバコはいい。やめたから。水だけ頼む」
駆けていく瀧川の背中に向かって言う。瀧川は振り返りもしない。たぶん聞いていない。五分後にはセブンスターを買って意気揚々と戻ってくるだろう。
田崎は木陰に移動して扇子を広げる。
昼過ぎからずっと聞き込みを続けているのでひどく疲れた。四十を過ぎてからというもの、日々体力の衰えを感じている。
空には分厚い雲がかかっている。時刻は五時を少し回った頃。周囲は暗くなりかけている。生ぬるい風も吹き始めた。
遠くから祭囃子の音が聞こえてくる。そういえば昼間、広場に祭りの屋台が並んでいるのを見た。
田崎の前を、浴衣を着た二人の男女が通り過ぎていく。中学生くらいだろうか。まるで世界に二人だけしかいないかのように、じゃれ合いながら歩いている。
この島で彼らくらいの年齢の子供を見ると、どうしてもあの少年のことを思い出してしまう。
榛名京吾。
病室の真っ白いベッドに横たわる彼の姿が脳裏をよぎる。痛々しく腫れあがった顔と、包帯でぐるぐる巻きにされた体。
そしてベッドの脇に座る大石慧の姿。見舞いに来ない京吾の父親の代わりに、慧は一日中、昏睡状態の京吾に付き添っていた。面会時間が終わると、病院の前の花壇に座って一晩過ごし、面会時間が始まるとまた京吾の病室に入っていった。
慧のその姿はまるで、自分自身を罰しているかのようだった。
「田崎さん!」瀧川がこちらに駆け寄ってくる。なぜか手ぶらだ。
「どうした?」
「向こうで男の子が襲われたみたいで」瀧川は肩で息をしながら話す。「詳しいことはまだ聞いてないんですけど、傷害事件っぽいです」
わざわざ走ってこなくても電話をすればいいのに、と思ったが口には出さなかった。瀧川とはそういう男なのだ。
ふたりはすぐさま現場に向かった。
海沿いの道の右手に酒屋が、左手には堤防があり、そのむこうに砂浜が広がっている。
その堤防沿いに人だかりができている。アイスキャンディーを舐めている人、眉をひそめて話し合っている人たち、仕事を放りだした酒屋の店員。彼らはみんな砂浜の方を、駐在が立っている場所を見つめている。
瀧川が堤防に足をかけてのぼる。
田崎が「階段を使え」と言う前に瀧川は飛び降りた。約二メートル下にある砂浜の上に着地する。
田崎はやれやれと首を振った。ここから十五メートルほど向こうにある階段に向かって走る。飛び降りたらいいじゃないですか、と急かす瀧川の声が聞こえる。田崎は時々、瀧川が五歳児に見えることがある。
「何かありましたか」田崎は駐在のもとに駆けよった。
「あっ、これはこれは刑事さん」五十代後半くらいの禿げ頭の駐在は、慌てた様子で敬礼をした。「いえ、たいしたことではないのですが…。うちの島の青年が、若い女に襲われたようなんです」
「女ですか」田崎が訊く。宮下の仕業かと思って駆けつけたが、そうではないらしい。
「青年が浜辺を散歩していたら突然、うしろから首筋に噛みつかれたそうです。女はよほど強く噛んだみたいで、かなりの出血量でしたよ」駐在が足元の砂浜に視線を落とす。黒く変色した血痕が点々と続いている。「青年が女を突き飛ばして、あそこの酒屋に逃げ込んだことで事件が発覚したという次第です」
なるほど、と田崎は頷く。単なる傷害事件で宮下の仕業でもない、となると自分たちの出る幕ではなさそうだ。
「女は捕まりました?」瀧川が訊く。
「いえ、それがまだ…。わたしが到着したときにはもう女の姿はありませんでしたので…。まあでも、狭い島ですから犯人が捕まるのも時間の問題でしょう」
「署へ連絡は?」と田崎。
この島には警察署がない。駐在所が一軒だけあるのみだ。そのため島で事件がおこった場合は、隣の島の大島警察署から応援を呼ぶ必要がある。
「連絡はしたんですが、台風の影響で明日の朝まではこちらに来れない、と言われました」
「でも台風来るのって今日の夜でしょ。船くらいならまだ出せるんちゃいますの?」
「そりゃ無理ですよ。波も高くなってきましたし」禿げ頭をハンカチで拭いていた駐在が慌てて手を振った。「フェリーだってさっき出たのを最後に全便欠航したくらいですから」
「えっ」と瀧川。「でもあと二本残ってますよね、帰りのフェリー」
「ですから出ませんって。フェリー乗り場にもネットの予約サイトにも書いてあったはずですが…」
「瀧川…」
「すんません」と天を仰ぐ瀧川。「やってまいましたわ…」
「いや、いい。ちゃんと確認しなかった俺も悪い」田崎はため息まじりにそう言ってから、駐在へ顔を向けた。「この辺りで今日、泊まれる宿はありますか」
「鬼追い祭りの前後は客を取らないようにしている宿が多いですからねえ。…ああでも、榛名のところならやってるんじゃないですか? どうしてこの時期に宿を開けるんだか。よっぽど金が好きなんでしょうね」
駐在が同意を求めるように田崎の方を見てきたが、気づいていないふりをした。
田崎は民宿の玄関戸を開けた。冷房の涼しい空気と、どこか懐かしい匂いがふたりを迎え入れた。
受付カウンターには京吾が座っている。あの頃のあどけなさは消えて立派な大人の顔つきになっている。
京吾は田崎と瀧川の顔を見た途端、体をこわばらせた。
「やあ、久しぶり」田崎が右手を挙げる。そのあとに何か言葉を続けようとしたが、やめておいた。六年ぶりに会う彼にかける適切な言葉が何なのか、わからなかった。
じつは田崎らがこの民宿に来たのは今日で二回目だ。この島に来た時、ふたりは真っ先に京吾のもとを訪れた。逃亡中の宮下がここに来る可能性が高いからだ。とはいえ京吾が外出中だったため会うことはできなかったが。
「田崎さん。何かあったんですか」
「いや、そういうわけじゃないんだ。帰りのフェリーがなくなってしまったから、ここに泊めてもらえないかと思ってさ」
田崎の言葉を聞いた京吾はようやく肩の力を抜いた。「あいにく一部屋しか空いていないので、相部屋になりますけど構いませんか?」
「構わないよ。屋根があればそれでいい」
階段を下りてくる音。そちらに顔を向けると、大石慧の姿が目に入った。
二人の刑事に気がついた慧は階段の途中で、はっと立ち止まった。何か言いたげな顔をしている。彼の視線が京吾に行き、次いで田崎に、それからまた京吾に戻る。
「何かあったのか?」田崎が慧に訊く。
慧が京吾と目を合わせる。京吾が小さく頷いた。
「じつは、僕と一緒にこの島に来た知人の女の子がいなくなったんです」慧が言う。「今日の四時ごろに姿が見えないことに気がついて、あちこち探したんですけど、見つからなくて」
「最後に見たんはいつごろ?」瀧川が訊く。
「昨日の七時です。広間で夕食をとっているのを見たのが最後です」京吾が少しだけ声を落としてつづけた。「もしかしたら禁足地に入ったのかもしれません」
四人は海沿いの道を歩いて、四季山へと向かっている。
道中、いなくなった女性──月野についての話を二人から聞いたので、ことの経緯はおおかた把握した。
田崎は隣を歩く青年たちの横顔をちらりと見た。ふたりとも深刻な顔をしている。
月野の心配をしている、というのもあるだろう。が、最も彼らを悩ませているのは月野がおこなったかもしれない無作法だ。見てはいけない決まりの鬼追い祭りを撮影し、あろうことか禁足地に入ったかもしれない、なんて。彼女の行為は島の人々の信仰を、歴史を、踏みにじったも同然なのだ。
祭囃子が聞こえる。
四季山のふもとの広場には、やぐらが組まれ、赤と白の丸い提灯がいくつもぶら下がっている。台風のことを考慮して、やぐらは例年よりも低く組んであるらしい。金魚すくいや射的、チョコバナナ、タコ焼きなどの屋台と、そこから聞こえてくる賑やかな呼び声。
提灯の温かい光と人々の活気に包まれた広場。
四人はその広場とは真逆の場所にいる。
真っ暗で静かで気味が悪い場所。ろくに舗装されていない四季山の山道を歩いている。懐中電灯の光が四つ、闇の中で揺れている。誰も何も言わない。人だけでなく山すらも、じっと黙りこくっている。
田崎は顎を伝う汗をハンカチでぬぐった。
どうもこの山は気味が悪い。うまく言葉では説明できないが、他の山とは異なる厭な雰囲気が山全体に満ちている。
しばらく歩くと前方に古びた鳥居が現れた。もともとは赤かったのだろうが、今は灰色に色あせてしまっている。鳥居の脇には立ち入り禁止と書かれた看板とフェンスが設けられている。
昔は四季山の東側全体が禁足地に指定されていたが、二十年ほど前にその禁は解かれ、現在はこの鳥居をくぐった先のエリアだけが禁足地とされている。
フェンスを越えて鳥居をくぐる時、慧と京吾が息を止めるのがわかった。幼い頃から禁足地として教えられてきたこの場所に踏み込むことに、そうとう心理的な抵抗があるのだろう。それでも二人は、戻ろうとは言わなかった。
四人はそれぞれ月野の名前を呼びながら、周囲の木々を懐中電灯で照らす。
その時、京吾が「あっ」と声をあげた。石祠のうしろにある穴のふちに立って、慌てた様子でこちらに手招きする。「田崎さん!」
三人はそちらに駆けつけ、それからぎょっと目を見開いた。
首のない女が仰向けに転がっている。肌は真っ黒に変色している。女の首は少し離れたところに転がっていた。こんな残酷な状況にありながら、穏やかに目を閉じているのが不気味だ。
「ここにいて」田崎は京吾と慧にそういうと、穴の中に降りた。
瀧川もそのあとに続く。
田崎が女の肌に触れる。人間の肌のような弾力はなく、固い。
「これ、ミイラですか」瀧川が訊いてくる。
「完全に死蝋化している」
死体が一定の条件下で、外気と長期間遮断された状態にあると、このように死体が腐敗せずに蝋状に固まることがある。話では聞いたことがあったが、実際に見たのは初めてだ。
女は百姓が着るような着物を身に着けている。かなり古い時代の死体なのだろうか。
背後で、ばしゃっと泥が跳ねる音がした。
京吾と慧が穴の中に降りてきている。
「きみら、動くなって言うた──」
「これ、月野のカメラです」瀧川の言葉をさえぎって慧が言う。手には泥だらけのビデオカメラが握られている。「ここに落ちていました」
慧がカメラに保存されていた映像を再生する。
ナイトモードでの撮影であるため画質が悪く、色合いも乏しい。小さな画面の中に狩衣をまとった二人の神職の背中と、その前方で踊り歩く鬼の背中が映し出される。
やはり月野は鬼追い祭りをこっそり撮影していたのだ。
古びた鳥居をくぐる神職たちの後姿、石祠とそのうしろに広がる、かつて池だった穴、静かな森の中に響き渡る祝詞の声。禁足地の中で行われる儀式の一部始終が収められている。
映像の雰囲気が変わったのは、儀式が終わってからだった。
穴のふちで撮影していた月野が、何かに気がついた様子でカメラを背後の森に向ける。映像には立ち並ぶ木々しか映っていない。が、かすかに草を踏みしめるような音が入っている。
月野の浅い呼吸。近づいてくる足音。カメラを持つ手が震えているせいで、映像も小刻みに揺れている。
暗闇の中から男が飛び出してくる。
宮下だ。
笑っている。
カメラの映像が激しく乱れた。おそらく穴のふちから足を踏み外して転落したのだろう。その拍子にカメラも、彼女からすこし離れた場所に落下した。
カメラが倒れて画面が横向きになった。
落ちた際にレンズが汚れてしまったのか、映像の下三分の一が泥に覆われて何も見えない。だがレンズは月野の方を向いている。四つん這いの姿勢で固まっている月野の姿を、横からとらえている。
月野の悲鳴。
そのけたたましい悲鳴に混じって、画面の外から、宮下の「うるさい、黙れ」という言葉がはっきりと聞こえた。
だが月野は悲鳴を上げ続ける。過呼吸を起こしたかのように浅い呼吸を何度も繰り返しながら、金切り声を上げ続ける。
宮下が月野の顔面を蹴り飛ばす。月野の背中に馬乗りになって、彼女の顔を地面に押しつける。
月野は少しの間、抵抗していたがやがて動かなくなった。
誰も何も言わなかった。
カメラを持つ慧の手が震えている。呼吸が荒い。爪が白くなるほどカメラを強く握りしめている。
「慧くん…」瀧川の掌が、慧の両手を包みこむ。このカメラはこちらで預かる、という意味だ。
しかし慧はカメラから手を離さなかった。食い入るように画面を凝視している。
田崎は懐中電灯で穴の中をぐるりと照らした。
遺体がない。
映像では、月野を殺した宮下はすぐにその場を立ち去った。それなのに、ここにあるべきものが残されていない。
「田崎さん!」瀧川がひどく驚いた様子で、カメラの画面を指さす。「これ見てください」
下三分の一が泥に覆われている、色合いの乏しい映像。画角の中央でうつ伏せに倒れている月野。
その月野の体が痙攣している。電気でも流されたかのように背中を引きつらせて、手足をばたつかせている。
四人は息をのんで、この異様な光景を見つめていた。
しばらくすると月野の痙攣は止まった。ゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで歩きはじめる。やがて彼女の姿は画面から見えなくなった。
「死んでなかったってことか…?」瀧川が言う。
しかしそれにしては妙だ。なぜ月野は民宿に戻らなかったのか。交番に駆け込むことだってできたはずだ。襲われたせいで精神が錯乱していたのだろうか。それにあの駐在が言っていた、若い女が男に噛みついた、という話も引っかかる。
「慧くんも京吾くんも、とりあえず山を下りようか」田崎は促すように二人の背中をそっと押した。
四人が異変に気がついたのは、山の出口が見えた頃だった。
ふもとの広場がやけに騒がしい。入り乱れる足音、女の悲鳴、泣き声。人々の喧騒は聞こえるのに祭囃子の音は一切聞こえない。
変わり果てた広場の光景を見て、田崎はしばし呆気にとられた。
中央に立っていたはずのやぐらが横倒しになっている。たこ焼きやチョコバナナ、キャラクターのお面、紅白の提灯などが地面に散乱し、踏み潰されている。逃げ惑う人々、それを追いかける人々。
田崎はいま自分が見ている光景を理解するのに少し時間を要した。
六時の時報が流れる。懐かしいグッデーグッバイの曲がスピーカーから聞こえてくる。軽やかなリズム、伸びやかな歌声。それにそぐわない地獄のような惨劇。
歯をむき出しにした女が年配の男に掴みかかっている。女は大きく口を開けると、男の顔面に喰らいついた。男の絶叫。頬の肉が食い千切られている。女は男の肉をくちゃくちゃと咀嚼すると、喉を鳴らして飲みこんだ。
噛まれた年配の男はしばらくすると体を弓なりに反らして痙攣し始めた。痙攣が止まると、むくりと起き上がる。その目は死人のように白く濁っている。男はきょろきょろと辺りを見回したあと、悲鳴を上げている女の方へ走っていった。
あちこちでそういう光景が繰り広げられている。
悲鳴を上げる人、追いかける人、死んだ人間の内臓をむさぼり喰っている人、放心して座りこんでいる人、人、人、人…。
「なんですか、これ」京吾が一歩後ずさる。「いったい何が…」
「ゾンビ映画の撮影でもやっとるんか」瀧川が言う。
そう、まるでゾンビ映画さながらだった。だが周囲に立ち込める異臭と、人々の恐怖の表情が、これが撮影ではないことを物語っている。
浜辺で会ったあの駐在が、こちらに駆け寄ってくる。
一瞬、応援を求めるためにこちらに来たのかと田崎は思った。だがその目は白濁し、大きく開いた口は血で真っ赤に染まっている。一目でまともな人間ではないとわかった。
田崎は眼鏡を押し上げた。
向かってくる駐在のこめかみに蹴りを入れる。
駐在がうつ伏せに倒れる。
すかさず田崎は、駐在のうなじを右足で踏みつけた。
田崎の靴の下で駐在が暴れている。が、逃れることはできない。
「瀧川」田崎は懐から手錠を取り出すと、瀧川に渡した。「右手と左足首」
田崎の意図を理解した瀧川が、駐在の右手と左足首に手錠をかける。
手足を封じられた駐在は立ちあがることすらできないようだ。腰を反らした無様な格好で、それでも田崎に噛みつこうと歯をカチカチ鳴らしている。手錠の鍵を取り出そうとしないところを見ると、知能はないようだ。
田崎は地面に落ちていた、ひしゃげた提灯を適当な大きさに折りたたんで、駐在の口に突っ込んだ。これで噛まれない。
映画のセオリー通りならば頭を破壊すればおとなしくなるのだろうが、田崎はそうする気にはなれなかった。動きを封じるだけで十分だろう。
駐在を仰向けに転がす。胸についている無線機を操作してみるが、ザーザーとノイズが入るばかりでまったく繋がる気配がない。壊れているようだ。
舌打ちをする。
田崎は駐在から拳銃と手錠を奪うと、瀧川に差し出した。
「いやいやいや、俺、無理ですよ。射撃の成績カスやったんで」瀧川が慌てて両手を振る。「田崎さんが持っててください」
「お前なあ…」田崎は何か言おうと思ったが、やめた。今は京吾たちを安全な場所に避難させることが先だ。
京吾と慧の名前を呼んで肩をゆする。口を半開きにして惨劇を眺めていたふたりが、我に返って田崎を見た。
「きみたちは今すぐ家に帰りなさい。鍵を閉めて、家から一歩も出ないこと。いいね?」田崎は言う。幼い子供に言い聞かせるような、ゆっくりと落ち着いた声で。
「田崎さんは?」
慧の問いかけに、田崎は首を振った。
周囲を見回す。広場には助けを必要としている人たちがいる。自分たちはまだここを去るわけにはいかない。
「俺たちはここに残って、逃げ遅れた人の救助にあたる。だからきみたち二人で帰るんだ。できるね?」
京吾と慧が同時に頷く。
田崎も頷き返した。大丈夫、彼らはもう立派な大人だ。あの頃の、今にも壊れてしまいそうだった十五歳の頃の彼らとは違うのだ。
ふたりが走り去っていく。
彼らの背中が完全に見えなくなったのを確認してから、田崎は広場を振り返った。相変わらず、この世のものとは思えない光景が繰り広げられている。
「田崎さん、こいつらキリないですよ。殴ろうが蹴ろうが、何度でも何度でも向かってきますわ」瀧川が、どこかから拾ってきた鉄パイプを振る。こちらに襲い掛かって来たゾンビの左頬にクリーンヒットする。「お前らはドリカムかって」
地面にはゾンビが三体、転がっている。どれも芋虫のように体をくねらせるばかりで襲ってこない。両手足を折られているのだ。だからそんな動きしかできない。噛みつき防止のためなのか、顔全体を覆うように布がぐるぐる巻いてある。
瀧川も田崎同様、ゾンビの頭部を破壊してみる気にはなれないらしい。手足の自由を奪うだけにとどめている。
田崎は瀧川が差し出してきた鉄パイプを受け取った。
「ざっと数えただけでも四十体はいますよ。ホンマにやるんですか」
「なにも全員倒す必要はないだろ。逃げ遅れた人を避難させるだけでいいんだから」
ふたたび襲ってきたゾンビの攻撃をかわし、鉄パイプで右足の骨を折る。
ゾンビがうつ伏せに倒れたところで、鉄パイプを続けざまに三度、振り下ろす。左足。右腕。左腕。確実に、折る。
「避難が終わったら放送室に行って島内放送をかける。たしかここから南に行ったところにあったはずだ。これ以上被害を広げないために、本土から救援が来るまで家から一歩も出ないようにと島民に伝える」
それが終わったら上司に報告するつもりだ。この状況をどう報告すべきか悩むが、それはあとで考えればいいだろう。とにかく今は救助と避難が先決だ。
「だから瀧川、悪いがそれまで付き合っ──」田崎はそこまで言って言葉を切った。ついさっきまで隣にいた瀧川がいない。
周囲を見回す。
はるか向こうで、ゾンビにドロップキックしている瀧川の姿が見えた。
本当に人の話を聞かない男だ。
