楽園へ 第7話

 ひどく蒸し暑い。顔の周りで蠅がブンブン飛び回る。牛舎の中は干し草と牛の体臭、それから排泄物の臭いで充満している。
 牛たちがそわそわと足踏みを繰り返している。この時間はいつもおとなしくしているのに。いま自分たちが抱えている恐怖が、こいつらにも伝染しているのだろうか。
 金助は顎を伝う汗をぬぐい、扉の隙間から外の様子を覗き見た。
 青い牧草が生い茂る放牧地。そこをさまよい歩く人影が六体。どれも人間ではない。目は白濁し、血で汚れた口の端からは涎が糸を引いて垂れている。腕があらぬ方向を向いている者や、頬の肉がえぐれて歯がむき出しになっている者、内臓が腹から飛び出している者までいる。映画でよく観るゾンビにそっくりだ。
 金助は静かにため息をついた。
 スマートフォンの画面にはゾンビが人を襲う動画が映し出されている。島の誰かがSNSに投稿したのだ。
 おかげでトレンドは四季島の話題一色。島民の安否を気遣う者や、嘘つき呼ばわりする者、島民を隔離すべきだと主張する者など、様々な人間が金助たちとは関係ない場所であれこれ騒ぎ立てている。
 いったいこの島で何が起こっているのだろう。さっきまで自分は広場にいたのに。日頃のストレス発散に思いっきり食べて飲んで楽しむつもりだったのに。美晴のところにも遊びに行く予定だった。それなのに。
 わけのわからないまま、ゾンビでパニックになっている広場から銀次とここまで逃げてきた。一時はゾンビに襲われて死にかけたが、もう大丈夫だろう。
 さっき消防に連絡したら、台風が過ぎ去り次第すぐに救助をよこすと言われた。それまでここに立てこもっていればいい。美晴と凜に連絡がつかないのは気がかりだが仕方ない。
 金助は隣に座る銀次をちらりと見た。
 銀次はつい先週生まれたばかりの子牛を膝にのせている。子牛の小さな背中を撫でながら、しきりに黒縁の眼鏡を手の甲で押し上げている。何か金助に言いたいことがある時、銀次はきまってこの仕草をする。
 「どうした銀次?」
 「…べつに」銀次は首を振る。振りながら、また眼鏡を押し上げる。
 「なんだよ。言いたいことがあるなら、はっきり言えっていつも言ってんだろ」
 「いや……、いいのかなって…」
 「何が?」
 銀次はまた首を振る。黙りこむ。しばらくしてから再び口を開く。
 「金ちゃん、俺たちこんなとこに居ていいのかな?」
 「なんだよ、ここが危険だって言うのか?」
 「そうじゃない、そうじゃないよ。でも、島のみんなが危険にさらされてるのに、俺たちだけ安全なところにいるからさ…」
 また沈黙。銀次が金助をおそるおそる見上げる。子牛みたいなつぶらな目をしている。
 金助は目顔で言葉のつづきを促した。
 「俺、俺さ。小学生の頃、いじめられてただろ? それを金ちゃんが助けてくれた。いじめっ子を全員やっつけてさ。その背中がめちゃくちゃかっこよかったんだ。だから俺はその時に誓ったんだよ、一生この人について行こうって」
 銀次が眼鏡を押し上げる。声が少し震えている。
 「でも今の金ちゃんはどうだよ。ゾンビからコソコソ逃げ回って隠れてさ、こんなの全然かっこよくないよ。俺の好きな金ちゃんは、ヒーローみたいな金ちゃんなんだ。それなのに、それなのにさ、こんなんじゃただの臆病者だよ」
 「なんだと。もういっぺん言ってみろこの野郎」
 金助は勢いよく立ちあがった。頭の中がカッカしてくる。
 小さい頃からヒーローに憧れていた。弱い者のために闘う正義の漢。そうなれるように努力もしてきたつもりだった。だから、なんと言われてもいいが臆病者と言われることだけは我慢ならない。
 「まさかお前、俺がただコソコソ隠れてるだけだと思ってんじゃねえだろうな。いいか、俺はな、機会をうかがってたんだ。あいつらに反撃する機会をよお」
 「そ、そうだったのか、金ちゃん?!」
 「今がその時だ」
 金助は壁に立てかけてあった畜産用のフォークを手に取った。長い柄の先に四本の爪がついている。これなら十分に殺傷能力があるのでゾンビにも対抗できるはずだ。
 銀次にも一本、投げてよこしてやる。
 「立て銀次! 俺たちの島を救いに行くぞ!」
 「金ちゃんかっこいい!」
 ふたりは牛舎を飛び出した。
 暗闇の中、放牧地を駆け抜ける。目的地は向こうに停まっている軽トラだ。距離は二百メートルほど。走ればすぐにたどり着く。邪魔さえ入らなければ。
 ふたりに気づいたゾンビがこちらに走ってくる。右手から三体、左手から二体、軽トラのそばに一体。その中には生前、金助と知り合いだった者もいる。だが、歯をむき出しにして奇声をあげる姿には、人間だった頃の面影は残っていない。
 金助は右手からやって来たうちの一体、禿げた男のゾンビの腹にフォークを突き刺す。ずぶ、とフォークの爪が沈み込む。厭な感触に思わず手を放してしまいたくなる。
 だがゾンビの方は痛みを感じていないらしい。腹を刺されながらも、あらぬ方向にねじれた腕を伸ばして噛みつこうとしてくる。
 もう一体のゾンビが金助の方に迫ってきた。紺色のつなぎを着た中年の女。顔全体が赤黒い血で汚れていたが、一目で金助の牧場で働いていた女だとわかった。
 「ちくしょう」金助は歯軋りをする。向かってきた女の腹を蹴り飛ばす。
 女が地面に仰向けに倒れる。
 金助はフォークの先でもがいている男の股間を思いっきり蹴って、フォークを引き抜いた。
 男が女の上に倒れ込む。
 金助はフォークを頭上に振りかぶると、二体まとめて突き刺した。
 二体はそれでも金助に噛みつこう暴れるが、立ち上がることができない。フォークの下で手足をばたつかせるだけだ。
 金助は周囲に目をやった。
 うしろから一体、こちらにやって来る。中学生にあがったばかりくらいの幼い子供のようだ。人間だった時にゾンビに喰われたのだろう。左の眼球と頬の肉、それと指が何本かなくなっている。
 胸が痛くなる。
 銀次は金助からすこし離れたところでゾンビ一体と格闘している。そこに一体のゾンビが、三メートルほど向こうから走ってくる。銀次を狙っている。しかし銀次は目の前の敵に夢中で気がついていない。
 金助はそちらに向かって駆けだした。銀次に襲いかかろうとしていたゾンビに体当たりをする。
 金助は、銀次の襟首をつかんで走り出した。
 銀次の手からフォークが落ちる。
 「何すんだよ金ちゃん。もうちょっとで殺せたのに」銀次が引きずられながら声をあげる。
 「うるせえ。いいから走れ」
 ふたりは軽トラを目指して走る。
 うしろからゾンビたちの足音が迫ってくる。
 軽トラのそばにいた若い男のゾンビが、こちらに気づいて走ってくる。この男にかまっている時間はない。
 金助は走りながら自分の腰のベルトをすばやく抜き取ると、片方の端をしっかりと握った。もう片方の端を銀次に手渡す。「銀次、あれやるぞ」
 「オーケー金ちゃん」
 ふたりはベルトの両端を持って、肩を並べて走った。前から男が迫ってくるが、避けようとはしない。まるでぶつかりにでも行くように、一直線に男に向かっていく。
 両者の距離が縮まる。
 あと三メートル。
 二メートル。
 まだだ。もうすこし。
 一メートル。
 「今だ!」
 金助の合図と同時にふたりは左右に分かれた。ベルトがふたりの間でピンと張られる。
 ベルトが男の首に引っかかる。男はバランスを崩して仰向けに倒れた。
 「よっしゃあ!」金助は走りながらうしろを振り返り、銀次とハイタッチをかわした。
 ふたりは勢いそのままに軽トラに駆け込む。
 ちょうど扉を閉めたところで、ゾンビたちが追いついてきた。奇声をあげながら窓ガラスを掌で叩いている。軽トラが揺れる。
 金助はアクセルを踏んで急発進させた。
 ゾンビたちの姿が遠くなる。
 彼らの姿が完全に見えなくなったところで金助はようやく人心地ついた。運転席のシートに背中を深く沈める。
 軽トラは四季山を下って町へ向かっている。山道には街灯がぽつりぽつりとしかなく、ヘッドライトの明かりだけが頼りだ。
 助手席の銀次はまだ興奮が冷めていないようで、すごいよ、すごいよ金ちゃん、と繰り返している。
 「金ちゃん、さっきのゾンビ見たかよ。首のところにベルトがこう、グイッと食い込んで派手に尻もちついててさ。やっぱ金ちゃんはすげえよ」
 「お前こそ、俺の考えを一瞬で察してくれたろ」
 なんて会話を交わしながら山道を下っていく。町にはあと十五分ほどで着くだろう。
 突然、道の脇から男が飛び出してきた。
 金助はとっさにブレーキを踏む。
 軽トラは男の目の前で停まった。
 ヘッドライトに照らしだされた顔には見覚えがある。たしか京吾の民宿でアイドルの写真を配っていた男。丸眼鏡の右端はひび割れ、髪の毛は血がこびりついてカピカピになっている。
 「乗せてください」手斧を持った眼鏡男が叫びながら窓を叩く。「人間です、乗せて!」
 金助が運転席の扉を開けようとした時、道の脇からゾンビが一体、飛び出してきた。
 悲鳴をあげる眼鏡男にゾンビが掴みかかる。
 金助は慌てて運転席から飛び出した。眼鏡男に馬乗りになっているゾンビの服を掴んで放り投げる。
 ゾンビはもんどり打って道の脇に転がっていく。
 「ありがとうございます、助かりました」
 「田舎の人間は都会のやつらと違って腕っぷしが強いからな」
 金助は、体勢を立て直してふたたび襲いかかってきたゾンビを蹴り飛ばしながら言う。あの地下アイドルの女に田舎を馬鹿にされたことへのあてつけだ。
 「金ちゃんうしろ!」銀次が助手席の窓から顔を出して叫んだ。
 金助が振り返る。
 目の前に、血で真っ赤に染まった乱杭歯があった。大きく口を開いた中年の男。魚が腐ったような生臭い息が顔にかかる。
 ──喰われる。
 「伏せてください」眼鏡男が叫ぶ。
 金助は反射的にしゃがんだ。頭の上を何かが通り過ぎていくのがわかった。金助の髪の毛がその風圧で揺れる。
 男の動きがとまった。よろよろと二、三歩後ずさったかと思うと、背中から地面に倒れた。首には手斧が突き刺さっている。
 動き出す気配はない。どうやら死んだようだ。
 「お前、意外とすげえな」金助が言う。「出身はどこだ?」
 「横浜です」
 「神奈川と言え」
 「そういうのいいから早く乗れって!」と銀次。
 金助は運転席に飛び乗った。眼鏡男も助手席のドアを開けて乗り込んでくる。
 三人を乗せた軽トラは再び急発進した。
 「なんでこっちに乗ってくんだよ」銀次が言う。助手席に二人も乗っているせいでかなり窮屈そうだ。「ふつう荷台に乗るだろ」
 「すみません。草がいっぱい積んであったので」
 荷台には牛たちに食べさせるための干し草が山のように積んである。
 どけりゃあいいだろ、という銀次の言葉を無視して眼鏡男が金助の方に顔を向けた。「そんなことより愛奈ちゃんを見ませんでしたか?」
 あの高飛車女、と言いかけて口をつぐむ。「俺たちは見てないな。はぐれたのか?」
 「広場がパニックになる前までは一緒にいたんですけど、逃げているうちにはぐれてしまって…。連絡もつかないし。きっとどこかで泣いているので、早く見つけてあげないといけないんです」
 「お前…、ええっと…」金助は眼鏡男に向けた人差し指を、もどかしげにくるくる回した。「名前なんだっけ?」
 「平岡です」
 「平岡、あの女はお前の彼女か?」
 「まさか、そんなんじゃありませんよ。愛奈ちゃんはアイドルで、僕はただのファンです。恋愛感情を抱いたことなんて一度もありません。僕はただ愛奈ちゃんが天下を取るところが見たいだけなんです」
 「嘘つけよ」と銀次。「狙ってもないのに、あんな高飛車女に尽くすやつなんていないよ。きれいごと言いやがって」
 「恋愛感情だけがすべてではないんです。あなたにも推しが出来たらわかりますよ」平岡はこの手の会話が嫌いなのか、なかば強引に切り上げて話題を変えた。「それよりお二人はどうして町に向かっているんですか」
 「そりゃあ島を救うために決まってんだろ」金助が言う。
 「救うってどうやって?」
 「どうやってって…」金助は口ごもる。
 軽トラは山道を抜けて平地へ出た。道の脇に畑やソーラーパネルが並ぶ畑道を走る。この辺りは住んでいる人間が少ないせいか、ゾンビの数も少ない。
 道の向こうには住宅街が見える。夜の暗闇の中で空が赤く燃えて、黒い煙が上がっている。
 言われてみればたしかに、どうすればいいのだろう。銀次に焚きつけられてここまで来たものの具体的なプランは考えていなかった。
 だが、金助の脳裏には美晴の姿がはっきりと浮かんでいた。
 「まずは美晴ちゃんを助けに公民館に行く」金助は言った。「俺はあいつの恋人じゃないけど、それでも助けに行かなきゃならねえ。あいつがゾンビになった姿なんて絶対に見たくねえからな。だから、お前の気持ちはわかるよ」
 金助の言葉に平岡は微笑んだ。「美晴さんのどんなところが好きなんですか」
 「まず顔がかわいい。それと自信家なところ、ガラが悪いところ、愛想がないところ…。とにかく全部だよ。あいつの全部がかわいくて、どんな願いでも叶えてやりたくなる」
 「その気持ち、わかります」と平岡が頷き、銀次は「顔がかわいい以外、悪口じゃないかよ」とつぶやく。
 軽トラが畑道を抜けて住宅街へと入っていく。
 さっきと比べてゾンビの数は急激に増えた。住宅地であることに加え、祭りで人出が多かったというのも原因の一つだろう。道のあちこちでゾンビがさまよったり、死肉を食んでいたりする。生きている人間は見当たらない。
 「ひでえな」金助がつぶやく。「まるで地獄絵図だ」
 道には腹を裂かれて死んでいる人や、体の一部などが点々と落ちている。窓を閉めているのに、むっとする生臭いにおいが車内に流れ込んできて吐き気がした。
 軽トラに気づいたゾンビたちが、人間の残骸を踏みつけながらこちらに走ってくる。剝き出しの歯、白濁した目、灰白色の肌。かつて人間だった者たちが追いかけてくる。
 ゾンビたちが軽トラの車体を叩く音がする。
 金助はアクセルを踏んでスピードを上げた。ハンドルを握る手に力がこもる。
 美晴は無事だろうか。彼女は凜と違って華奢で非力だから、ゾンビに襲われたらひとたまりもないはずだ。早く助けに行ってやらないと。
 「止まって!」平岡が叫び声をあげた。
 金助は慌ててブレーキを踏む。
 軽トラはブレーキの音を響かせ、一車線道路の真ん中で急停止した。
 「な、なんだよ、いきなり大声出しやがって」
 銀次が訊くが平岡は答えない。左手にある歩道を凝視している。
 金助も彼の視線につられて、歩道に目を向けた。
 点滅する街灯。横倒しになった居酒屋の看板。赤黒い血がぽたぽた滴っている植え込み。おぼつかない足取りで歩く浴衣の女。
 「ああ」金助はつぶやいた。
 民宿にいた女だ。平岡に冷たい態度をとっていた女。それでも平岡が天下を取らせてやりたいと言っていた女。その女が歩道を歩いている。白濁した目をギョロギョロ動かし、腹からこぼれ出た小腸を地面に引きずりながら。
 「行かないと」平岡が扉に手をかける。
 「待てよ」銀次が慌てて平岡の手首を掴んだ。「あんなのどう見てもゾンビだろ。行ったって喰われるだけだ」
 「それでも、行かないと」
 「馬鹿かよ、お前。あの女はお前の恋人じゃないんだろ。散々、冷たい態度を取られてたじゃないか。なのに行くとか意味わかんねえよ」
 銀次の言葉は平岡には届いていないようだ。彼はただじっと愛奈を見つめている。透き通った目、穏やかな目で。
 人生の大部分を占めていたものが失われた時、人は様々な反応をする。泣いたり怒ったり喚いたり。逆に平岡のように穏やかな表情を見せる者もいる。感情を波立たせないことで心が壊れてしまうのを防いでいるのだろう。あるいは、もう心が壊れてしまっているせいで感情がわいてこないか。
 「平岡…」金助が言う。「どうしても行かなきゃいけないのか」
 「愛奈ちゃんは怖がりだから、僕がそばにいてあげないと」平岡はそう言うと、金助と銀次に頭を下げた。「お世話になりました。僕はここで降りますが、お二人は生き延びてください」
 平岡が扉を開けて外に出る。愛奈に向かって歩いていく。
 金助は彼の背中に向かって言った。「平岡、俺たちはここにいるから、気が変わったら逃げてこい」
 平岡はくるりと振り返り、二人に向かってもう一度、頭を下げた。
 その顔を見て、もう戻ってこないな、と金助は思った。
 愛奈が平岡のもとに走っていく。
 平岡はただそこに立って愛奈を待っていた。
 金助たちには平岡の後姿しか見えない。だから彼がどんな表情を浮かべているのかもわからない。笑っているのか、泣いているのか、それとも何の表情も浮かべていないのか。
 見えるのは、愛奈だったものが平岡に襲いかかる姿。大きく開いた口、欠けた中指、血がこびりついた浴衣。
 愛奈の歯が平岡の首に沈む。手斧が地面に落ちる音。
 「クソッ」金助はアクセルを踏み込んだ。
 軽トラは夜の町を走る。風が強い。ヒュウヒュウ鳴く風の音が、平岡の悲鳴のように聞こえる。
 「金ちゃん、もしも美晴ちゃんがゾンビになってても、あんな真似はしないでくれよ」
 「わかんねえよ」と金助は答える。「その時になってみないと」


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