楽園へ 第5話
好きなもの。
京吾、かわいい弟だから。慧と金助、一緒にいて楽しいから。射的、当たると楽しいから。
嫌いなもの。
高い声と大きな音、耳をふさぎたくなるから。雷、京吾が怖がるから。墓地、危険だから。京吾が自分の前からいなくなること、これがいちばん怖い。
幸生は民宿の広間をそわそわと歩き回った。時計を見る。午後五時四十九分。窓を開けて外の様子を確認する。風がさっきより強くなってきた。空は分厚い雲に覆われている。じきに雨が降りだす。
家の前でチカチカと明滅する街灯が、幸生の不安をいっそう煽る。
なぜ京吾と慧は帰ってこないのだろう。一緒に祭りに行こうと約束したのに。
民宿には幸生のほかに誰もいない。しんと静まり返っている。けれど町の向こうからは喧騒が聞こえてくる。幸生は他の人と比べて耳がずっといい。だからその喧騒が祭りの賑やかさではなく、老若男女さまざまな人たちが発する悲鳴であることが、はっきりとわかる。
また不安になってきた。
窓を閉めて耳をふさぎたいけれど、つい耳を澄ましてしまう。折り重なる悲鳴の中に京吾の声が混じっていないか探してしまう。
幸生はチラシを握りしめてため息をついた。今日の祭りの案内が書かれたチラシだ。祭りのプログラムや、出し物、目玉イベントなどが載っている。赤いペンで囲われた射的の文字。一緒に行こうと約束したのに。
扉の開く音がした。
幸生ははっと顔をあげる。京吾が帰って来た。
立ち上がったところで幸生は凍りついた。
入ってきたのは京吾ではなかった。
男は幸生と目が合うと、「よう」と親しげに片手をあげた。
「京吾いる?」男が訊いてくる。
幸生は三歩、後ずさった。かかとが広間の壁に当たる。体がぶるぶる震えた。
「み、宮下くん」幸生が言う。
蛇みたいな目、口角だけ不自然に上げる笑い方、ロボットみたいに抑揚のない声。幸生は昔から宮下のことが苦手だった。いや、正確に言うと、車の前輪が幸生の頭を踏みつけたあの時から。
「京吾いるかって聞いたんだけどな」宮下が言う。「どこ? 京吾」
宮下が幸生の前に立つ。
幸生は亀みたいに首をすくめ、背中を丸めて、体を横に向けた。宮下と正面から向かい合っていたくなかった。自分の方が背が高いはずなのに、巨人に見下ろされているような気分になる。
「知りません。京吾がどこにいるか知りません」
宮下に髪をつかまれ、額を壁に叩きつけられた。
鈍い音が響いて幸生の体が畳の上に倒れた。頭がぐらぐら揺れる。視界がチカチカ点滅する。
「嘘つけよ。お前の弟だろ、知らないわけないよな?」
「僕知らないよ」
宮下が幸生の脇腹を蹴りつける。脇腹を、腕を、頭を、何度も何度も執拗に蹴り続ける。
全身が痛い。蹴られた場所が熱をもってじんじん痺れる。宮下がどうして自分にこんなことをするのか、わからない。何もわからない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、体の動かし方すらわからなくなる。幸生は畳の上にうずくまり、何度も叫び続ける。知らない、知らない、知らない、知らない…。
*
宮下は六年ぶりに小学校時代の同級生である幸生と再会したが、何の感情もわいてこなかった。幸生の脇腹を蹴り上げた時も、幸生の腕に熱湯をかけた時も、とくに何も感じなかった。
そもそも宮下には幸生との思い出がたった一つしかない。
小学生の頃に、幸生の背中を突き飛ばしたことだけだ。
突き飛ばされた幸生は、金物屋の親父が運転する軽自動車に頭を轢かれた。けたたましいクラクション。ゴムの焦げる臭い。血まみれの幸生。鼻や口だけでなく耳からも血がどくどく流れ出ていた。
宮下がそのせいで捕まることはなかった。目撃者がひとりもいなかったからだ。金物屋の親父ですら幸生が突き飛ばされた瞬間を見ていなかった。携帯電話をいじっていたから。
当の幸生も突き飛ばされたことを誰にも言わなかった。覚えていないのか、それとも宮下からの報復を恐れたのかはわからない。
宮下と幸生の思い出はその一つだけだ。遊んだこともなければ話したこともない。ほんの一瞬、宮下の掌と幸生の背中が触れた。それだけだ。
だから宮下が何も思わないのは当然のことだった。
宮下は京吾の家から盗んできた車を運転しながら、あくびをした。
あちこちから悲鳴が聞こえてくる。男の声、女の声、恐怖の声、断末魔の声、その他いろいろ。南の空が真っ赤に染まっている。時々、風に乗って焦げ臭いにおいが運ばれてくる。
ものすごいお祭り騒ぎだ。人生のほとんどの時間をこの島で過ごしたが、こんなに血生臭くて熱狂的なのは初めてだ。
宮下はさほど恐怖を感じていなかった。むしろ興奮を覚えている。だってこの騒ぎに乗じれば、強盗でも強姦でも殺人でも何でもやりたい放題なのだから。
宮下はポケットに入っていたチラシを取り出して広げた。さっき京吾の民宿で見つけたものだ。うずくまって叫び声をあげる幸生のそばに落ちていた。
チラシの右下に、このあいだ道で見かけたかわいい女──美晴という名前らしい──が写っている。青い法被を着て、缶ジュースを手に持って、こちらに笑いかけている。公民館の前でジュースとクッキーを販売しているらしい。
あの民宿で京吾が帰ってくるまで待つつもりだったが、気が変わった。
まずはこの女に会いに行く。この女がゾンビになってしまう前に。京吾のことはその後でゆっくり探せばいい。
六時の時報が流れる。
宮下はスピーカーから流れる曲に合わせて鼻歌を歌う。
今日はなんて素晴らしい日なんだろう。
