楽園へ 第18話
凜は遠ざかってゆく人影を見つめた。京吾と慧と宮下の姿がどんどん小さくなり、やがて見えなくなる。心臓がバクバク言っている。ゾンビに追いかけられているからではない。理由はわかっている。
彼らの前を走り去る直前、京吾と目が合った。あのすがるような目が頭から離れない。
「ほんとにこれでよかったの? また…」凜は途中で口を閉じた。京吾たちを置いていった、とは言えなかった。自分もそれに加担したから。
「馬鹿野郎、泣きそうな顔してんじゃねえ」金助は左腕の痛みに顔を歪めながら言う。「戦略的撤退ってやつだ。こっから反撃すんだよ。おい銀次、港に向かえ。アクセルベタ踏み、スピードマックスで行け」
「港なんか行ってどうすんだよ、金ちゃん?」
「軽トラで轢き殺せないなら、大型トラックで轢き殺せばいいんだよ」
「ああ」と凜は思い出したようにつぶやいた。
ここから十五分ほど走った港の近くには、運送会社の営業所がある。そこには常に数台の大型トラックが停まっていたはずだ。金助はそれで宮下に突っ込もうと言っているのだ。
実に金助らしい、何のひねりもない強力な解決策だ。
「あいつが弱ってる今がチャンスだ。絶対に美晴ちゃんの仇を取るぞ」
「オーケー金ちゃん」
銀次は軽トラを右折させた。港とは逆方向に走っていたので方向転換する必要があった。
凜は荷台にしがみついた。軽トラはぐんぐんスピードを上げる。激しい雨が頬を叩く。軽トラはあっという間に海沿いの道に出た。
うしろを振り返ると京吾と宮下が闘っているのが遠くに見えた気がした。すぐに助けに行くからすこしの間、持ちこたえていてと心の中でつぶやく。
しかし凜の思いとは裏腹に軽トラはすこしずつ減速して停車した。
荷台を振り返る銀次と目が合う。彼は青ざめた顔で前方を指さした。
道の向こうで蠢くゾンビの影。二十体はいるだろうか。自転車で石段を駆け降りる銀次を追いかけて、転がり落ちてきたゾンビたちだ。凜ら三人が乗る軽トラの進行を阻むように、道の上に立ってゆらゆらと体を揺らしている。
そのゾンビたちの向こうでは、道の真ん中に黒いセダンがこちらを向いて停まっている。軽トラならば脇を通り抜けることができるが、大型トラックだと不可能だろう。営業所からバーバラまでトラックを持ってくるためには、あのセダンをどかさなければならない。
「お前らはここにいろ」金助が言う。「俺があのセダンをどかしてくる」
「待って」凜は金助を制止した。「わたしが行く」
「何言ってんだ馬鹿、俺の方が強いんだから俺にまかせろ」
「みんな闘ってるのに、わたしだけ何もしていないの」
公民館でゾンビに襲われそうになった時、美晴が必死になって守ってくれたのに、自分はただ怖くて震えていた。美晴が宮下に襲われそうになった時も、ただ気絶しているだけだった。
「今さら遅いかもしれないけど、わたしも闘いたい。ううん、闘わせて。でないと美晴に顔向けできない」
「凛…」金助はしばらく彼女の顔を見ていたが、やがてうなずいた。「わかった、行ってこい。ヤバそうになったら俺たちがすぐに助けに行く」
凜はそっと軽トラからおりた。手にはバーバラから持ってきた包丁を握りしめている。
ゾンビまでの距離は八メートルほど。まだ気づかれた様子はない。ポケットからスマホを取り出して、前方の砂浜に投げる。スマホは画面を上に向けた状態で砂浜に落ちた。
軽トラのそばに身をかがめて息をひそめる。凜は銀次に向かって、彼女のスマホに電話をかけるように合図をした。
スマホの着信音が周囲に鳴り響いた。画面の明るさも音量も最大にしてあるため、凜のスマホは真っ暗な砂浜の上でゾンビたちを引き付ける誘蛾灯の役割を果たした。
ゾンビが一斉に砂浜に顔を向けたかと思うと、そちらに向かって駆けだした。堤防を飛び越えて、我先にとスマホに駆け寄る。あっという間に、道からゾンビがいなくなった。
凜はセダンに向かって走った。運転席のドアを開けて中に滑りこむ。
扉を閉めたところで突然、左肩をつかまれて凜は悲鳴をあげた。
後部座席に女が乗っていた。目が白濁している。生きている人間でないことはすぐにわかった。
女は運転席と助手席の間から身を乗り出して、凜に噛みつこうとしてくる。
凜は女の髪をつかんで、噛まれないように体を反らす。しかし女はどうにかして喰らいつこうと歯をむき出しにして迫ってくる。もみ合っているうちに肘がハンドルに当たって、けたたましいクラクションが鳴り響いた。
視界の端で、砂浜にいたゾンビたちがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。せっかく砂浜におびき寄せたのに、また戻ってきたら意味がない。
凜は握りしめた包丁を女の首に突き刺した。ずぶ、と刃が肉に沈む感触が包丁越しに伝わってくる。
女は激しく痙攣する。凜は包丁をさらに深く押し込んだ。
女は首をガクンと垂れて動かなくなった。
凜は後部座席に女の死体を放ると、ハンドルを握った。ゾンビたちが堤防の階段を駆け上がってくるのが見える。
セダンを勢いよくバックさせる。Uターンさせる時間すら惜しい。
リアウインドウでうしろを確認しながら車を走らせる。ここは美晴を車に乗せて何度も通ったことのある道だから、うしろ向きだろうが十分走れる。金助たちを乗せた軽トラがセダンのあとをついてくるのが気配でわかる。
けれど今は前を向いている余裕はない。リアウインドウ越しに見える景色に全神経を集中させる。
遠くに営業所が見えた。凜はスピードを上げた。勢いそのままに営業所の敷地内に乗り入れる。駐車場に大型トラックが三台停まっているのが見えた。事務所からすこし離れたところでセダンを停車させる。
周囲にゾンビがいないことを確認してから凜は運転席からおりた。すこし遅れて金助と銀次が彼女のもとにやって来る。
狭い事務所の引き戸は開け放たれていた。
床には書類が散乱し、椅子が横倒しになっている。窓には茶色く乾いた血がべっとりとついている。荒らされた事務所内にはゾンビが七体いた。運送会社の制服を着ている者が三体、浴衣を着ている者が二体、私服の者が二体。
トラックのエンジンキーをしまうキーボックスは入り口の対角線上の奥にあった。キーボックスの蓋は閉まっている。おそらくこの事務所のどこかに蓋の鍵があるはずだ。
「わたしが囮になる。ふたりはその間にトラックのキーを持ち出して」
「馬鹿言うな。お前ばっかりにやらせられるか」
「言い争ってる暇はないの。金助、その武器貸して」
凜は金助から手斧をなかば奪い取る形で借りると、ふたりに計画を説明した。
「凛…」
「いいから行って。わたしなら大丈夫だから」
凜は金助と銀次の背中を押した。いつか美晴がそうしてくれたように。
事務所の入り口から六、七メートルほど離れたところに立ち、ふたりが軽トラに乗り込むのを見守る。手斧を持つ手が震えている。大丈夫だと自分自身に何度も言い聞かせる。金助たちが鍵を取ってくるほんの少しの時間だけゾンビを引きつけていればいいのだ。
軽トラが事務所の入り口のわきに停まる。音に反応したゾンビたちが外に転がり出てくる。彼らは軽トラのまわりに群がって車体を叩きはじめた。
凜はゾンビに向かって叫んだ。「こっちに来なクソ野郎共。全員まとめてぶっ殺してやる」
ゾンビが一斉にこちらを向き、駆け寄ってくる。
凜はとっさに数を数えた、一、二、三、…。あの事務所内にいた七体のゾンビが凜だけを見すえて走ってくる。ゾンビの向こうで、金助たちが事務所に飛び込むのが見えた。事務所の扉が閉まる。
これでいい。あとは自分が彼らを引きつけておくだけだ。
凜は走り出した。
ゾンビは水しぶきをあげながら追いかけてくる。足音はすこしずつ近づいてくる。顔だけで後ろを振り返る。若い男のゾンビがすぐそばまで来ているのが見えた。手を伸ばせば届きそうなほど近い。
凜は脚力には自信があったが、女の筋力ではどう足掻いたって男には勝てない。金助たちが鍵を持ち出すまで逃げ回っているのは不可能だ。だから策略が必要だ。自分の方が有利な場所に誘い込んで迎え撃つ必要がある。
凜は大きく円を描くようにUターンした。
事務所のわきに停まっている軽トラに向かって走る。うしろからはゾンビの足音。さっきよりも近い気がする。今にも彼らの息が首にかかるのではないかと不安になる。
大きく息を吸い込む。
右足で地面を力強く蹴って軽トラの荷台に飛び乗った。荷台にできた水たまりに足を滑らせて尻もちをつく。すばやく体勢を立て直すと、凜は軽トラのルーフにのぼった。
ゾンビが軽トラに突進してくる。
軽トラがガタガタと激しく揺れてあやうく落ちそうになった。慌てて事務所の出入り口の上に設置されている庇に手をついて体勢を整える。振り返ると、一体のゾンビが荷台に飛び乗るのが見えた。
凜は足をつかもうとしてきたゾンビを蹴り飛ばす。両腕に力を込めて庇にのぼった。立ちあがり、手斧を構える。
荷台には何体ものゾンビが乗っている。彼らはお互いを押しあいながら、庇の上にいる凜に向かって襲いかかろうと手を伸ばしている。
男のゾンビがほかのゾンビを乗り越えて軽トラのルーフの上にのぼった。庇に手をついてのぼってこようとしている。
凜はその男の首めがけて手斧を振るった。刃が首に沈む感触。
男はガクンと首を右に傾けたかと思うと、激しく痙攣しはじめた。
凜は男の顔を足で蹴って手斧を引き抜く。男はバランスを崩して地面に落下した。
ゾンビたちは息をつかせる間もなく次々と襲いかかってくる。
二体目も、一体目同様に首に手斧を突き立てて殺した。
三体目の女の首めがけて斧を振るったが、刃は女の左肩に食いこんだ。悪態をつきながら手斧を引き抜こうとする。しかしゾンビが暴れてうまく抜けない。疲労のせいで手に力が入らないのも原因の一つだ。
力任せに引き抜くと、手斧が勢いあまって手からすっぽ抜けた。手斧は大きな音を立てて軽トラのそばの地面に落ちた。
しまった。絶望に目を見開く。
凜は後ずさった。かかとが庇から落ちそうになって、はっと体勢を立て直す。
手斧に目をやる。ここから飛び降りて拾いに行くか? いや、二メートル以上の高さから飛び降りて、ゾンビに噛みつかれる前に手斧を拾いあげるのは、とても不可能だ。
女は、ルーフに群がってもみくちゃになっている他のゾンビたちを踏み台にして、今まさに庇の上にあがろうとしている。
ふいに凜の脳裏に公民館での光景がよみがえってきた。凜を守るために、階段を駆け上がってくるゾンビと一人で闘っていた美晴の姿。
凜は歯を食いしばった。こんなことで泣きごとを言っている暇はない。
女が庇の上に立って、凜に向かって奇声をあげる。
凜はレスリング選手のように姿勢を低くすると、襲いかかってきた女にタックルをかました。
女は庇から荷台にゴロゴロと転がり落ちた。
もう一体、庇にのぼってこようとしている男がいる。そいつの顔面に蹴りを入れた。しかし男はまったく怯む様子がない。
男の手が凜の右足首をつかんだ。
凜はバランスを崩して尻もちをつく。
大きく口を開けて喰らいつこうとする男の顔を、左足で蹴る。二度、三度、続けざまに蹴るが男はまったく手を放そうとしない。ものすごい力で凜を庇から引きずり降ろそうとしてくる。
庇のへりをつかんでなんとか抵抗するが、凜の体はすこしずつ男の方に引きずられていく。
凜は悲鳴をあげた。左足で何度も男の顔を蹴る。だが男の手はいっこうに放れない。何本もの手が凜の体に向かって伸びてくる。
その時、けたたましいクラクションの音が響き渡った。
音のした方に目を向けると、金助がトラックの窓から上半身を乗り出しているのが見えた。
「凜に気安く触ってんじゃねえぞクソゾンビが。こっちに来やがれ」
叫び声を聞いたゾンビたちが、一斉に金助に向かって走り出す。
凜はその隙に庇から飛び降りた。すぐさま銀次が運転するもう一台のトラックに乗り込む。
金助を先頭に、二台のトラックはエンジン音を唸らせながら雨の中を走る。
いつの間にか風が止み、空がさっきよりも明るくなっていた。
