楽園へ 第13話
横殴りの雨が体を濡らす。黒く分厚い雲の中で青い稲妻が光っている。はるか向こうには海が見える。とぐろを巻いてうねる真っ黒い波。
屋上の真ん中で京吾は深く息を吸い、吐き出した。
ここに来るのは人生で二度目だ。一度目は小学三年生の頃。鬱屈した人生の中にはじめて希望を見出したあの日、ここからグラウンドを見下ろした。京吾の人生はこの屋上から始まったと言っても過言ではない。
ここから始まり、ここで終わる。
一歩、足を踏み出そうとしたところで、屋上の扉が開く音が聞こえた。
振り返ると男が立っていた。暗くて顔がよく見えない。焦点の合わない目を細める。雷鳴がとどろき、青白い稲光が男の顔を照らした。
「宮下、…?」京吾は目を見開いた。「お前、死んだはずじゃ…」
宮下は無言でこちらに歩み寄ってくると、いきなり京吾の顎をつかんだ。まじまじと京吾の顔を観察する。
京吾は振り払おうとしたが無理だった。普通の人間では考えられないような力だ。左頬の肉が裂けた恐ろしい顔貌が近づいてくる。息がかかるほど近い。
「よかったよ、まだ人間でいてくれて」
宮下はそう言うと京吾に足払いをかけた。
弱りきっていた京吾の体はあっけなくバランスを崩す。宮下は仰向けに倒れた京吾の胸を踏みつけてきた。
京吾は思わず顔を歪めた。宮下の足から逃れようともがくが、体に力が入らない。肺が圧迫されて息が苦しい。無意識のうちに、酸素を求めて首を反らしていた。すると無防備になった喉仏に宮下の蹴りが飛んできた。
一瞬、呼吸ができなくなる。京吾は体を丸めて激しく咳き込んだ。
「安心しろよ、殺しはしないから。ゾンビになるまでじっくりいたぶってやる」宮下は京吾の側頭部に右足を置いた。足にゆっくり体重をかける。思いっきり踏み潰したくなる衝動をこらえて。「ゾンビになったら、幸生と慧のところに連れて行ってやる。お前があいつらを殺すんだ。その歯であいつらの柔らかい首筋に噛みついてやれ」
「殺してやる」京吾は呻くような声で言った。「お前だけは殺してやる」
宮下をにらみつける。折れそうになるほど歯を食いしばった。体が怒りで震える。この男の口から慧と幸生の名前が出てきたのが許せなかった。
京吾は宮下の右足首を両手で掴んだ。が、宮下の足はピクリとも動かなかった。抵抗できない自分が情けなく、どうしようもなく腹が立った。
半笑いでこちらを見下ろす宮下の顔。自分よりも弱い人間をいたぶって楽しんでいる人間の下卑た笑み。
その時、ガンッと大きな音が鳴って宮下が体をのけ反らせ、そのまま尻もちをついた。
慌てて体を起こすと目の前に慧が立っていた。慧は木の椅子を手に握っている。それで宮下の顔を殴ったのだとわかった。
「慧…どうしてここに」
「助けに来た以外に何があるんだ」
「ここに居ちゃ駄目だ。俺が何のためにここに来たと──」
慧は京吾に視線を向けて微笑んだ。「もう遅いよ」
宮下が舌打ちをしながらゆっくりと立ち上がる。蛇のような冷酷な目で慧を見据える。お楽しみの時間を邪魔されたことで苛立っているのだろう。
京吾は慧の腕を引いて二、三歩後ずさった。宮下の背後に目を向ける。扉まではおよそ六メートル。
頭をフル回転させる。どうすればこの弱った体で慧を守れるか。どうすればここから慧を逃がせるか。
だがどれだけ考えても、ふたりが助かる方法は思いつかなかった。無残に殺される姿しか頭に浮かんでこない。今の京吾には慧を守る力はおろか、囮になる体力すら残っていないのだ。
さっきまでは死ぬのが怖かった。だが今は死への恐怖などみじんもない。それよりも慧が殺されることの方がずっと怖い。慧が死んだら、きっと自分は正気ではいられなくなる。
慧が宮下の顔めがけて椅子を振るう。
宮下はそれを片手で受け止めた。宮下に掴まれたスチール製の椅子の脚が、水あめのようにぐにゃりと曲がる。宮下は椅子ごと慧を脇へ放り投げた。
慧の体が三メートルほど向こうに吹っ飛ばされる。椅子がコンクリートの地面に当たってけたたましい音を立てた。
「慧!」
慧のもとに駆け寄ろうとした瞬間、宮下に首をつかまれた。思わず呻き声が漏れる。
宮下がゆっくり腕を持ちあげると京吾の足が地面から離れた。
京吾は宮下の腕をつかんで足をばたつかせるが、逃れることができない。うまく息が吸えない。苦しい。意識が遠のきそうになる。
「苦しいか? 助けてほしいか?」宮下が訊く。楽しそうな笑みを浮かべている。「だったら慧を噛め。そうすればお前だけは見逃してやる。お前らの友情が壊れるところを俺に見せてくれ」
「本当に哀れだな」京吾はせせら笑う。「友達のいないお前からしたら友情なんてものは、まやかしにしか見えないもんな。だから俺たちに証明してほしいんだ。友情なんか嘘っぱちだ、友達なんか必要ないって」
宮下の頬がぴくりと引きつる。
京吾は視界の端で、慧が立ちあがるのをとらえた。
どうかそのまま出口に走ってくれと願う。自分が宮下の注意を引きつけているうちに。友情なんていらないから、見捨ててくれてかまわないから、どうか。
「かわいそうな宮下」京吾は宮下の顔の前に人差し指を突きつける。「誰からも見てもらえない透明人間。なんだったら俺がお前の友達になってやろうか」
宮下の顔色がさっと変わった。宮下の手が京吾の首から離れる。
京吾は地面に尻もちをついた。すると顔面に宮下の蹴りが飛んできた。
体がうしろに吹っ飛び、屋上を囲う金網フェンスに背中を強打した。思わず咳き込む。老朽化したフェンスがガタガタと揺れた。
顔をあげる。朦朧とする景色の中で、椅子を持った慧が宮下に殴りかかろうとするのが見えた。
宮下は体を引いて椅子を避けると、慧の腹に思いっきり蹴りを入れた。
慧の体が吹っ飛んで、京吾のすぐ横のフェンスに激突する。バキッと大きな音が鳴って錆びた支柱が真っ二つに折れた。
京吾にはすべてがスローモーションのように見えた。
支えを失った金網は、慧とともにうしろに倒れる。慧の体が屋上の外に投げ出される。大きく目を見開いた慧と目が合った。
「慧!」
京吾は気がつくと地面を蹴っていた。
慧を追って屋上のへりから、何もない真っ暗な虚空へと飛び出していた。
恐怖など感じている暇はなかった。
体が落下する。冷たい風が頬を切る。プールに飛び込む時のように下を向いて、手を伸ばす。目の前にいる慧に向かって。
地面はもうすぐそこまで迫っている。
指先を限界まで伸ばす。あと一センチ。
右手が慧の腕をつかんだ。力いっぱい引き寄せて慧の体を抱きかかえる。
京吾は体をひねって体勢を変えた。自分の体が下になるように、慧のクッションになるように。
「京吾っ…」
恐怖に引きつった慧と目が合った。
京吾は慧の髪を優しくなでて微笑んだ。
*
非常階段を駆け上がる。二階を通り過ぎ、三階へ向かう。慧の姿はない。もう屋上についたのだろうか。それとも。
金助は嫌な想像を振り払うように「クソッ」と悪態をついた。余計なことは考えない。ただひたすら足を動かす。
金属製の階段を靴の裏で打ち鳴らす。自分自身を鼓舞するように。
うしろから凛と幸生がついてくる気配がする。かなり遅れている。しかし待ってなどいられない。一秒でも早く屋上に行かなければならない。
三階の踊り場まで来た時だった。
グラウンドの方からものすごい音が聞こえてきた。
思わず足を止めて柵から身を乗り出す。音のした方に顔を向けると、グラウンドに何かが落ちているのが見えた。
降りしきる雨の向こうに目を凝らす。金網のフェンスと、その上に折り重なるように倒れている二人の人間。
「慧! 京吾!」金助は思わず叫んでいた。凜や幸生に知らせるためなのか、それとも混乱した頭を整理するためなのか、自分でもよくわからなかった。「あいつらがグラウンドに倒れてる。助けに行くぞ。早くしないとゾンビに喰われる」
*
宮下はグラウンドを見下ろした。
京吾と慧が折り重なるように倒れている。
舌打ちをする。ひどく胃がムカムカしていた。わけのわからない感情。憎んでいた相手をようやく殺したのに、すこしも達成感を感じない。それどころか妙な虚しさにとらわれている。
地獄の苦しみを味わわせることができなかったからか、いっそのこと殺してくれと懇願する京吾の顔が見られなかったからか。それとも、最後の最後にクソくだらない友情を見せつけられたからか。なんにせよ、胸の、心臓のあたりにモヤモヤした灰色の何かがわだかまっている。
宮下は叫んだ。その声は雷鳴にかき消されたが、ほんのすこしだけ気分が晴れた気がした。
ふと宮下の目に、歩道を走る女の姿が飛び込んできた。
美晴だ。保健室にいろと言ったのに。宮下は屋上から飛び降りた。京吾の死体のすぐ脇に着地する。
一体のゾンビが向こうから、京吾たちの方へ一直線に走ってくる。宮下は男の顔をつかんで地面に叩きつけた。
仰向けに倒れた男の顔を思いっきり踏みつける。男の顔が潰れて、左右の眼球が眼窩から両脇に飛び出した。デメキンみたいな滑稽な顔。宮下は思わず笑う。笑ったあとで困惑した。放っておけばよかったのに。こいつの死体が喰い荒らされたところで、不都合なことなどひとつもないのに。心臓のモヤモヤがまた戻ってきた。
