楽園へ 第3話

 *十二年前

 京吾が自身の出自についてはじめて知ったのは小学三年生の時だった。
小学校の廊下を歩いていると、突然うしろから背中を押された。つんのめった京吾はとっさに窓枠をつかんだ。顔をあげると、二人の少年が京吾の前に立っていた。いつも京吾をいじめていた二人だ。
 「キンシンソウカン!」
 彼らは京吾に向かってそう言うと笑いながら走って行った。
 聞きなれない言葉だった。たぶん彼ら自身も意味はよくわかっていなかったのだと思う。大人が使っていた言葉を音で聞いて、そのまま京吾にぶつけたような感じだった。けれど侮蔑的な意味を含んでいることだけはわかった。
 京吾はその日の昼休みに、図書室でその言葉を調べてみた。理由はとくにない。ただなんとなく気になったのだ。今思うと調べない方がよかったのかもしれない。
 辞書には、親子・兄弟間など血縁関係の近い男女の間で性的交渉が行われること、と書いてあった。
 足元の地面が音を立てて崩れ落ちるような感覚に襲われた。
 ふいに仏間にある母の位牌が頭に浮かんできた。あまりにも当たり前のことで今まで気にもとめていなかった。子供は母親の腹から生まれてくるものだと信じていたから。
 だから没年月日が、京吾の生まれる年よりも前であることにその時はじめて気がついた。母が死んだのは十一年前。幸生を産んですぐの頃だ。
 要するに自分は父と姉との間にできた子供だったのだ。
 そのことに気がついた途端、今まで大人たちが自分に向けてきた視線の意味を理解した。いつも優しい先生も、子供たちに昔の遊びを教えてくれる用務員のおじさんも、京吾にだけは笑顔を向けてくれない。
 彼らだけでなく、この島のほとんどの人間がそうだった。明確に敵意を向けてくる者、汚らわしいものでも見るような目つきで見てくる者。反応はそれぞれ違ったがどれも似たようなものだった。
 そうか、と京吾は思った。自分は生まれてくるべきではなかったのだ。

 *

 宮下は二階の部屋の窓から、家の前の通りを見下ろした。
 日がとっぷり暮れている。
 鬼の面をかぶった男が踊りながら歩いている。色あせた赤い肌に耳まで裂けた口、大きな角。くすんだ金色の目玉が街灯の光に照らされて、鈍い光を放っている。
 鬼が体を左右に揺らすたびに、お面がカタカタと鳴る。手に持った松明から火の粉が舞う。
 そのうしろを爺がふたり、独特の節回しの祝詞を唱えながら歩いている。
 それぞれの手には鞘に納められた刀と松明が一本ずつ。刀を指揮棒のように降って鬼を追い立てている。
 彼ら以外に人の姿はない。外に出てはいけないという決まりを、みんな律儀に守っている。
 退屈極まりない儀式。
 いっそ上から水でもぶっかけてやろうか。そっちの方が祭りらしくて楽しそうだ。そんなことを考えていた宮下の目に、面白いものが飛び込んできた。
 鬼と爺のうしろ、少し離れた場所に人がいる。
 長い髪の内側をピンク色に染めた女だ。右手に動画撮影用のカメラを持って三人のあとをコソコソつけている。
 宮下はすぐに立ち上がり、一階へ駆け下りた。
 気づかれないように家を出る。闇に紛れながら五メートルほど間隔を空けて、女のうしろについた。
 生ぬるい風が吹いている。
 女は儀式に夢中でこちらに気づいた様子はない。
 体格は華奢だが胸はけっこうある。顔もなかなかかわいい。短いTシャツの裾から時々のぞく白い腰が、宮下の欲情をあおる。
 今すぐにでも犯してやりたい。でも、まだ駄目だ。
 それぞれは一定の距離を保ちつつ進む。
 儀式は終盤に近付いていたようで、鬼はまっすぐに四季山に入っていった。
 山道は舗装されておらず、街灯もない。自分の腕の先すらも見えないほどの暗闇が広がっている。
 宮下は幾度となくこの森に来たことがあったので、進むのは容易だった。
 しかし女の方はそうとう苦労しているらしい。何度もつんのめっては、はっと体を硬直させ、神職たちに気づかれてはいないかと様子をうかがっている。
 普段は閉鎖されているフェンスが、今夜だけは開いている。古びた灰色の鳥居をくぐる。ここから先は禁足地だ。
 鳥居の奥には石祠がある。そのうしろには穴がぽっかりと空いている。昔はここに水が溜まっていたのだが、今は干からびてしまっているらしい。
 神職たちは石祠の前で祝詞をあげ、女は木の陰にしゃがんで、その様子を夢中で撮影している。
 不思議なことに鳥居をくぐった途端、風が止んだ。鳥の声も虫の声もない。自分の押し殺した息づかいと、祝詞の声だけが響いている。
 しばらくすると神職たちは祝詞を終えて帰って行った。
 女は神職たちの姿が完全に見えなくなったのを確認してから、そっと木の陰から出た。懐中電灯で足元を照らしながら、一歩一歩、確かめるようにして石祠の方に歩いていった。
 宮下も立ち上がった。足元の草が、がさっと音を立てる。が、宮下は気にも留めずに、早足で女の方へと歩いていった。こんな山の中ではどれだけ叫ばれようが、誰かに聞かれる心配はないのだから。
 女がこちらに懐中電灯を向けている。
 宮下は光に向かって走り出した。
 久しぶりに女が抱ける。そう思うと自然と笑みがこぼれた。
 女が恐怖に目を見開いている。
 たまらない。一秒でも早くヤりたい。
 女が一歩後ずさったかと思うと、女の体のバランスがぐらりと崩れた。
 宮下の視界から女の姿が消える。
 「きゃっ」という悲鳴が下から聞こえてくる。
 一瞬遅れて、女が穴に落ちたのだと気がついた。宮下は穴のふちから見下ろした。
 女は、地面に転がっている懐中電灯の光が照らし出す先を凝視している。女が絶叫する。
 宮下は思わず顔を歪めた。女の悲鳴は嫌いだ。一秒だって聞いていたくない。
 「うるさい」宮下は女に言う。「黙れ」
 しかし女はなおも悲鳴をあげ続ける。過呼吸になったみたいに何度も浅く呼吸をしながら、フォークでお皿を引っかいたような、高くて不快な声をあげ続ける。
 宮下は穴の中に飛び降りた。ぬかるんだ地面が、ばしゃっと音を立てた。大股で女に近づくと、その顔面を蹴り飛ばした。
 女が「げっ」と呻き声を漏らして倒れる。当たり所が悪かったのか、鼻の穴から夥しい量の鼻血が流れ出した。それなのにまだ悲鳴を止めない。
 宮下は女をうつ伏せにさせると、女の顔を地面に押しつけた。女の背中に馬乗りになった状態で、女の後頭部を両手でつかみ、全体重をかける。
女が体をばたつかせるたびに泥の飛沫があがる。
 宮下は女を殺そうなんて気はさらさらなかった。ただ単に黙ってほしかっただけだ。泥で口をふさげば静かになるだろうと思ったから、そうしただけだ。
 だから女が動かなくなった時、宮下はうろたえた。
 おそるおそる女の体をひっくり返して仰向けにさせる。
 女はどう見ても死んでいた。焦点のあわない虚ろな眼球が空を見ている。半開きになった口にも鼻の穴にも泥が詰まっている。
 宮下は頭をかきむしった。残念な気持ちでいっぱいだった。これではヤれない。自分に屍姦の趣味はない。宮下は、恐怖に見開かれた女の瞳に、自分の姿を映すのが好きだ。そうすることで、自分が透明人間ではないのだということを実感できる。
 だから、ただの肉塊と化した女には興味はない。
 宮下は舌打ちをして立ち上がった。
 そこでふと彼の目に、異様なものが飛び込んできた。
 懐中電灯の光の中に、黒い人間がうずくまっている。さっき立っていた穴のふちからは死角になっている場所だ。
 宮下は懐中電灯を拾いあげてそちらに近づいた。
 死体だ。
 教科書に出てくる百姓のような、真っ黒く汚れた服を着ている。長い髪と体型からして若い女のようだ。祈るように左右の指を組み、穏やかに目を閉じている。肌は炭を塗りたくったみたいに黒く変色していて、試しに懐中電灯の柄で叩いてみると、コツコツと固い音がした。
 ミイラだろうか。だがそれにしては干からびていない。まるで蝋人形のようだ。ついさっき死んだばかりのような、生々しさをたたえている。
 これか。これを見て、あの女は悲鳴をあげたのか。
 納得すると同時に、無性に腹が立ってきた。
 宮下はミイラの頭を思いっきり蹴った。
 木が軋むような音を立てて、ミイラの首が折れた。うずくまった体は横向きに地面に倒れ、首は少し離れたところに転がった。
 それでようやく腹の虫はおさまった。
 宮下は穴から這い出ると、山を下りていった。二つの死体が転がる穴を振り返ることは一度もなかった。
 だから宮下は気がつかなかった。
 首をもがれた死体が、わずかに動いたことに。

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