楽園へ 第6話
息が苦しい。喉が焼けるように熱い。心臓が恐ろしい速さで拍動している。広場からここまでずっと走り続けているせいで、足が棒のようになっている。だが、立ち止まるわけにはいかない。
京吾と慧は走り続ける。彼らを突き動かしているのは恐怖だ。今まで味わったことのない恐怖が彼らを急き立てる。
京吾はうしろを振り返った。
歯をむき出しにしたゾンビたちが追いかけてくる。十体はいるだろうか。狭い一本道を押し合いながらこちらに走ってくる。
距離は八メートルほど。さっきよりも距離が縮まっている。追いつかれるのは時間の問題だ。
隣を走っていた慧が突然立ち止まった。
「クソッ」と呻き声を漏らして前方を見つめる。
その視線の先にゾンビがいる。三体。死んだ人間の内臓を引きずり出して喰っている。
ふたりが気づいたのとほぼ同時に、その三体が顔を上げる。口の端からどろりとした血が、糸を引いて滴り落ちる。彼らは蛇のような警戒音を発すると、京吾たちに走り寄ってくる。
背後からもゾンビが迫ってくる。
ふたりが立っているのは高いブロック塀に囲まれた場所なので他に逃げ場はない。
「上だ!」京吾は塀を指さす。「登れ!」
塀に手をかけて登ろうとする慧の尻を、京吾が下から押し上げる。
その間にも両側からゾンビが迫ってくる。
慧が塀に登ったのを確認してから、京吾は塀に手をかけた。壁に足を引っかけようとするが、滑ってうまくいかない。
「京吾、急げ」
ゾンビの足音はもうすぐそこまで迫っている。
ようやく靴の先が、壁の割れ目に引っかかった。そこに体重をかけて体を持ちあげる。
京吾が塀の上に上半身を乗せたところで、足を掴まれた。引きずり降ろされそうになる。足を振るい、ゾンビの顔を蹴り飛ばして引き剥がす。
慧に襟首を引っ張られて、京吾はなんとか塀の上にあがった。
ふたりは民家の裏庭へと飛び降りた。
塀の向こうから、血の気のないゾンビの手が無数に伸びてくるのが見えた。京吾たちを捕まえようと、塀の壁を爪で引っかいている。が、乗り越えてくる様子はない。どうやら彼らに知能はなく、ただ本能のままに目の前の獲物を襲うだけの存在らしい。
ふたりはその場に座りこんだ。肩で息をして呼吸を整える。
どちらもしばらく黙りこんでいた。今この島で起きている現実離れした出来事について考え、受け入れる時間が必要だった。
それから少ししてから、京吾は立ちあがった。庭の隅に転がっていたショベルを手に取る。アルミ製で軽いが、先が尖っていて長さもある。十分武器になりそうだ。
「京吾?」慧が小声で呼びかける。「何する気だ?」
「家に帰るよ。お前はここに残ればいい。そこの人に頼んで匿ってもらえ」
京吾は家の裏窓を指さした。中年の女が、カーテンの隙間から二人の様子をうかがっている。たしか彼女は慧の母親と仲が良かったはずだ。だから慧だけなら匿ってくれるだろう。
「どうして僕だけ? お前も一緒にここにいればいいだろ」
「俺は無理だよ。村八分だからきっと断られる」京吾はわざと大げさに肩をすくめてみせた。
慧の顔がわずかに歪む。
「兄貴のことが心配なんだ。行かないと」
歩きはじめた京吾の腕を、慧が掴んだ。怒った目で京吾を見つめている。「僕も行く」
「来なくていい。慧まで危険な目に遭う必要はないんだ」
「僕も行く」慧は同じ言葉をもう一度繰り返した。自分の意思が京吾に伝わるように、低く、はっきりとした口調で。「お前ひとりで行かせられるかよ」
ふたりはしばらく睨み合っていた。
根負けした京吾がようやく頷いた。本音を言えば来てほしくないのだが、こうなった時の慧は何を言っても無駄なのだ。
「わかったよ。でもそのかわり危なくなったら、すぐに逃げてくれ。俺を助けようなんて考える必要はない」
ふたりは反対側にある門扉へ回った。
外の様子を確認する。南北に道が伸びている。街灯の光が弱いためかなり薄暗い。北へつづく道の先に二体、南へつづく道の先に一体、ゾンビが確認できた。こちらに気がついた様子はなく、ふらふらとさまよっている。
ここから南の道を行けば、京吾の民宿には十分ほどで着く。走れば五分もかからないだろう。
京吾は慧に向かって、唇の前で人差し指を立てた。
門扉を開けて出る。
ふたりは南の方へ歩いていく。
年配の女のゾンビはこちらに対して体を横に向けて体をゆらゆら揺らしている。普通の人間ならば気がつきそうなものだが目が見えていないのか、ふたりが風下にいるからなのか、こちらに気づいた気配はない。
足音を殺して近づく。両者の距離はあと二メートル強。
女の裂けた腹の間からこぼれ出た小腸がはっきりと見える。女が体を揺らすたびに、小腸もぶらぶら揺れ、ひどい腐臭を放っている。
ショベルを握る京吾の手に汗がにじむ。心臓の音で気づかれてしまうのではと不安になる。
──ぱきっ。
乾いた音が響いた。
京吾ははっと自分の足元を見下ろした。小枝を踏んだのだ。
視線を上げる。
女と目が合った。
蛇のような威嚇音を出しながら京吾に襲いかかってくる。
京吾はショベルを振るった。鈍い感触。女の左側頭部に当たった。
女の体が横に吹っ飛ぶ。
「来た!」慧が小声で叫ぶ。
京吾はうしろを振り返る。北側にいた二体のゾンビが、物音を聞きつけてこちらに走って来るのが見えた。
「走るぞ!」
ふたりは同時に駆けだした。
T字路を左に曲がり、一車線道路を渡る。自動車が事故を起こして黒い煙を上げている。その車にゾンビが群がり、運転席にいる男の肉をむさぼり喰っている。
あちこちから悲鳴が聞こえる。
コンクリートが夥しい量の血で、黒く染まっている。そこかしこに点々と落ちているのは、食い千切られた内臓の残骸だろうか。
息を吸うたびに生臭いにおいが肺の中に入ってくる。
吐き気がする。
背後から足音が追いかけてくる。
恐怖で気が狂いそうになる。
だが立ち止まってはいられない。
襲いかかってくるゾンビにショベルを振るう。顔を腕を脇腹を足を殴る。もはや何回殴ったのか、何体撃退できたのか、覚えていない。
ショベルの先には、血や肉片や髪の毛がこびりついている。疲労で腕がしびれている。それでも振るい続ける。
そして、前に進み続ける。どうか幸生が無事でいてくれと願いながら。
ふたりは十字路を右に曲がった。このまままっすぐ行けば民宿へたどり着く。
直線の道を走る。目的地はもう見えている。あそこに駆け込むだけだ。
その時、京吾のうしろから短い叫び声が聞こえた。
慧の声。
若い男のゾンビが慧に掴みかかっている。血で染まった口を大きく開けて慧に噛みつこうとしている。
「慧!」
京吾は男の襟首をつかんで慧から引き剥がし、背中を突き飛ばす。
男はバランスを崩して二、三歩ふらふらとよろめいたが、すぐに体勢を立て直し、今度は京吾に襲いかかってきた。
京吾はショベルを男にめがけて振るう。
ずぶっ、とショベルが柔らかいものに沈みこむ感触が掌に伝わってくる。
京吾は凍りついた。ただ殴って怯ませるつもりだったのに、手元が狂ってしまった。ショベルの刃先が男の首に深々と突き刺さっている。
慌ててショベルを引き抜く。
男の首にはぱっくりと開いた切創ができており、そこから赤黒い肉が覗いている。が、血は流れない。心臓がすでに止まっているから、傷口から血が流れだすことはないのだ。
男の体が痙攣し始めた。ゾンビに噛まれた人間がゾンビに変化するときのように、体を弓なりに反らし、ガクガクと震えている。
始めてみる反応だった。どんな攻撃も効かなかったゾンビが、今は苦しんでいるように見える。
男は数秒の間、痙攣していたかと思うと地面に崩れ落ちた。ぴくりとも動かない。本当に死んでしまったようだ。
京吾は一歩、後ずさった。震える指で男の首を指さす。「慧…、いま何か──…」
「話はあとだ」慧は言葉をさえぎって、京吾の腕を掴んだ。「行こう」
京吾は半ば引きずられるようにして、民宿へと走り出した。
掌にはまだあの時の感触が残っている。男の首に深々と刺さったショベル。まるで豆腐に包丁を入れた時のように、何の抵抗もなかった。人間の体があんなに柔らかいなんて知りたくもなかった。
京吾は走りながらも、さっき目にした光景について考えずにはいられなかった。
あの傷口。薄暗い街灯の光を浴びてぬらぬらと照る赤黒い肉。
その肉の中で、何か異様なものが蠢いていたように見えた。
ふたりはなんとか民宿にたどり着いた。玄関戸を開けて転がりこむ。さいわい民宿の中にはゾンビの姿はなかった。
深いため息をつく。ひどく疲れた。
京吾は足を引きずるようにして中にあがった。靴は履いたままだ。もしもの時に逃げ遅れてしまわないように。
幸生を探す。
受付の机の上に空になったスナック菓子の袋が放置されている。
広間に目をやる。
畳の上に幸生が倒れている。体を丸め、頭を抱えている。
「兄貴」京吾は慌てて駆け寄った。
激しく殴られたか蹴られたかしたようだ。脇腹が紫色に変色している。とくに右腕がひどい。熱湯をかけられたようでかなり腫れている。真っ赤に変色した肌からは、黄色い膿がじくじくとにじみ出ている。ゾンビに襲われたわけではなさそうだ。
「だめだ、警察にも救急にもつながらない」慧がスマートフォンから耳をはなした。
京吾は幸生を抱きおこした。よほど恐ろしい目に遭ったのか、ひどく震えている。
「兄貴、立てるか? やけどを冷やさないと」
幸生をキッチンの洗い場に連れて行く。水道の蛇口をひねり、患部を水で冷やす。膿と水とが混じり合った液体が排水口に流れていく。
京吾は幸生が落ち着くように背中をさすってやりながら尋ねた。
「いったい何があったんだ。誰にやられた?」
「み、宮下くん」幸生が震える声で答えた。
京吾と慧の顔が一瞬で凍りつく。
「宮下がここに来たのか?」
京吾は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。自分でも気がつかないうちに拳を強く握りしめていた。
「京吾どこにいるって。僕、知らないって答えた。知らない知らない知らないって何回も答えた」幸生の震えがいっそう激しくなる。話しながら、その時のことを思い出してしまったようだ。「言ったのに。知らないって」
「わかった、もういいよ兄貴。話さなくていい」
京吾は幸生の背中を優しくなでてやる。胸のうちには宮下に対する激しい怒りが渦巻いている。あの男は薫の魂を辱めるだけでは飽き足らず、今度は幸生にまで手を出した。
「京吾」慧が京吾の肩を叩く。「すぐに手当てをしないと駄目だ。救急箱あるか?」
「消毒液も包帯もない」
「だったら車で幸生を病院に連れて行こう。このまま放置しておくのはまずい。感染症にかかったら壊死するか、最悪、死ぬ可能性もある」
京吾はうなずいたが、すぐにはっと何かに気がついた様子で窓の外を見た。窓から顔を出して周囲を見渡す。
「どうした?」慧が訊く。
「車が、ない」
月野を探しに出かける前まではたしかにあったはずの車が、なくなっている。京吾は舌打ちをする。きっと宮下が乗っていったのだ。
「だったら僕たちだけで行こう。幸生を連れて行くのは危険だ」慧が幸生の顔を見て言葉をつづける。「薬をもらったらすぐに帰ってくるから、幸生はここにいて。いいね?」
幸生はうなずかなかった。慧の服を掴んで首を振る。「行く。僕も行かないと。お兄ちゃんだから、京吾を守らないと」
「無理だよ、散歩に行くんじゃないんだ。兄貴がいると」京吾はそこまで言って口をつぐんだ。足手まといになる、と面と向かって言うことはできなかった。短いため息をつく。「とにかく駄目なんだ。兄貴はここで待っていてくれ」
しかし幸生はまた首を振った。京吾の目を見つめて言う。「もう、ひとりは嫌だ」
京吾ははっと息をのんだ。あの日見た景色が脳裏で瞬いた。真っ青な空と、岸壁に打ちつけられて砕ける白い波、そして真っ赤な血で染まった手。
「京吾」慧が言う。「三人で行こう」
