楽園へ 第19話
にらみ合う二人。最初に動いたのは宮下だった。
宮下が一気に距離をつめて、京吾の顔面めがけて鋭いパンチを放ってきた。
体をうしろに反らしてよける。宮下の拳が鼻先をかすめる。続けざまにくり出された二撃目、三撃目のパンチも京吾は後ずさりながらよけた。
宮下の拳は唸りをあげて京吾の体を狙ってくる。ものすごい風圧で京吾の髪が揺れる。たった一度でも急所に当たれば、ただでは済まないだろう。幼い頃から暴力の中で生きてきた宮下と違って、京吾は誰かと殴り合いの喧嘩をしたことなどほとんどない。そのため宮下の動きについていくことが精いっぱいだった。
宮下の左拳が、京吾の顔のど真ん中をめがけて飛んでくる。
京吾はとっさに右によけた。が、宮下の拳は突如、空中でぴたりと止まった。
──フェイント。
それに気づいた瞬間、右わき腹に衝撃が走った。殴られた京吾の体は吹っ飛び、道路の真ん中まで転がった。遅れてやってきた鈍い痛みに思わず顔を歪める。
すかさず宮下が、京吾の顔を踏み潰そうと右足を持ちあげる。
京吾は体を反転させてよける。
バシャッと水のはねる音がして、宮下の足が顔の真横に振り下ろされた。
ふたたび踏み潰そうとしてくる宮下の追撃を、京吾は寝返りを打ってよけた。
すばやく立ち上がって堤防に向かって走る。うしろから宮下の足音。髪の毛をつかもうと伸ばされた彼の指が、京吾のうしろ髪に触れるのを感じる。
京吾は堤防の壁を蹴ってバク宙をした。呆気に取られている宮下の頭上を飛び越えて、あっという間に彼の背後に回りこんだ。両手足を地面につけて着地すると同時に、しゃがんだ状態で足払いをかける。
宮下がバランスを崩して尻もちをつく。
京吾は宮下の腹の上に馬乗りになった。拳を振り上げる。
宮下がとっさに両腕で自分の顔をかばったが、京吾は構わずに宮下の腕を──肉がそげて骨が露出した右腕を──思いっきり殴った。
固い手ごたえ。宮下の悲鳴。京吾はふたたび拳を振りあげる。
だが拳を振り下ろす直前、宮下の右手が京吾の髪をつかんだ。
力任せに髪を引っ張られて京吾の体は前のめりに倒れる。右耳に宮下の熱い息がかかる。
次の瞬間、京吾の右耳に激痛が走った。
宮下が噛みついてきたのだ。
京吾は絶叫して体をばたつかせる。ブチブチと肉が千切れる音が耳もとで響く。自分の肉体の一部が無理やり引きはがされていく感覚。
宮下の手がようやく京吾の髪をはなした。
すぐさまうしろに飛び退る。京吾は震える手を右耳に持っていった。生温かい血が指先を濡らす。
ない。あるべきはずのものがなくなっている。
宮下が、べっと舌を出した。舌の上に耳が載っている。京吾の血と宮下の唾液にまみれて、ぬらぬら光る右耳。
「おれ、おれの耳っ…」
「美味いなあ、お前の耳」宮下が咀嚼した耳をゆっくりと嚥下する。喉仏が上下する。京吾の体が宮下の中に摂りこまれる。宮下は目を細めながら自分の喉元を指先で撫でた。「お前の体、ぜんぶ喰いたいなあ」
京吾の背中を寒気が走った。やはりこの男はまともではない。
宮下が体勢を低くした状態で飛びかかってくる。さっきまでの京吾ならばよけられていたはずだった。が、耳を喰われたという恐怖のせいで反応が遅れた。
宮下の放った左のアッパーが京吾の顎を正確に撃ち抜いた。
拳が当たった衝撃で脳が揺れる。一瞬、意識が遠のく。黒目がぐるんと上を向いて、京吾は尻もちをついた。
宮下が追いうちをかけるように、京吾のみぞおちを蹴る。
京吾はその場で嘔吐した。胃が痙攣してうまく呼吸ができない。地面に両手をついて浅い呼吸を繰り返していると、右肩を蹴られた。抵抗する間もなく京吾は仰向けに転がされる。
腹の上に宮下が乗ってくる。彼は京吾の右腕を両手でつかむと、大きく口を開けた。
「いやだ、やめ──」
宮下の歯が、京吾の皮膚を脂肪を筋肉をつき破って腕の中に沈みこんでくるのがわかる。神経と血管が千切れる音が聞こえた気がする。
京吾は悲鳴をあげて宮下から逃れようとした。何度も左手で宮下の側頭部を殴る。が、宮下はいっこうに怯んだ様子がない。むしろその反応を愉しむかのように、目を細めて京吾を見る。
ブチブチと音を立てながら京吾の肉が喰いちぎられる。
「京吾から離れろ!」
痛みでぼやける視界の中で、慧が宮下の後頭部を金属バットで殴るのが見えた。
鈍い音が響く。
宮下はほんの束の間だけ怯んだが、すぐに立ち上がると慧の右頬を殴りつけた。
慧の体がうしろに吹っ飛び、バーバラの外壁に叩きつけられた。
宮下が慧の首を左手でつかんで持ちあげる。
ガラス窓に押しつけられた慧が体をばたつかせるが逃れることはできない。あまりにも強く押しつけられるせいで、うしろのガラス窓にひびの入る音がする。
宮下が慧の顔面めがけて拳を振りおろす。が、彼の拳は外れた。
拳が振り下ろされる直前に、京吾が宮下の左腕をぐいと引っ張り、慧の体をずらしたのだ。そのせいで宮下の拳は慧から数センチ外れたガラス窓に当たった。
ガラス窓が甲高い音を立てて割れる。
京吾は宮下のわき腹を思いっきり蹴って、慧を引きはがした。
「出てくるなって言ったろ」
「そこは“ありがとう”だろ。それより京吾、言っておきたいことがあるんだ」慧はそういって京吾に耳打ちしてきた。
京吾は驚いた表情で慧を、それから宮下を見た。今まさに起き上がろうとしていた宮下と目が合った。
耳を喰いちぎられて動揺していた心がすこしだけ落ち着く。それならあの男を殺せるかもしれない。
「わかった、俺の方から合図を出す」
その時、背後から大勢の足音が聞こえてきて、京吾ははっと振り返った。
道の向こうから走ってくる黒い影。十体以上はいる。さっき金助の軽トラを追いかけて走っていったやつらが、音を聞きつけて戻って来たのだ。足音をとどろかせながら迫ってくる。
京吾は慧の背中を押した。「二階にいろ。何があっても絶対に出てくるな」
窓から店の中に戻っていく慧の姿を見送ってから、宮下に視線をもどす。
宮下が左フックを放ってくる。
体を反らしてかわす。
すると今度は右のアッパーが飛んできた。
京吾はよけなかった。むしろ自分の方から攻撃を迎えに行くように、両手で宮下の右腕を両手で抱え込む。拳と顎がぶつかって歯がガチンと鳴る。衝撃で意識が遠のきかけたが、京吾は腕を放さなかった。
宮下が腕を引き抜こうとして暴れる。
京吾は宮下の右腕に──骨が露出した部分に──噛みついた。
宮下の絶叫。
噛まれた骨がミシミシと軋むのが伝わってくる。さらに顎に力をこめる。パキッと小枝の折れるような音がした。
宮下は京吾の髪をつかんで無理やり引きはがすと、うしろに飛び退る。
京吾は彼を追いかけて地面を蹴った。宮下の襟をつかんで地面に引き倒す。すばやく背後に回りこんで首に腕を回す。絞め落とそうとするが暴れるのでうまくいかない。
宮下が頭突きをしてきた。後頭部が京吾の鼻にぶつかる。京吾がひるんだ隙に、宮下はすぐさま立ちあがった。
京吾は身構える。しかし宮下は襲ってこなかった。
宮下は近くにいたゾンビを両手でつかむと、上に放り投げた。
京吾は顔をあげる。
ゾンビが放物線を描いて飛んでいく。バーバラの二階の窓に向かって。宮下はゾンビを二階に投げ込んだのだ。
「慧!」
京吾は慌てて二階に行こうとした。が、宮下に襟首をつかまれて地面に引き倒される。仰向けに倒れたところで右耳を蹴られた。あまりにも強烈な痛みに呼吸が止まる。
宮下が京吾の前髪をつかんで上体を起こさせる。彼は血で赤く染まった口を大きく開けると、京吾のうなじに喰らいついた。
京吾は悲鳴をあげて背中を反らした。体が激しく痙攣しはじめる。脳の中で何かが、のたうち回っているような感覚がする。宮下を引きはがそうとするが力が入らない。
宮下の肩越しに、うっすらと明るくなりだした灰色の空が見えた。
その時、けたたましいクラクションの音が響き渡った。
大型トラックがゾンビを蹴散らしながら、ものすごい速さでこちらに走ってくる。
「京吾、助けに来たぞー!」金助が運転席の窓から顔を出す。
トラックは二人を轢き殺しそうな勢いでぐんぐん迫ってくる。
宮下は京吾のうなじから口を放して堤防の上に飛び乗った。
京吾も慌てて道のわきに飛びのく。真後ろをトラックが走り抜ける。風圧で髪がなびく。
その直後に甲高いブレーキ音がして二台のトラックが、ゾンビたちの行く手をふさぐように道路上に斜めに停車した。
「大丈夫か、京吾」いつの間にか外に出てきた慧が京吾に肩を貸して立ちあがらせる。
京吾は血が流れだすうなじを手で押さえながら、あっけに取られた様子で周囲を見回した。
一台のトラックはバーバラの三軒奥の家の前に、もう一台はバーバラの二軒手前の家の前に停まっている。住宅と堤防とトラックに囲まれたこの空間は、まるで即席の闘技場のようだ。
「宮下のことを轢き殺すつもりだったんだが、失敗したな」金助が運転席から降りてくる。「でもまあ、お前が無事でよかった」
「どうしてまた戻って来たんだよ。逃げろって言ったのに」
「仲間を見捨てて逃げるヒーローがどこにいるんだ」
「今はふざけてる場合じゃ──」
「俺はお前のそういうところが昔から大っ嫌いだったんだよ」金助はさえぎるように言った。「なんでもかんでも一人で抱え込もうとしやがって。たまには誰かに頼ることも覚えろ」
「今さら逃げるなんてできないのよ」と言う凜にゾンビが襲いかかる。彼女はその首に手斧を叩き込んで、ゾンビを殺した。「わたしたちは美晴の仇を取らなきゃいけないから」
銀次が一歩、二歩、おそるおそる京吾の方に歩み寄ってきた。手の甲でしきりに眼鏡を押し上げる。
「きょ、京吾。その、なんていうか…、なんて言ったらいいかわかんないけど、ゴメン! とにかくいろいろゴメン!!」
隣にいた慧が思わず笑う。「諦めろ京吾。みんな残りたくて残ってるんだ。金助の言う通り、たまにはみんなに頼ってみるのもいいんじゃないか」
京吾はみんなの顔を見回した。慧、金助、銀次、凛、それと幸生は二階にいるがきっと彼らと同じ意見だろう。
京吾はうなずく。「みんなありがとう。悪いけど、力を貸してくれ」
「そこまで言われちゃ仕方ねえ」と金助。
一部始終を眺めていた宮下が心底うんざりした顔でため息をついた。首を回しながら堤防から飛び降りる。彼は地面を蹴って一気に距離をつめると、銀次の側頭部めがけて蹴りを放った。
「銀次!」京吾は二人の間に入って、両腕で宮下の蹴りを受け止める。腕がビリビリと痺れた。
凜が宮下の脳天に手斧を振り下ろす。
が、宮下は柄をつかんで、それを受け止める。彼が手に力をこめると柄はバキッと音を立てて折れた。刃が地面に落ちる。
宮下は凜の手からすばやく柄を奪い取ると、それを凜の肩に突き刺した。
凜の悲鳴。柄が左肩を貫通している。
「クソッ」京吾は宮下の顔に右フックを放つ。宮下は背中を反らしてよける。続けざまに三発、パンチをくり出したが結果は同じだった。
宮下が放った左のカウンターストレートが京吾の眉間に当たった。
京吾はうしろによろける。背中がトラックの荷台にぶつかり、ガンッと音が鳴る。
頭がくらくらして体が思うように動かない。殴られたせいもあるが、うなじを噛まれたことの方が大きい。出血はさほどないが、何か致命的なダメージを負ったらしい。たぶん自分はもうすぐ死ぬ。すぐにでも決着をつけなければならない。
宮下が容赦なく拳を振るってくる。
京吾は体を右にずらしてかわす。ものすごい音がして荷台がへこんだ。
「うおおおお」金助が宮下の襟首をつかんでうしろに放り投げる。
仰向けに倒れた宮下の胸の上に、すかさず銀次が横向きにのしかかる。両手で宮下の左腕を、両腿で右腕を挟んで、上半身をがっちり押さえ込む。
「慧、やれ!」銀次が叫ぶ。
慧は大きく振りかぶった金属バットを、宮下の顔めがけて振り下ろした。
金属バットが風を切る。
しかし宮下の方がすこしだけ速かった。銀次を押しのけて上体を起こす。
金属バットがコンクリートの地面に打ちつけられる音。
宮下が銀次の脇腹を蹴って起きあがる。銀次は呻き声をあげながら転がった。
突然、トラックの荷台を叩く音が響いた。いくつもの手が荷台を叩いているような音。荷台がわずかに揺れている。ゾンビが音を聞きつけて、荷台の向こうに群がっているのだ。
ゾンビたちの行く手を阻むようにトラックを停めているとはいえ、住宅とトラックの間には隙間があるし、堤防の上を渡れば簡単に侵入することができる。ここが突破されるのも時間の問題だ。
一体のゾンビがトラックの下から這い出ようとしているのが見えた。
「銀次、そっちのゾンビを頼む。俺は宮下をやる」
京吾はそう言って宮下との距離をつめた。
宮下の顔を狙って拳を振るう。右フック、左アッパー、もう一度右のフック。反撃の隙を与えないように小刻みにすばやく攻撃をくり出す。攻撃はどれも当たらない。しかし拳を振るいつづける。
わかっている。喧嘩慣れした宮下にとって、京吾の攻撃をよけることなど造作もないことぐらい。
ふつうに闘っても勝ち目はない。だから京吾はずっと宮下の動きを分析していた。この男は負傷した右腕をかばいながら闘っている。パンチをくり出す時はほぼ毎回、左。そして殴りかかる際、胸をすこし開くクセがある。
京吾はわざと脇を大きく開けて、左フックをくり出した。たぶん宮下はカウンターを放ってくる。おそらく左腕で。
そう予測して視線を左に向ける。案の定、宮下の左腕が動くのが見えた。左フックだ。
京吾は地面を蹴って宮下の胸に飛び込んだ。宮下のフックは京吾の肩甲骨に当たった。
ふたりは揉み合いながら地面に倒れ込んだ。
宮下が京吾のわき腹を殴ってくる。
京吾は彼の顔面に頭突きをした。額に宮下の歯が当たる。宮下の呻き声。さらに宮下の顔を二発、殴りつける。
「慧!」
京吾は宮下がひるんだ隙に、すばやく立ち上がりながら叫んだ。
慧が懐から取り出したものを京吾に向かって投げる。
拳銃だ。拳銃がくるくる回転しながらこちらに飛んでくる。
宮下が目を見開く。彼はすぐさま立ちあがって拳銃に向かって手を伸ばす。
しかし京吾の方が速かった。拳銃を受け取り、宮下の額に突きつける。
宮下が凍りつく。
京吾は引き金を引いた。
カチッ、という間の抜けた音。
息をのむ宮下に向かって、京吾は微笑んだ。
「悪いな宮下。これ、モデルガンなんだ」
その直後、宮下の背後で発砲音が鳴り響いた。
宮下が振り返る。が、その時にはもうすでに弾丸は彼のうなじを撃ち抜いていた。
バーバラの二階の窓から立ちのぼる白い硝煙。街灯の光を浴びて鈍く光る銃身。拳銃を構える幸生。
京吾が持っているのはバーバラの壁に飾られていた偽物で、本物の拳銃は幸生が持っていたのだ。
宮下の体がゆっくりと崩れ落ち、仰向けに倒れた。
「なんだよ、クソ…」
宮下がうなじをおさえながら京吾を見あげる。体が痙攣し、口からは血があふれ出している。
京吾は地面に落ちていた手斧の刃を宮下のうなじに突き立てた。宮下は激しく体を痙攣させたあと、動かなくなった。
京吾は痛みと疲労でぐらぐら揺れる頭を両手で抱えてうずくまる。長いため息をつく。やっと、やっと終わったのだ。
慧の肩を借りて立ちあがる。
風は止んで、雨も小降りになっている。
「京吾!」幸生がバーバラから飛び出して駆け寄ってくる。
京吾は胸に飛び込んできた幸生の体をしっかりと受け止めた。痙攣する手で、幸生の背中を優しく叩く。幸生のおかげで宮下を殺すことができた。
「まさか本当に撃ち抜くとはな」と金助。
「慧から聞いたよ」京吾が言う。「兄貴に拳銃を託してくれたんだろ。ありがとう、兄貴を信じてくれて」
「俺より銃が下手な奴もいないしな」
「そんなことより早く避難しないとまずいよ、金ちゃん。ゾンビが集まってきてる」
トラックの向こうに大勢のゾンビが群がっている気配がする。
「どこかの家の中に──」
慧の言葉を凜がさえぎった。静かにするように唇の前に人差し指をたてている。
「ちょっと待って、何か変な音聞こえない?」
全員が口を閉じて耳を澄ました。ゾンビたちの呻き声と荷台を叩く音。それに混じって、木の根っこが千切れるような音や、風もないのに木がザワザワと揺れるような音が聞こえてくる。
「崩れる」慧が言った。「土砂崩れが起きる前触れだ。いますぐここから離れないと」
「ゾンビがいるのに離れるったって、どうやって…」銀次が言う。
金助が、あっと声をあげた。「そういえばさっきバーバラの二階にあがった時に、車のキーが棚の上に置いてあるのを見た。たぶん店の隣のガレージに停まってる車のキーだ」
「車なんか乗ってどうすんだよ」と銀次。「トラックが邪魔で通れないのに」
道の両側をふさぐようにトラックが停まっている。トラックの全長が道幅よりも長いうえに、道はゾンビであふれているので、方向転換するにはかなりの時間を要する。そんなことをしている間に生き埋めになってしまうのがオチだ。
「堤防を飛び越えるんだよ。俺はキーを取ってくるから、お前らはソファとかを適当に組み合わせてスロープを作ってろ」
金助はそういうや否やバーバラの方に走っていった。
「天才かよ金ちゃん!」銀次が彼のあとに続いて店に飛び込む。
慧と凜と幸生も彼らのあとにつづいた。
京吾はトラックの荷台を開けた。この扉はスロープ板にちょうどいい大きさだ。荷台に飛び乗って扉に手をかける。力をこめると、バキッと大きな音がして扉が取れた。もう一枚の扉も同じようにして取った。
二枚の扉を抱えて荷台から飛び降りる。
堤防に背もたれをくっつけた状態で置かれているソファに扉を立てかける。これで即席のスロープの完成だ。
ガレージのシャッターが開く音とともに白のジープラングラーが現れた。
「お前ら早く乗れ」金助が運転席から叫ぶ。
四人は一斉に走り出した。
だが京吾だけはその場に膝をついた。走ろうと思うのだが足を動かすことができない。まるで走り方を忘れてしまったかのようだ。どうすれば立ち上がることができるのか、どうすれば足を動かすことができるのか、思い出せない。
京吾は大きく背中を反らした。自分の意思に反して体が激しく痙攣する。ぼやけた視界の中で凜と銀次の背中が遠くなる。
視界の端で、ゾンビたちがお互いを押しあいながらトラックの隙間から這い出ようとしているのが見えた。
「京吾!」
突然、耳元で声が響いて体を抱き起こされた。
「慧…、駄目だ。おいて行ってくれ。体が動かないんだ」
「なに言ってんだ、早く立て」慧が京吾の右腕を自分の肩に回す。「幸生、そっち持って」
幸生が京吾の左腕を自分の肩に回す。
二人は力を合わせて京吾を立ちあがらせた。京吾を引きずるようにしてジープに向かって歩いていく。
「三人とも急いで」凜が助手席から叫ぶ。
周囲に異臭が漂いはじめた。土が腐ったような臭い。それにどこからか山が崩れるような音も聞こえてくる。まもなく土砂崩れが起こる。
ゾンビが一体、三人に向かって走ってくる。
「俺のことはいいから兄貴を連れて逃げてくれ」
「だから、そんなことできるわけないだろ」慧は声を荒げる。向かってきた女のゾンビを蹴り飛ばす。「僕は小さい頃からずっとお前のことが好きだったんだ。お前をおいて行くくらいなら僕もここで死ぬ」
京吾は驚いて慧を見た。
先ほどの女が起きあがってふたたび慧に襲いかかる。
慧が女の腹を蹴って転ばせるが、女はいっこうに怯む気配がない。すぐさま起きあがって慧に飛びかかる。
慧は京吾の腕を放して、女とつかみ合った。噛みつこうとしてくる女の両肩を手で押さえながら言う。「幸生、早く京吾を車に連れていけ」
幸生はおろおろした様子で車と慧を見比べた。
慧は疲労のせいで女を投げ飛ばすだけの気力が残っていない。女の顔がすこしずつ慧に近づいてくる。息がかかりそうなほどすぐ目の前に女の顔がある。
「どいつもこいつも恰好つけやがって」
金助の声が聞こえたと思ったら、女の体がうしろに吹っ飛んだ。金助が女の襟首をつかんで放り投げたのだ。
「さっさと走れ! 全員で逃げるぞ」
幸生、京吾、慧の順に後部座席に乗る。その直後に運転席の扉が開き、金助が乗り込んできた。
「やばい、崩れた」ラゲッジスペースにいた銀次が叫び声をあげた。
土砂が土埃をあげながら、ものすごい勢いでこちらに流れてくる。
大地が激しく振動する。地の底から響いてくるような地鳴りの音。まるで洪水のように草も木も車も家もすべてを飲みこみながら迫ってくる。
周囲の景色が茶色い土埃に覆われて何も見えなくなる。
「しっかりつかまってろよ」金助が叫ぶ。
ジープはエンジン音をとどろかせながら急発進する。
窓の外に見えるのは茶色い土埃だけ。町もゾンビも海すらも見えない土埃の中をジープは突き進んでゆく。
ガクンと車体が揺れる。おそらくスロープに乗ったのだ。
その直後、ふわりと内臓が浮くような感覚がした。
ジープは堤防を飛び越えて土埃の世界から脱出する。
窓の外に、朝日にきらめく海が見えた。ぶあつい雲の隙間からのぞく水色の空。黄金色の日差しを反射しながら静かに揺れる白い波。
勢いあまって波打ち際まで飛んでいったジープは、体が浮くほどの衝撃とともに海に着地した。
金助がハンドルを切る。ジープが左に曲がる。タイヤが水しぶきをあげながら回転する。
土石流はもうすぐ後ろまで迫っている。
砂浜にいたゾンビたちが一斉にこちらに向かって走ってくる。ジープは彼らを蹴散らして突き進む。
一体、また一体とゾンビが土石流に飲みこまれていく。
金助と京吾以外の全員が固唾を飲んでリアガラスの向こうを凝視している。
唸り声をとどろかせながら迫りくる土石流。ゾンビの手が車体を叩く音。
京吾にはすべてが遠いどこかで起こっていることのように思えた。体の感覚がなくなってきた。眠りに入る直前のような、意識とほんのわずかな五感だけが残っているような状態。
ふいに京吾の脳裏に懐かしい記憶がよみがえってきた。
何年か前。薫が生きていた頃に、慧と幸生と薫の四人で行った祭りの記憶。
夜の闇を淡く彩るオレンジ色の電球。祭囃子の音。焼きそばの香ばしい匂いに、ベビーカステラの甘い匂い。いつもはがらんとした広場が、この日だけは活気づく。京吾たち四人は笑いあいながら人の流れに乗ってゆっくり歩いていた。
「まずどこから回る?」
慧の言葉を聞いた薫が笑った。一卵性の双子である慧と薫は笑った時の顔がそっくりだ。
「お兄ちゃん、そんなこと聞くまでもないでしょ。毎年、射的から回ってるんだから。ね、幸生くん?」
薫だけが四人の中で唯一、浴衣を着ていた。白地に水色と紫の朝顔の模様が入った浴衣だ。妹は今夜のためにわざわざ一時間もかけて着付けてもらっていたのだと、さっき慧が耳打ちしてきた。
「射的します」幸生は嬉しそうにうなずいた。「射的、射的」と言いながらぴょんぴょん飛び跳ねる。嬉しいことがあると、よくこうして飛び跳ねるのだ。
射的屋の赤いひな壇には、筒に入ったラムネ菓子、クッキーやチョコレート、有名なアニメのフィギュアなどが並び、屋台の天井の骨組みには飾りつけのためなのか、網に入った小さめのビーチボールがS字フックでぶら下げられている。
「どれにしますか?」幸生がコルク銃をいじりながら訊いてくる。コルクの重さや銃身の傾きから、飛び具合を推測しているのだ。
「兄貴がどれでも好きなものを撃ち落としてくれるって」京吾が言う。「薫は? どれが欲しい?」
「じゃあ…、あれお願い」
薫が指をさしたのは、いちばん下の段に飾られたテディベアだった。棚に並んだ景品の中で最も大きく、高さは二十センチくらいある。
「あんなのどうやって落とすんだよ」慧が言う。
「知らない。でも幸生くんなら落とせるでしょ」
三人は期待を込めた目で幸生を見た。
幸生がじっくり狙いを定めて引き金を引く。
コルク玉はテディベアから大きく外れた場所に飛んでいった。
テディベアにはかすりもしない。コルク玉は景品が並ぶ棚にぶつかって跳ね返り、天井からぶら下がるS字フックに当たった。
S字フックがぐらぐらと揺れたかと思うと、そこに引っかけられていたビーチボールが落下する。
ビーチボールは真下にあったテディベアにぶつかる。テディベアはうしろに倒れ、ビーチボールとともに地面に落ちた。
京吾たちは歓声をあげる。
「兄貴に撃ち落とせないものは無いな」
京吾がそう言うと幸生は照れくさそうに頭をかいた。
ジープがガタンと揺れる。流木を踏んだのだろう。
土石流の勢いはすこしずつ弱まっている。飲みこまれる心配はもうない。
しかしジープは海岸線を走りつづける。ゾンビたちが追ってくるからだ。彼らは歯をむき出しにして腕を伸ばし、こちらに迫ってくる。
金助が悪態をついた。
ジープが急ブレーキをかける。この先は行き止まりだ。消波ブロックが積まれているため車で通ることはできない。かといって外に出て堤防の階段を駆けあがるわけにもいかない。ゾンビたちがジープをぐるりと取り囲んでいるからだ。
何体いるのかもわからない。いくつもの手が車体を叩く。中にいる京吾たちにどうにかして喰らいつこうと群がってくる。車体がグラグラ揺れる。
どこにも行き場はない。あとはただ死を待つのみだ。
金助がハンドルを殴りつけて叫び声をあげる。銀次と凜のすすり泣く声。幸生は京吾の腕にしがみついている。
京吾は薄く目を開いた。
慧と目が合った。ひどく青ざめた顔をしている。
「京吾…」
慧の手を握る。震えている。何もしてやれることはないけど、すこしでも慧の不安を取りのぞけたらいいと思った。冷たい京吾の掌と温かい慧の掌。ふたりの体温が溶けあっていく。
「今までありがとうな、慧。俺なんかと一緒にいてくれて」
「なんだよ急に。これから死ぬみたいな言い方するなよ」慧が顔を歪める。泣いているのか笑っているのかよくわからない表情。
「お前は憶えてないかもしれないけど、小三の時、校舎の階段で俺はお前に救われたんだ。死のうと思って屋上に向かってた俺の前に、慧が現れたんだ。何か言葉を交わしたわけじゃないけど、あの時、はじめて俺は自分の人生に希望が持てた」
そんなこと憶えてないよ、と慧が首を振る。
「でも、京吾がはじめて僕に話しかけてきた時のことは憶えてる。何の本読んでるのって、話しかけてきた。本のタイトルを教えたのに、全然興味がなさそうな感じで僕の顔ばっかり見てただろ」
「緊張で何も話が入ってこなかったんだ」京吾が苦笑する。
「まったく話が弾まなかったよな。話を振っても、『うん』とか『へえ』とかばっかりで。正直、どうして話しかけてきたんだろうって思ってた」
京吾は目を閉じた。耳元で、涼しい川のせせらぎのような慧の声が響いている。
夢と現のはざまを揺蕩っているような心地よい感覚。閉じた瞼の向こうで、オレンジ色のあたたかい光が揺れている。朝日だろうか。
「だけど不思議と嫌じゃなかった。京吾と一緒にいると心が落ち着いて、沈黙も苦痛じゃなかった。きっと相性が良かったんだろうな」
慧の掌が京吾の頬に触れる。
「京吾…? お前も何か話せよ。また僕ばっかり話してる。京吾、京吾……」
慧の声がしだいに遠くなる。
意識が闇の中に落ちていく直前、京吾は左の瞼に何か、あたたかくて柔らかいものが触れるのを感じた。
