楽園へ 第8話

 公民館四階。階段付近。
 美晴は上司の横っ面めがけてフライパンを振るった。
 上司の貧相な体が吹っ飛び、階段からごろごろと転がり落ちていく。上司は踊り場まで落ちたあと、すばやく立ち上がると奇声をあげて、再び美晴めがけて階段を駆け上ってくる。
 「ああもう、ほんとしつこい」美晴はフライパンで上司の顔を殴り、階段から突き落とす。
 こいつは人間だった頃に、美晴にセクハラを繰り返してきた男だ。いつか殴ってやろうと思っていたが、まさかこんな形で実現するとは。けれど、爽快感はまったくない。むしろ不快だ。
 美晴はじんじん痺れる右手を振った。フライパン越しに感じた、上司の鼻の骨が砕ける感触を振り払うように。
 「先輩、まだですか」美晴は廊下の方に顔を向けて叫んだ。「手が限界なんですけど」
 廊下の向こうから凜が大きな台車を二台、転がしながら走ってくる。長机を運搬するための細長い台車で、その中には長机が三台ずつ収納されている。四階の一番奥にある視聴覚室にあったものだ。
 「これどうすんの?」凜が訊いてくる。息が荒い。かなり重かったのだろう。
 「ここに並べてください」美晴は上司の顔を殴りながら答える。
 上司は痛みを感じていないのか、顔がぐちゃぐちゃに潰れようが、二の腕から折れた上腕骨が飛び出そうが、お構いなしに向かってくる。
 「こいつらが上がってこられないようにバリケードを築きます」
 凜が台車から長机を取り出して階段の前に置く。
 凛の左手からは血が滴っている。その左手をかばいながら長机を並べていく。長机を横にしたり、互いの脚を組み合わせたりして、ゾンビが簡単には入ってこられないようにする。
 美晴も凜を手伝いつつ、階段を駆け上がってくるゾンビを殴って突き落とす。いつの間にかゾンビの数が四体に増えている。
 ゾンビたちはバリケードに体当たりするようにして、美晴たちに噛みつこうとする。血の気を失った灰色の手が長机の隙間から何本も伸びてくる。
 男の腕が凜の左手をつかんだ。
 凜が悲鳴をあげる。
 美晴は慌てて男の腕を引き剥がした。
 「先輩、もう充分です。離れてください」
 美晴は仕上げとして、横に寝かせた台車をバリケードの前に移動させた。台車自体もそれなりの重量があるので、バリケードをより強固にするための重しとして使える。
 実際、ゾンビたちが長机に体当たりをしても、バリケードはガタガタと揺れるだけで突破される気配はない。これでゾンビたちはしばらくの間、四階に上がってこられないだろう。
 浅い呼吸を繰り返してパニックになりかけている凜の掌を握る。廊下に置いておいた救急箱も忘れずに持つ。
 ふたりは視聴覚室に駆け込んだ。扉を閉めて鍵をかける。
 さいわい、中には自分たち以外誰もいない。がらんとした空間が広がっている。
 美晴は大きくため息をついて床に座りこんだ。しかしまだ安心できない。隣に座る凜が苦しそうに背中を丸めている。呼吸が浅く、速い。過呼吸を起こしかけているのだ。
 美晴は凜の背中を優しくさすりながら言葉をかける。
 「もうゾンビは来ませんから、大丈夫ですよ。落ち着いて呼吸しましょう。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて…」
 凜が肩を震わせながらも、美晴の言葉にあわせて呼吸を整える。荒かった呼吸が次第に落ち着いていく。
 凜が完全に落ち着いたのを確認してから、美晴は彼女の背中から手を離した。
 「ごめん、ありがとう」凜が言う。泣きはらして赤くなった目を両手で覆っている。いつも無気力でクールな凛のこんな姿を見るのは初めてだ。
 「いいですよ。それより傷口の手当をしないと。バイ菌が入ったら大変ですから」美晴は救急箱を手に取った。医務室から持ってきたものだ。
 凛の左掌には切り傷がいくつも出来ている。浅いものから深いものまで。逃げている時に転んでしまい、その拍子に、地面に落ちていたガラスの破片で怪我をしたのだ。
 美晴は傷口に刺さったままになっていたガラスの破片を、ピンセットでそっと摘まんで取り出す。なるべく痛みを感じないように、ひとつひとつ丁寧に。すべて取り除いてから消毒液をかける。
 「わたしもう駄目かもしれない」凜が顔を歪めながら言う。「さっき手を掴まれた時にゾンビに引っかかれた」
 「またまた、先輩ったらおかしなこと言っちゃって」美晴は鼻で笑う。
 凛の掌には引っかき傷などどこにもないのだ。たぶんゾンビに掴まれた際に、手に刺さっていたガラス片が傷口を広げた。彼女はそれを引っかかれたと勘違いしたのだろう。
 「だいたい引っかかれたぐらいじゃ感染しませんよ。噛まれないと」
 「そんなのわかんないでしょ。傷口からゾンビウイルスが入ってくるかもしれないじゃない」
 何ですかゾンビウイルスって、と美晴は笑う。「もしも先輩がゾンビになったら、わたしが一階のやつらのところに先輩を送り込んであげますよ。あいつら全員、血祭りに上げましょう」
 美晴がそう言うと、ようやく凜はぎこちないながらも笑みを浮かべた。
 “一階のやつら“というのは、一階の医務室に立てこもっている四人のことである。
 公民館の前でゾンビが暴れ出して人々がパニックになった時、美晴と凜は一階にある医務室に逃げ込んだ。鍵をかけて立てこもっていたのだが、そこにやって来たのが例の四人である。
 彼らは凜の手の傷を見るなりパニックに陥った。ゾンビに噛まれたのではないかと迫り、挙句の果てには、ここから出ていけと脅してきた。美晴たちの方が先に医務室にいたのに。
 背中を押され、無理やり医務室から放り出された。彼らの剣幕を前に、抵抗することなどできなかった。
 そのせいでこんなところまで走ってくる羽目になったのだ。
 いま思い出しただけでも腹が立ってくる。
 包帯を巻き終えてもらった凜はまじまじと自分の左手を眺めた。感心したような表情を浮かべている。「あんた、すごいよね。勉強も仕事も、傷の手当だってできちゃうんだもん」
 「やだ…、先輩がわたしを褒めるなんて気持ち悪い。ゾンビウイルスに脳味噌やられちゃいました?」
 美晴はおそるおそる凜の額に手を当てた。熱くもなく冷たくもない。けれど凜がじっとしているのが気味悪い。いつもなら「うざい」とか「死ね」とか言いながら、美晴の手を振り払うのに。
 「でも本当にすごいよ。わたしなんか怖くて泣いてることしかできなかった。あんたがいなきゃ、わたし、たぶん死んでた」凜が、額に置かれた美晴の手に自分の手を重ねて言う。「ありがとう、美晴」
 「…は、はあ…。よかったですね、有能な後輩がいて」美晴は困惑した様子で手を引っ込めた。
 なんだかすごく気味が悪い。普段の凛と違いすぎて調子が狂う。
 どうにも居たたまれなくなった美晴はそわそわと周囲を見回したあと、服のポケットからリップグロスを取り出した。夏らしい爽やかなオレンジ色が気に入って買ったものだ。
 手鏡を見ながら唇にのせる。
 美晴にとってメイクは精神安定剤だ。どんな状況でもメイクをすれば落ち着くし、かわいく盛れれば、それだけで強くなった気がしてくる。だから彼女はつねにメイク道具を持ち歩いている。
 「あんた、こんな時によくメイク直しなんてできるわよね」
 「わたしはいつだって最高にかわいいわたしでいたいんです」美晴がぶりっ子ポーズをしながら上目遣いで凜を見る。「先輩にもやってあげましょうか?」と言ってリップグロスのチップを凜の顔の前に持っていく。
 「ああもう、うざい」凜が美晴の手を振り払う。
 美晴は嬉しくなって笑い声をあげた。やはり凜はこうでないと困る。
 その時、視聴覚室の扉を叩く音が響いた。
 ふたりは顔を見合わせる。
 誰かが扉を叩いている。乱暴な叩き方ではなく、中指の関節でコンコンと叩いているような音だ。
 ゾンビではない。ということは誰かがあのバリケードを越えてここまで来たというのだろうか。それとも、四階のトイレだか学習室だかに隠れていた誰かが来たのだろうか。
 ふたりが固まっている間にもノックの音は続いている。あくまで丁寧に、規則正しく、決して乱れることのないノックの音。
 人間であることは確実だ。しかし“ふつうの人間”ではない。
 ふつうの人間ならばこんなノックの仕方はしない。拳を握り、ゾンビに怯えながら必死にドアを叩くはずだ。医務室に来た四人がそうであったように。
 気味が悪い。扉の向こうに立っている人間には、何かが欠落している。扉を開けるのをためらわせる何かがある。
 ノックの音が止んだ。
 美晴はそっと立ち上がって扉に近づいた。外の気配をうかがおうと耳を近づける。
 ──ドンッ。
 大きな音が耳元で響いた。
 美晴はぎょっとして扉から離れる。
 向こう側にいる人間が扉を蹴っている。何度も何度も、執拗に蹴り続けている。
 ──ドンッ、ドンッ、ドンッ。
 静かな部屋の中で、扉を蹴る音だけが響いている。
 美晴も凜も動かなかった。いや、動けなかった。今にも壊れそうな扉を、ただ見つめることしかできなかった。

 *

 宮下は家の陰から顔を出して、外の様子をうかがった。
道を挟んだ向こうに目的の公民館がある。
 アベリアの植え込みで囲まれた四階建ての建物。敷地の手前に駐輪場と駐車場があり、その奥に入り口がある。長い間、風雨にさらされたせいで壁がすっかり黒ずんでしまっていることを除けば、宮下が子供の頃から何ひとつ変わっていない。
 公民館の敷地内にはゾンビが二十体ほどうろついている。入り口のガラス扉は閉まっている。たぶん鍵もかかっているのだろう。
 ここから入り口まで走って約三秒、ガラス扉を割って鍵を開け、中に入るまで約八秒。計十一秒。簡単なように思えるが、敷地内にいるゾンビの数を考えればほぼ不可能に近い。
 こんなことなら車を捨てるんじゃなかった。
 どこかの馬鹿が道のど真ん中で死んでいたせいだ。その死体を踏み越えて進もうとしたら、骨がタイヤに刺さってパンクしてしまった。車体がガタガタ揺れて鬱陶しくて仕方ないので、ここに来る途中で乗り捨ててきたのだが。我慢してでも乗っているべきだった。
 さて、どうしようかと宮下は周囲を見回した。どこに目を向けてもゾンビか、人間の残骸ばかりである。普通の人間はすでに喰われるか、家に逃げ込むかしたのだろう。
 宮下の視界の端で何かが動いた。
 そちらに顔を向けると、ちいさな女の子と目が合った。五、六歳くらいだろうか。家の窓越しにこちらを見つめている。赤くてぷくぷくした頬がかわいらしい。
 宮下はにっこりと微笑んだ。窓を爪で叩いて、開けるように促す。
 女の子は素直に窓を開けてくれた。
 宮下は人差し指を唇の前に立てて、しーっと言ってから囁き声で女の子に訊いた。「パパとママは?」
 「いないの」女の子は首を振って小声で答える。「ママとおにいちゃん、かえってこないの。パパもママたちをさがしにいくっていって、かえってこないの」
 女の子のおでこには熱冷まし用のシートが貼ってあり、首には保冷剤をくるんだタオルを巻いている。熱があるのだろう。あまり舌が回っていない。
 「お兄さんねえ、パパとママにきみを連れてくるようにお願いされたんだ。パパたちは今ちょっと忙しいから、僕と一緒にパパたちのところに行こうか」宮下は女の子に手を差し出す。
 しかし女の子はためらっているようで、宮下の手を取ろうとしない。両手を背中に回して体を揺らしている。
 「どうしたの? お兄さんと一緒は嫌?」
 「ううん…でも…、パパがそとにでちゃダメって」
 「そんなことないよ。僕はパパに連れてきてって頼まれたんだから」宮下は両手を差し出す。優しい表情を浮かべ、安心してもらえるように。「ほら、おいで」
 女の子は少しためらったあと、こちらに手を伸ばしてきた。
 女の子の体を抱き上げて窓から外に出し、地面におろした。
 裸足のままコンクリートの上に立たされた女の子は、足をもじもじさせながら困惑した表情でこちらを見上げる。宮下が抱っこして、両親のところまで連れて行ってくれると思っていたのだろう。
 宮下は女の子を見下ろす。その顔に、さっきまでの優しい表情はない。
 外は完全に日が暮れて真っ暗だ。宮下のうしろにある街灯も、たよりない光を投げかけるばかり。
 だから女の子の目には、宮下の顔はほとんど見えていない。暗闇と逆光のせいで、顔の部分にだけぽっかりと黒い空洞が空いている化け物のように見えている。
 女の子が一歩、後ずさる。
 宮下は隠し持っていたスパナを、女の子の頭めがけて振り下ろした。
 鈍い音。柔らかい感触。スパナが頭蓋骨を貫通して、女の子の脳に沈みこんでいる。
 子供の頭は柔らかいのだな、と宮下は思った。
 スパナを引き抜くと真っ赤な血しぶきが家の壁を汚した。
 女の子は声もなく、その場に崩れ落ちた。
 頬についた血を手の甲で拭う。ぬるぬるしていて生温かくて気持ちが悪い。
 周囲を見回す。ゾンビが気づいた気配はない。
 宮下はポケットに手を突っ込んで、山本から借りたスマートフォンを取り出した。その拍子にポケットから札が何枚か落ちる。どれも茶色く乾いた血がこびりついている。拾ってポケットに突っ込む。
 一分後にアラームが鳴るように設定したスマートフォンを、女の子の腹の上に置いた。それから彼は家の反対側に回ってゴミ箱の裏に身を隠した。
すこし経った頃、アラームが鳴り始めた。
 女の子の腹の上でスマートフォンが鳴り響いている。音量を最大にしているのでかなりうるさい。
 周囲にいたゾンビたちが一斉にそちらに顔を向ける。歯をむき出しにして声をあげる。彼らは我先にと女の子の方へ駆けだした。大勢の足音が宮下の前を通り過ぎていく。
 公民館の敷地内にゾンビの姿はなくなった。
 宮下は建物に向かって走り出した。
 ガラス扉をスパナで殴る。ガラスにひびが入る。
 もう一度殴るとガラスが割れた。
 割れたガラス扉の隙間から手を入れて鍵を開け、中に滑りこむ。
入ってすぐのロビーにも、その奥の廊下にもゾンビが七、八体ほどいた。音に反応して一斉にこちらに走ってくる。
 宮下は舌打ちをした。
 左手にあるエレベーターに駆け寄り、ボタンを押す。さいわい一階に停まっていたようで、すぐに扉が開いた。
 中に入って閉まるボタンを連打する。が、ゾンビたちが殺到し、扉の隙間から体をねじ込もうとしてくるので、そのたびに扉が開いてしまう。
 宮下はスパナでゾンビたちの顔や体を何度も殴った。中年の男や老婆、若い女、小太りの男。中には宮下が知っている顔もあった。人間だった頃は宮下の存在を徹底的に無視していたくせに。幼い宮下が何度助けてと叫び手を伸ばしても見向きもしなかったくせに。ゾンビになった途端、こちらに手を伸ばして掴みかかろうとしてくる。
 宮下はスパナを振り下ろす。
 彼らの顔がぐちゃぐちゃに潰れてミートソースみたいになるまで、何度も殴り、蹴り飛ばした。
 ようやく扉が閉まった頃には、宮下の息はすっかり上がっていた。壁にもたれかかってため息をつく。こんなに骨を折ったのだから、なんとしても美晴に会わないと割に合わない。
 エレベーターが二階に到着した。
 スパナを構えて外を確認する。エレベーター付近にはゾンビはいないようだ。
 外に出る。
 右手には階段があり、廊下を挟んだ向こうにはガラス張りの扉と壁で仕切られた図書室がある。図書室の中には生きている人間が十二人いるのが見えた。美晴の姿はない。ここにはいないのだろうか。
 宮下は壁の陰から廊下の様子をうかがった。
 ゾンビが七体ほど、うろついている。
 宮下は頭を引っこめ、今度は図書室の中にいる人に向けて合図をした。扉を開けてくれと身振りで伝える。
 が、だれも開けようとしない。みんな不安そうな顔で目配せしあっている。
 そうか、お前らも無視するのか。
 美晴の居場所を訊こうと思っていただけなのだが、気が変わった。
 ──だったら俺の姿が見えるようにしてやろう。
 宮下はおもむろに扉に近づくと、スパナを振り上げてガラスを叩き割った。甲高い音が廊下に響き渡る。
 音に反応したゾンビたちが一斉にこちらに駆け寄ってきた。
 宮下は割れたガラスの隙間に腕を入れて鍵を回し、扉を開け放った。
 近くにあった胸の高さほどのパンフレットスタンドを掴み、こちらに襲いかかってくるゾンビを殴り飛ばす。ゾンビを図書室の中に誘導するのが狙いだ。
 案の定、図書室にいた人間が悲鳴をあげた。ゾンビはその悲鳴に反応し、標的を宮下から彼らに変えて襲いかかる。
 あとは簡単だ。左から右にパンフレットスタンドを機械的に振るい、流れ作業でゾンビたちを押し込んでいく。とくにこちらから何か働きかける必要はない。ゾンビたちの方が勝手に悲鳴に反応して、図書室の人間に襲いかかってくれる。
 廊下にいたゾンビがすべて図書室に入ったのを確認してから、宮下は扉を閉めた。
 傘立てから数本引き抜いた傘を、ガラス扉についているコの字型の取っ手に挿しこみ、かんぬき代わりにする。
 割れたガラスの隙間から手を出せば、内側からでも傘を抜くことはできるだろう。が、それは不可能に近い。そんなことをしているうちにゾンビに喰われて終わりだ。
 「おい、助けてくれ! ここを開けてくれ!」栄養失調のサルみたいな顔をした中年男が叫びながら、傘を抜こうと手を伸ばしている。「たのむ開けてくれ、俺はまだ死にたくない!」
 男の腕はガラスに切り裂かれ、おびただしい量の血が流れ出ている。ざっくり裂けた傷口から、血で染まったオレンジ色の脂肪がのぞいている。
 男のうしろから女がぬっと現れた。女が男の首に噛みつく。
 男が絶叫する。首から噴水のように血があふれ出す。ガラス扉が血で真っ赤に染まった。
 図書室内にはこの世のものとは思えない光景が広がっている。男も女も泣き叫び、逃げ惑う。その一方で大口を開けて一心不乱に人の肉をむさぼり喰っている者もいる。椅子の下で震えながら神に祈っている者、腹を食い破られて白目をむいている者、体を弓形に反らして今まさにゾンビに変わろうとしている者。
 宮下はふいに子供の頃のことを思い出した。
 秋晴れのあの日。やけに機嫌がいい父に連れられて、この図書室に来た。
 父は大きな手で幼い宮下の頭をなでた。本をたくさん読めば賢い大人になれるんだぞ、と言いながら。
 だから宮下は椅子の上で足をぶらぶらさせながら本を読んだ。といっても文字はまったく読めなかったので、挿絵を眺めていただけだったが。それでも宮下は楽しかった。角の生えた赤い肌の化け物が、裸の人間を燃やしたり、大きな釜で茹でたりする絵をわくわくしながら眺めていた。
 その絵が地獄絵図と呼ばれるものだと知ったのは、それからずっと後のことだった。
 宮下の眼前に広がる光景は、地獄絵図によく似ていた。すこしだけ懐かしい気持ちになった。
 宮下はしばらくの間ガラス張りの世界を眺めていたが、しだいに飽きてきたので、くるりと背を向けた。
 エレベーターに向かおうとしたところで足を止める。
 床に血が落ちていることに気がついた。血痕は階段の上へ点々と続いている。宮下はその血痕を追って階段を上った。とくに理由はない。ただ気になっただけだ。
 宮下は四階に続く階段の途中で足を止めた。
 長机を重ねたバリケードがある。ゾンビに破られた形跡はない。ということは四階にはゾンビはおらず、かつ、どこかに生きている人間がいるということだ。
 宮下はバリケードの隙間に体を潜らせた。組み合わさった長机の脚の間をほふく前進で進んでいく。窮屈だが通れないこともない。
 バリケードを破壊することもできたが、音を立てるとゾンビが寄ってくる。それは避けたかった。正直、体力があまり残っていないのだ。足はだるいしスパナを振るいすぎたせいで手も痺れている。
 バリケードから這い出した宮下は、腰をひねって関節を鳴らした。ほんの二メートルほどの短い距離だったが、ずいぶん長いこと這っていた気がする。
 その時、下の階からかすかにバンッという音が聞こえた。何かを叩きつけるような音だった。
 宮下は振り返る。しかしここからでは音の正体を知ることはできないので、すぐに興味を失って、彼はふたたび血痕に視線をもどした。
 血痕は奥に向かって続いている。導かれるようにして宮下は一番奥の視聴覚室までやってきた。
 扉に耳を近づけると中から女の笑い声が聞こえた。人数は二人。扉の外にいる宮下に気づかずに何かを話している。声の感じからするとおそらく若い女。美晴かもしれない。
 宮下は扉をノックした。優しく、丁寧に、中にいる女を怖がらせないように。
 女の話し声がぴたりと止まる。訪問者に気がついたようだ。が、返事はない。
 それでもノックを続ける。三度、四度。
 やはり返事はない。
 宮下はノックをやめた。こいつらもか、と心の中でつぶやく。
 一歩うしろにさがり、右足で扉を思いっきり蹴った。大きな音が廊下に響く。扉は弓形に反ったが壊れることはなかった。宮下は何度も何度も蹴った。機械的に脚をあげて靴の裏を叩きつける。蹴りながら、ついさっき下の階から聞こえたあの音は、扉を蹴る音だったのかもしれないと思った。
 何度目かで扉が壊れた。
 軋んだ音を立てて扉がゆっくりと開く。
 宮下は中に入り、扉を閉める。
 すこし離れたところに美晴がいた。大きくて丸い瞳に透き通るような白い肌。小さな唇をきゅっと結んでこちらを見上げている。
 その隣には凜がいた。美晴を背中にかばうようにして立っている。小学校時代の知り合いに会うのは今夜で二度目だ。
 「宮下…。あんた、なんでここにいるの」凜が訊く。怯えていることを必死に隠そうとしているが、声が震えている。彼女の視線は宮下の右手に注がれている。「何しに来たの」
 宮下は自分の右手を見下ろした。スパナが握られている。その先端にこびりついた血や髪の毛。ゾンビのものだと思うが、もしかしたら生きている人間のものも混ざっているかもしれない。
 「人を殺して逃亡中のあんたが、ここに何しに来たって訊いてんの」
 凛の言葉を聞いた美晴がはっと息をのむ。目の前にいる男が殺人犯だということに、いま初めて気がついたらしい。
 宮下は無言で二人の方に近づいていった。舌を動かすのも面倒くさい。
 凛の側頭部をスパナで殴った。
 鈍い音。凜の黒目がぐるんと回転する。体が崩れ落ちる。彼女は床の上で目を半開きにしながら小さく呻いた。こめかみから赤い血が流れている。が、死んではいないようだ。
 「先輩!」
 叫び声をあげて凜に駆け寄ろうとする美晴の顔を、宮下は殴った。
 美晴が床に倒れる。
 宮下は彼女の腹の上に馬乗りになった。
 「先輩、先輩」と叫びながら凜のもとに行こうとする美晴の体を押さえつける。左手で彼女の頬を掴んで無理やり自分の方に顔を向けさせる。
 ──俺を見ろ。


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