楽園へ 第9話
京吾は立ち尽くした。
隣にいる慧も同じように呆然としている。
風がさっきよりも強くなった。雷鳴も聞こえる。じきに雨が降り出すだろう。
京吾は、幸生の肩を抱く自分の手が震えていることに気がついた。やっとここまで来たのに。目の前に広がる光景を見つめる。
島にたった一つしかない小さな病院。電源が切られて閉まったままの自動ドア。ドアの向こうではゾンビたちが京吾らに襲いかかろうと、ドアに体当たりを繰り返している。少なくとも十体はいる。見知った顔の医師や看護師の姿もある。ガラス製のドアはいくつもの赤黒い手形で汚れている。
せっかくここまで来たのに。
どこかでスマートフォンのアラームが鳴っている。まるで京吾たちをあざ笑っているかのようだ。
「ごめん、幸生、京吾」慧がつぶやく。後悔と罪悪感のせいか声が震えている。「こんなことになってるなんて知らなくて……」
幸生が慧の頭をなでる。
幸生の額には脂汗がにじんでいる。そうとう痛むのだろう。しかし幸生はあれから一度も泣いていない。弱音も吐いていない。自分が一番つらいはずなのに、京吾たちのことを気遣って、なんでもないように振舞っている。
ゾンビたちが自動ドアに体当たりをする音が響く。ドアは今にも割れそうだ。
「こんなの俺だって知らなかったよ」京吾は周囲に素早く視線を巡らせた。音を聞きつけたゾンビたちが、どこからかさまよい出てくる。「それよりすぐここを逃げないとまずい」
「逃げるってどこに?」
一体のゾンビが京吾たちに気づいて奇声をあげた。歯をむき出しにして走ってくる。その声を合図に、他のゾンビたちも一斉にこちらに駆けてくる。
「あそこ!」京吾は病院の駐車場を横切った先にある建物を指さした。病院の隣の敷地。アベリアの植え込みに囲まれた四階建ての建物。「たしかあそこの公民館の一階に医務室があったはずだ。そこまで走れ!」
三人は公民館に向かって走り出した。駐車場を横切り、アベリアの植え込みを飛び越える。
武器を使って、襲いかかってくるゾンビたちを撃退していく。京吾はショベルを、慧は手斧を持っている。ゾンビの弱点である首を狙う。
公民館の敷地内にはゾンビの姿はない。
道を挟んだ向かいに立っている家の路地で、スマートフォンのアラームが鳴っている。群がるゾンビたちの隙間から、ちいさな子供の裸足の足が見えた。ゾンビたちは子供の体をむさぼり喰っていた。
三人は扉を開けて公民館の中に飛び込んだ。
幸生を背中にかばい、周囲をすばやく見渡す。
ロビーと廊下にもゾンビが八体ほどいた。京吾たちに気づいて走ってくるのだが、彼らの様子はどこか妙だった。
「うっ」ゾンビの姿を見た慧は思わず呻き声を漏らした。「なんなんだ、こいつら」
こちらに向かってくるゾンビの何体かの顔が潰れている。まるで熟したトマトを叩き潰したみたいだ。顔の骨が折れて、赤黒い肉がむき出しになっている。割れた頭蓋骨の隙間から薄いピンク色の脳がのぞいている者もいる。
エレベーター付近の床には欠けた歯が何本も落ちている。ほとんどのゾンビは歯が完全に折れてしまっているため、噛まれる心配はなさそうだ。
「俺たちが来る前にゾンビと格闘した人間がいるみたいだ」京吾はショベルでゾンビの首を突き刺しながら言う。
「それにしたって、これは…」
慧は「やりすぎだ」と言おうとしたが途中でやめた。襲いかかってきた老婆の首を手斧で斬る。刃が頸椎に引っかかるので切断することはできない。身体を痙攣させる老婆の白髪を掴んで、手斧を引き抜く。自分たちだって、ゾンビの顔を潰した奴と似たようなことをしている。
京吾は幸生に掴みかかろうとする男の腹を蹴り飛ばした。
男が仰向けに倒れる。
京吾はその首にショベルの刃先を突き立てる。ショベルを引き抜くと、ふたたび男が立ちあがろうとしたので、もう一度、突き立てた。前かがみになって体重をかけ、しっかりと刺す。
するとふいに後頭部を押さえつけられた。
頭上から「じっとしてろ」と慧の声が降ってきたかと思うと、視界の端でなにかが閃いた。
ぐちゃっ、と潰れるような音。
慧の掌が頭から離れた。
顔をあげると、若い女が体を痙攣させながら倒れるのが見えた。首には手斧で斬りつけられてできた傷がぱっくり開いている。
「喰われかけてたぞ」慧が言う。「油断するな」
「…悪い」
京吾は乱れた髪を手でなおす。心臓がドキドキしている。自分はいま死にかけていたのか。
また慧に命を救われたのか。
京吾は武器を握りなおし、ゾンビたちをふたたび迎え撃つ。幸生をかばいつつ、慧と協力して一体一体、確実にしとめていく。ゾンビの首にショベルが沈み込む感触はいつまでたっても慣れないが、やるしかない。顔を殴り、腹を蹴り、首を突き刺す。
最後の一体を倒してから、京吾はようやくため息をついた。息が上がっている。今すぐにでも座りこみたい気分をぐっとこらえて、幸生の背中に手を回した。
「行こうか、兄貴」
三人は廊下の先にある医務室の扉を叩いた。
一度目は返事がなかった。
鍵がかかった扉の向こうにはたしかに人の気配がする。数人で何かひそひそと話し合うような声も聞こえてくる。
「お願いです、開けてください」京吾が扉を叩く。けが人がいるということは、あえて言わなかった。「お願いします、開けてください」
何度もノックを繰り返すと、ようやく扉が開いた。
警戒した様子の若い男が、周囲の様子をうかがいながら、扉の隙間から顔をのぞかせる。
京吾は扉の隙間に指を入れると、無理やり扉を開いた。
男が慌てて閉めようとする。
ふたりの力が拮抗した結果、扉は人ひとり分ほどの隙間をあけて開いた。
「入れてください。けが人がいるんです」京吾が言う。「いますぐ手当をしないといけないんです」
「いや…、でも…」
男が幸生に視線を向ける。幸生がゾンビに噛まれたのではと疑っているのだろう。隙あらば扉を閉めようと力を込めてくる。
「僕らは噛まれていません」慧が幸生の右腕を指さす。幸生の焼けただれた腕を男に見せつけるように。「今すぐ彼の手当をしないと命にかかわるかもしれないんです。お願いです、入れてください」
男が幸生の火傷を見て、痛そうに顔を歪める。すこしだけ同情の表情が浮かんでいる。あと一押しだ。
「噛まれていないかどうか、調べてもらって構いません。だからお願いします」京吾は頭を下げた。「病院にはゾンビであふれていて、もう行く場所がないんです」
男が慌てて京吾の肩をつかんだ。「ちょ、ちょっと。わかった、わかったから──」
「駄目よっ」
しかし、その言葉をさえぎって、女の甲高い声が響いた。
男のうしろから中年の太った女が顔をのぞかせる。彼女が叫んだらしい。鋭い目つきで京吾をにらみつける。
「さっきの女たちと一緒よ。噛まれたに決まってる。こいつらを入れたらわたしたち全員、食い殺されて全滅するのよ。絶対に入れないで」
「だったらせめて治療に必要なものだけでも渡してくれませんか」
「どうして人殺しの息子なんかに。当然の報いでしょ」女が京吾を見る。汚らわしいものを見るような、蔑むような目で。
またその目。幼い頃からずっとそういう目で見られ続けている。
「……すみません。でもどうしても必要なんです。お願いします」
京吾は頭を下げる。それではじめて、自分の手が震えていたことに気がついた。こうやって蔑まれるのは慣れている。ただ慧にその光景を見られていることが、たまらなく苦痛だった。
ふいに体を押しのけられて、京吾は左によろめいた。
驚いて顔をあげると、女を無理やり押しのけて医務室に入る慧の背中が見えた。
「ちょっと何してるのよ!」
女の制止を無視して、慧は棚から包帯と消毒液を取り出す。呆気にとられている男たちの合間を縫って、あっという間に京吾の前に戻ってきた。
「それ返しなさいよ」女が慧の腕をつかむ。
慧はその手を振り払うと、扉を思いっきり蹴って閉めた。
バンッと大きな音が鳴る。
部屋の中から女の叫び声が聞こえる。指を挟んだらしい。甲高い声でわめいている。
ぽかんとする京吾に、慧がほほ笑む。「お前は行儀が良すぎるんだ」
早く手当してやれ、と慧に急かされて、京吾は幸生を椅子に座らせた。膿がにじんでいる傷口を消毒して、手早く包帯を巻く。幸生は痛みに顔を歪めるが、歯を食いしばって我慢している。
入り口の扉を叩く音が聞こえる。いつの間にかゾンビが集まっている。ガラスが割れてゾンビたちに入りこまれるのも時間の問題のように思われた。
包帯を巻き終えると京吾は立ちあがった。
「どうする?」慧が訊く。
「とりあえず上へ行って隠れられそうなところを探そう」
三人は廊下を戻り、階段を上がった。
二階で足を止める。
図書室のガラス張りの壁が血で染まっている。
図書室の中にゾンビが二十体近くいるのが確認できた。彼らは京吾たちに気がつくと一斉に扉に突進してきた。
ガラス製の扉がギシギシと揺れて軋む。鍵は開いているのだが、扉は開かない。取っ手に傘が三本、かんぬき代わりに差さっているからだ。扉の下から流れ出た血がリノリウムの床を赤く染めている。真新しい血だ。変色もしておらず、固まってもいない。
壁を滴り落ちる血と、群がるゾンビの隙間から中の様子がうかがえる。
食い千切られた指や耳、大腿骨がむき出しになった左脚、虚ろな目で三人を見つめる女の生首なんかも転がっている。目を覆いたくなるような光景だ。
「なあ京吾。ここ何かおかしくないか」慧が三階への階段を上がりながら小声で言う。「さっきの顔がぐちゃぐちゃに潰れたゾンビといい、この図書室といい、何かおかしなことをしている奴がいる気がする」
「たんに図書室にゾンビがいたから閉じ込めただけじゃないのか」
「だったらどうして外側からガラスを割った形跡があるんだ。閉じ込めるなら傘を取っ手に差すだけで十分だろ」
京吾は二階の踊り場から図書室を振り返った。
ガラス扉は中桟によって上下二段に分かれており、下段のガラスの一部が割られている。割れているのは鍵のすぐそばだ。破片はゾンビたちの足元に散らばっている。まるで泥棒か何かが、施錠された図書室に押し入るために割ったような感じだ。
その時、京吾の視線がある一点に注がれた。
「いったい何のために──」
「まずい」京吾は慧の言葉を手で制して囁いた。「割れそうだ」
ガラス扉の方を目顔で示す。
ゾンビたちが扉に群がっている。血に染まったガラス扉に体当たりをして、何とかして京吾たちに襲いかかろうとしている。そのガラスに亀裂が入っている。ゾンビが扉に体当たりするたびに亀裂は大きくなっていく。
「四階に行こう」慧が言う。
京吾も同意だった。三階にあるのは和室ばかりだ。和室の出入口は戸襖で鍵をかけることもできない。立てこもったとしても、すぐにゾンビに突破されてしまう。
ガラスの割れる音。
三人は階段の下を振り返った。
ガラスが砕けるのがスローモーションのように見えた。蛍光灯の光を反射して飛び散るガラス片とともに、ゾンビたちが外へ解放される。互いに競い合うようにして京吾たちに向かって駆けてくる。彼らに踏まれた床の血だまりが、赤いしぶきを上げる。
「走れ!」京吾が言う。
三人は階段を駆け上がった。ゾンビたちのあげる奇声と、地鳴りを思わせる足音が建物の内部で反響して何倍にも膨れあがる。それに追い立てられるように、三人は階段をのぼっていく。
三人の足が止まった。
階段の上にバリケードが築かれている。長机を組み合わせて作られた壁は、ゾンビだけでなく京吾らの行く手すらも阻んでいる。足音がすぐそこまで迫っているというのに。
「ここから入れそうだ」慧がかがんでバリケードの隙間を指さす。「幸生から行かせるか?」
「駄目だ、時間がない。あの数のゾンビを二人で相手にするのは無理だ」京吾はそう言うと、一番上に積まれた長机の脚をつかんだ。「慧、手伝ってくれ」
慧はすぐに京吾の意図を察してうなずいた。
幸生は京吾のうしろで身をかがめて耳をふさいでいる。京吾にそうしているように言われたからだ。
三階の踊り場にゾンビたちがやって来る。
京吾は慧と協力して長机を持ちあげてゾンビに投げつけた。
けたたましい音を立てながら長机が階段を転がり落ち、ゾンビに当たった。下敷きになったゾンビが体をばたつかせる。ほかのゾンビたちは、その長机を踏み越えて階段を上がってこようとしている。
京吾はもう一台、長机を持ちあげると、下に向かって投げつけた。
階段を上がっていたゾンビたちが雪崩のように転がり落ちる。
京吾たちは次々と長机を投げた。
踊り場では長机とゾンビが折り重なり団子状になっている。上から踏まれて完全に身動きが取れなくなった者や、運悪く長机の脚が眼球に刺さってしまった者もいる。だが、彼らはいっこうに怯む気配がない。体をばたつかせながら奇声をあげ、京吾たちに手を伸ばしている。
最後の一台を投げてから、京吾は幸生の手を取った。「行こう、兄貴」と言って廊下を走りだす。
いまのところ背後から追ってくる足音はない。ゾンビの行く手を完全に阻むことは不可能だが、廊下の一番奥にある視聴覚室に逃げ込むまでの時間を稼ぐことはできる。
京吾は開けっ放しになっていた扉から、視聴覚室に転がり込む。
その瞬間、京吾の思考は停止した。
目の前で行われている光景を理解するのに、すこし時間がかかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
男が女の上に覆いかぶさっている。女は「先輩、先輩」と泣き叫びながら体をばたつかせている。むき出しになった女の白い胸。見苦しくずり下がった男のズボン。男女のそばには凜が倒れている。凛のこめかみからは真っ赤 な血が流れている。
男が京吾たちの気配に気がついて振り返る。
そいつと目が合った途端、京吾は身体中の血液が逆流するような感覚に襲われた。ショベルを持つ手が震えている。恐怖ではない。怒りだ。
「京吾か…」宮下が舌打ちをする。「邪魔するなよ」
京吾は無言で宮下に近づくと、ショベルを振り上げた。宮下の顔面を狙う。
手ごたえがあった。が、顔には当たらなかった。宮下がとっさに顔をかばったせいで、ショベルは彼の二の腕に当たったのだ。
「どうしてお前は…っ!」
京吾は叫ぶ。声が震えている。呼吸が荒くなる。ぶつけてやりたい言葉は山ほどあるのに舌がうまく回らない。怒りが大きすぎるのだ。何年も溜めこんできた憎悪が京吾の喉をつっかえさせる。
「どうしてお前は、そんな生き方しかできないんだ」
宮下がおもむろに立ち上がる。憎しみに満ちた目で京吾をにらみつける。「お前に俺の気持ちがわかるのか。無実の罪で六年も刑務所にぶち込まれた俺の気持ちが」
「お前のせいで薫が死んだ。罪を償うのは当然だろう」
「自分で勝手に首くくって死んだだけだろ。俺は殺してない。あのクソッタレのヤリマンも」宮下は赤黒い血で汚れた手で京吾を指さした。「お前もな」
宮下がそう言い終えた直後、慧が駆け出した。
慧は床に落ちていたスパナを拾いあげ、思いっきり振りかぶると、宮下の頭を殴った。
鈍い音。
宮下が膝から崩れ落ちる。白目をむいている。仰向けに倒れた彼の口の端からよだれが糸を引いて垂れた。
慧は、呻き声をあげる宮下の顔面に唾を吐いた。「死ね」
生温かい唾が宮下の頬を伝うが、彼は拭おうともしなかった。意識が朦朧としていて、そんなことすらできないのだ。もしかしたら唾を吐かれたことにすら気づいていないかもしれない。
廊下の向こうから地鳴りのような足音が聞こえてくる。ゾンビがバリケードを越えてきたらしい。
京吾ははっと扉を振り返った。扉は閉まっているが鍵がかかっていない。壊れているのだ。立てつけも悪く、少し押せばすぐに開いてしまう。ここにいることを勘づかれたら一巻の終わりだ。
「早くここから出ないと」京吾が言う。「あの扉じゃゾンビを防ぎきれない」
「あそこに入りましょう」美晴が、つらそうに顔を歪めて立ちあがる凛に肩を貸しながら、部屋の隅にある扉を指さす。「たしか準備室に避難用の緩降機があったはずです。それを使えば外に出られます」
五人は準備室に飛び込んだ。
狭い空間の中にパイプ椅子やテレビ、CD、ラジカセなどが雑然と置かれている。どれも長いこと使われていないらしく埃が積もっている。
緩降機は部屋の一番奥に設置されていた。
京吾は緩降機のカバーを取り外してアームを引きあげた。
小学生の時の避難訓練で消防団の人から聞いた使い方を思い出しながら、緩降機をセットする。これは火事や災害で高所に取り残された際に、ワイヤーロープのついた着用具を身に着け、バンジージャンプのように飛び降りて地上に避難するための器具だと、消防団の人が言っていた。
緩降機の取付金具を取り出し、カラビナをアームに引っ掛け、リールを窓から地上に投下する。準備は完了だ。あとは着用具を腰につけて飛び降りるだけだ。
京吾は着用具を慧に渡した。
この避難器具は一人ずつしか使えない。
慧が眉をひそめる。どうして僕からなんだ、と彼の顔が言っている。
「俺と兄貴は最後でいい。お前が先に行って、下の安全を確保しておいてくれ」
いまのところ地上にはゾンビの姿はない。だがもしかすると緩降機の音につられてゾンビが来るかもしれない。そのために慧に先陣を切ってもらいたいのだと説明した。
慧は何か言いかけたが、諦めたようにうなずいた。着用具に腕を通して腰に巻き付ける。
京吾は扉の外の音に耳を傾けた。まだ視聴覚室には入ってきていないようだが、安心はできない。
「京吾」慧が窓枠に足をおいた状態でこちらを振り返った。その顔には複雑な表情が浮かんでいる。後ろめたいような、怒っているような。彼は京吾の目をまっすぐ見て言った。「下で待ってる」
京吾はうなずいた。
慧がうしろ向きに飛び降りる。
リールが巻かれる音。
慧の体がゆっくり降下していく。
小さくなる慧の姿を上から見守りながら、やはりバレていたか、と京吾は思った。いつゾンビや、目を覚ました宮下が押し入ってくるかわからないこの部屋に慧を置いておくのが嫌だったのだ。だから真っ先に逃がした。慧は京吾のエゴを見抜いていた。
強い風が雨の匂いを運んできた。窓がガタガタと鳴る。その音につられてゾンビが来るのではないかと不安になる。京吾は窓枠を強く握りしめた。
短いような長いような時間のあとにようやく慧の両足が地面についた。慧は地上に降りると、周囲に視線を走らせる。京吾に向かって両手で大きな丸をつくった。降りてきても大丈夫という意味らしい。
「わたしは後でいいですよ」美晴が言う。「こういうのって年功序列でしょ。お年寄りから先にどうぞ」
「ひとつしか変わんないわよ」
凜が力なく笑う。まだ頭が痛むのか、かなり辛そうだ。
凜は、「落ちたらゾンビの生餌ですね」と怖いことを言う美晴に見送られながら、地上に降りた。
美晴も凜に続いて飛び降りる。
京吾は下から上がってきた着用具を受け取り、それを幸生に装着した。落ちてしまわないようにベルトをしっかりと腰に固定する。
「いいか、兄貴。暴れずにじっとしてるんだぞ」
不安そうに着用具を触る幸生の手を取って窓際に誘導する。
「大丈夫、怖いことなんてない。みんながしたように飛び降りるだけでいいんだ。下に着いたら慧にベルトを外してもらえ。いいな?」
「京吾は?」窓辺に座った幸生が訊く。
「俺もすぐに──」
準備室のドアノブが激しく回される音がした。鍵の閉まった扉を無理やりこじ開けようとしている。
宮下だ。
京吾は怯えた顔で扉を見つめる幸生の背中に手を置いた。幸生を落ち着かせるように優しい口調で言う。「鍵がかかってるから、あいつは入ってこられないよ。兄貴が降りたら俺も行く。何も心配しなくていい」
「京吾…」
「ごめんな、兄貴。俺のせいでこんなことになって」
京吾は幸生の右腕に巻かれた包帯を見た。膿がにじみ出るせいで包帯の一部が黄褐色に変色している。六年前のあの事件さえなければ幸生がこんな傷を負うことはなかった。すべて自分の責任だ。
「大丈夫、大丈夫」幸生が京吾の頭をなでる。
京吾はほほえんだ。「じゃあ、下で」
幸生が手を振る。
幸生がふわりと宙に浮いたかと思うと、彼の体はゆっくり下降していった。
京吾は窓から顔を出して幸生を見守る。
こちらを見上げる幸生と目が合った。彼は京吾に言われた通り、おとなしくしている。三階の窓のそばを通りすぎ、二階の窓のあたりまで差しかかっている。
地上では慧たちが周囲を警戒しつつ幸生の到着を見守ってくれている。この様子だと無事に地上に降りられそうだ。
──ドンッ。
部屋の中でものすごい音が響いた。
京吾はぎくりと体をこわばらせる。
──ドンッ、ドンッ、ドンッ。
扉が揺れている。宮下が扉を蹴っているのだ。彼が蹴るたびに扉は大きくたわむ。突破されるのも時間の問題だろう。
京吾は慌てて着用具を身に着けた。
扉を蹴る音が京吾から平静さを奪う。焦りのせいで指が震えてうまく動かないが、なんとかベルトを腰に巻き付けて固定することができた。あとは飛び降りるだけだ。
京吾が窓枠に手をかける。と、同時に扉が大きな音を立てて開いた。
京吾ははっと振り返った。
宮下と目が合った。頭から流れる血のせいで顔の左半分が真っ赤に染まっている。その血の中で目がぎらぎらと輝いている。
「京吾…」宮下が、食いしばった歯の隙間から呻くような声を漏らした。
宮下が駆け寄ってくる。
京吾は窓から飛び降りた。
一瞬の浮遊感のあと、体がゆっくり下降していく。が、いきなり体が大きく揺れて下降が止まった。
上を見あげる。窓から身を乗り出してワイヤーロープを掴んでいる宮下の姿が見えた。京吾を地上に行かせまいと、ワイヤーロープを両手で握って必死に引き上げようとしている。
しかしさすがに引き上げることはできないようで、京吾の体は少しずつ下降していく。ようやく三階の窓のそばまで来た。
下を見る。まだ地面は遠い。慧たちが息をのんでこちらを見つめている。この調子だと地面に着くのは一、二分かかるだろうか。
四階の窓と地上とを何度も交互に見る。いつの間にか窓から宮下の姿が消えていた。
あの男はどこに行ったんだ。あきらめたのか、それともゾンビに喰われたのか。
宮下の姿が見えない分、余計に不安と焦りが募る。何か良からぬことをしているのではないか。
突然、じりじりと下降していた京吾の体が停まった。
京吾は驚いて顔を上に向けた。
窓から宮下が身を乗り出してこちらを見下ろしている。逆光で顔はよく見えない。だが真っ赤に染まった顔の中で、白い歯がのぞいている。満面の笑みが浮かべているのだ。
宮下の頭から流れ出た血が、京吾の頬にポタポタと落ちてきた。
その瞬間、京吾は理解した。宮下は、京吾を吊り下げているワイヤーロープをどこかに括りつけたのだ。そのせいで京吾の体は宙吊りの状態で停止している。
京吾は全身の肌が粟立つ感覚に襲われた。降りることも上がることもできないこの状況で、自分はなすすべなく宮下に見下ろされている。
宮下はパイプ椅子を高く掲げたかと思うと、京吾に向かって投げつけてきた。
京吾はとっさに両腕で頭をかばう。
両腕に激しい衝撃が伝わってくる。
落下したパイプ椅子がものすごい音を立てて地上に激突した。
ワイヤーロープが左右に揺れる。とっさに壁に手をついてバランスを保とうとする。
痛みは遅れてやってきた。腕が電気を流されてように痺れて熱くなる。だがその痛みが引く間もなく、宮下がふたたびパイプ椅子を投げつけてくる。
京吾はぶつかる寸前に壁を蹴って避けた。顔のすぐそばをパイプ椅子がかすめる。
落下したパイプ椅子が大きな音を立てる。
下の方から蛇が出す警戒音のような声が聞こえてきた。音を聞きつけたゾンビが集まってきたのだろう。
慧たちは無事なのか。しかし下を確認する暇はない。宮下から目を逸らすことができない。
宮下はショベルを持っている。ついさっきまで京吾が使っていたものだ。乾いた血がこびりついている。ついさっきまであのショベルでゾンビを殺していた。それなのに今は自分があれで殺されそうになっている。
宮下は刃先を京吾に向け、目を細めて狙いを澄ましている。ショベルは蛍光灯の光を反射して鈍く輝く。
京吾は息をのむ。刃先が肩に沈みこんで悲鳴をあげる自分の姿を想像して、ぞっと鳥肌が立った。あれだけは何としても避けなければならない。
宮下がショベルを投げた。
京吾は壁を蹴った。体がうしろにさがる。
その直後、京吾はしまったと思った。宮下は京吾がそうすることを予想して、あえてすこし後ろにショベルを投げていたのだ。
刃先が風を切り、こちらに向かってくる。
とっさに身をよじる。が、避けきれない。
刃先は京吾の左腕を切りつけながら落ちていった。
ショベルによって切り裂かれた左腕には、ぱっくり開いた大きな傷ができていた。かなり深いところまで切れている。黄色い脂肪組織がのぞく傷口から、真っ赤な血が流れだす。
京吾は思わず呻き声をあげた。あまりの痛みに歯を食いしばる。傷口を手で押さえるが、指の間から血があふれ出してくる。
その時、上の方から大勢の人間の足音が聞こえてきた。京吾は、ゾンビが視聴覚室の中になだれ込んで来たのだと直感した。
宮下は準備室の扉に気を取られている。
京吾は地上に目をやった。
音につられて集まってきたゾンビたちが慧らに襲いかかろうとしている。
慧と美晴はなんとか迎え撃っているが、凜はかなり辛そうだ。幸生は泣きそうな顔でこちらを見上げて「京吾ガンバレガンバレ」と叫んでいる。このままでは全滅するのも時間の問題だ。
京吾は慧に向かって「俺はいいから今すぐ逃げろ」と叫んだ。
が、その声はけたたましいクラクションの音によってかき消された。
音の方に目をやると、見覚えのある軽トラがこちらに向かって、ものすごい勢いで走ってくるのが見えた。
運転席の窓から金助が顔を出した。彼は金髪を強風になびかせながら、京吾に向かって叫ぶ。「京吾――――!!!! 飛び降りろーーーーッ」
軽トラが京吾の真下にやって来る。
京吾はすぐさま着用具を外した。
内臓が浮くような感覚。支えを失った京吾の体は落下する。
落ちながら京吾は四階の窓を見上げた。
何体ものゾンビが宮下に掴みかかっているのが見えた。宮下は叫び声をあげている。ゾンビを振り払おうともがくが、数が多すぎて振り払えずにいる。宮下が窓から上半身を乗り出して叫んでいる。「殺してやる! 殺してやる! お前ら全員ぶっ殺してやる!!」
つぎの瞬間、京吾の体は軽トラの荷台に──干し草が山のように積まれた荷台に──叩きつけられた。
ドンッ、と衝撃音が響いて軽トラの前輪がすこしだけ浮き上がった。
体が干し草の山に沈む。一瞬、呼吸ができなくなって京吾は激しく咳き込んだ。
生きている。
そうっと体を動かしてみる。荷台に打ちつけた背中が痛んだが、左腕に比べればたいしたことはない。
運転席の方から金助が「お前らも早く乗れ」と叫ぶ声が聞こえる。
京吾は干し草をかきわけて顔を出した。慧がこちらに走ってくる。そのうしろから美晴が、凜に肩を貸しながら早足でやってくる。だが幸生の姿がない。
京吾は慌てて周囲を見回す。
兄貴は? 兄貴はどこだ?
うしろから奇声が聞こえた。
振り返る。
荷台からすこし離れたところに立つ幸生の姿が見えた。それと、幸生に襲いかかろうとしている女も。
京吾の体は考えるよりも先に動いていた。荷台を飛び降りて幸生のもとに駆ける。
女が幸生の肩を掴む。大きく開いた口からは、赤黒い血の混じったよだれが垂れている。
幸生の顔が恐怖に歪む。
考える暇などなかった。
気がつくと左腕を伸ばしていた。
幸生の首に、女が今まさに噛みつこうとしているところに、左腕を差し出していた。
左腕に激痛が走った。焼けつくような痛みだ。先ほど開いたばかりの傷口に、女の歯が沈み込むのがわかる。
京吾は女の髪を掴んで、無理やり引きはがした。それでもなお噛みつこうとしてくる女の腹を蹴り飛ばす。女が仰向けに倒れた隙に幸生の腕を掴んで走り出した。
荷台にいる慧と目が合った。
慧はひどく青い顔をしていた。たぶん噛まれるところを見ていたのだ。指先が真っ白になるまで荷台の囲いを握りしめている。それでも彼が叫び声をあげなかったのは、京吾を思ってのことだろう。
京吾がゾンビに噛まれたことに、他の人間は気づいていない。いま自分が騒いだら、京吾はきっと置いて行かれる。そう思ったのだ。
京吾と幸生は荷台に飛び乗った。
「全員乗った、出して!」美晴が車体を叩いて金助に合図を出す。
「しっかりつかまってろよ」という金助の言葉とともに軽トラが急発進する。
ゾンビたちが追いかけてくるが軽トラのスピードにはかなうはずもない。彼らの姿はあっという間に遠ざかった。
「京吾…」
何か言いかけた幸生に向かって、慧がしっと人差し指を唇の前に立てた。幸生はもごもごと口を動かし、不安そうに体を揺らしたが、結局なにも言わなかった。膝を抱えて京吾の隣でおとなしく座っている。
慧は無言で自分の服の袖を破り、それを京吾の傷口に巻いた。
「慧…」
名前を呼ばれたが慧は答えなかった。黙々と京吾の腕の手当に専念している。いや、専念しているように見せている。下唇を噛んで手を震わせながら一点を見つめている。包帯代わりに巻いた服の下にある、女の歯型を。
「慧。俺にもしものことがあったら──」幸生を頼む、と言いかけたが、慧が服をぎゅっと縛ったせいで、それ以上の言葉は出てこなかった。
「もしも、なんてない」慧が言う。その声はひどくか細く、震えている。「何も起こっていない。僕も何も見ていない」
慧はそれだけ言うと、膝を抱えて黙り込んだ。おそらくこれ以上は何を言っても聞き入れてはくれないだろう。
京吾も仕方なく口を閉じた。荷台に座って町を眺める。
町の景色がうしろに流れていく。
京吾が子供の頃からある古い木造の家、小さな郵便局、店先にジャンケンマンのアーケードゲームが置いてある銭湯、シャッターが半開きになっている古本屋。
昔ながらののどかな景色。それなのに、その景色のいたる所に死体が転がっている。
千切れた足、歯型のついた肝臓、歩道に飛び散ってぐちゃぐちゃになった淡いピンク色の脳味噌。それらの残骸を死人のような肌の、白濁した瞳をもつゾンビたちがむさぼり喰っている。
むせ返るほど生臭い死体のにおいが風に乗って運ばれてくる。
京吾は自分の両腕を抱いた。体が冷えてきた。寒気がする。
隣に座る慧が、「ああ」と小さくため息を漏らした。慧はどこかをじっと見つめている。
つられて京吾もそちらに目を向けた。
家が立ち並ぶ通りの向こう側。慧の実家がある方角だ。そこから黒い煙が上がっているのが見えた。夜空が赤く染まっている。焦げ臭いにおいがする。それなのに本来聞こえるはずの人の悲鳴や消防車の音が一切聞こえない。
ぽつりぽつりと雨が降りだした。
荷台に座る五人の体を、雨が静かに濡らしていく。
誰も何も言わない。ただ俯いて膝を抱えている。けれど全員が同じことを思っていたに違いない。
雨脚はあっという間に強くなった。大粒の雨が地面を叩き、五人から容赦なく体温を奪っていく。分厚く空を覆う黒い雲は雷をつれてきた。
雷鳴がとどろく。周囲が一瞬、青白い光に包まれたかと思うと、地面が揺れるほどの轟音が鳴り響いた。かなり近くに落ちたらしい。
京吾は頭にかかった靄を振り払うように、首を振った。
体が震える。歯がカチカチ鳴っている。この震えが、ゾンビに噛まれたことによって起こっているのか、それともゾンビに変わるかもしれないという恐怖によって起こっているのか、自分でもわからなかった。
京吾は左腕の傷を強く握った。大丈夫、痛みはある。自分はまだ生きているという証拠だ。朦朧としていた意識がすこしだけはっきりする。
だけど寒くてたまらない。全身に鳥肌が立っている。大きなムカデが背中を這いのぼっているような、今までに感じたことのない寒気に襲われている。
電柱に設置されたスピーカーから聞きなれた島内放送のチャイムが鳴った。頭上から落ち着いた男の声が聞こえてくる。田崎の声だ。
『四季島の皆さんにお伝えします。現在、四季島では原因不明の伝染病が蔓延しており、非常な危険な状況にあります。この病気は、ウイルスに感染した人間に噛まれることによって発症します。
感染拡大防止のためにも、絶対に外には出ず、救助が来るまで安全な場所にとどまっていてください。
繰り返します。現在、四季島では…』
京吾は両腕を抱え、膝に顔をうずめた。
ここは地獄だ。
