楽園へ 第14話
*十二年前
階段を上がる足取りはひどく重い。一段上がるごとに両足をそろえる。右足でのぼって両足をそろえ、また右足でのぼって、両足をそろえる。そんな風にのぼっているから、二階に来るまでにかなり時間がかかった。
足が痛いからではない。上がる気力がないのだ。
幼い京吾の体からは、ぽたぽたと水滴が垂れている。
放課後、グラウンドを歩いていると、同級生の三人に突然ランドセルをつかまれた。抵抗はしなかった。三人とも手にホウキを持っていたから。そのままずるずると引きずられて池の前まで連れてこられた。
京吾の膝くらいの高さの石垣で囲われた小さな池。
緑色の藻が浮く濁った池の中を、数匹の太ったコイが泳いでいる。ヘドロのような、むっとする臭いに気分が悪くなる。コイが口をパクパクさせながら、池の前に立つ京吾たちの方に泳いできた。
ひとりの同級生が京吾の背中を押した。
京吾は頭から池に落ちた。
水しぶきがあがる。同級生の笑い声。コイが京吾の体のわきを素早く泳いで逃げていく。夏の日差しで温められた池の水は生ぬるい。水を飲んでしまったせいで吐き気がする。
池から這い出ようとする京吾の体を、同級生たちがホウキで押し戻す。
三人の同級生のうちの一人は生物委員をやっている少女だった。毎朝ウサギの世話をし、死んだメダカのためにお墓もつくってあげる優しい少女。けれどその優しさは京吾にだけは向けられない。
ウサギをなでた手で京吾に石を投げつけ、死んだメダカのために祈った口で京吾あざ笑った。
うつむきながら階段を上がる。屋上に向かって。死にに行くために。
池の水を大量に飲んだせいでお腹が重い。ランドセルに入っている教科書は水を吸って京吾の両肩にのしかかる。体からヘドロのにおいがして、腕には乾いた藻がはりついている。濡れた靴がぐちゃっと鳴った。
グラウンドではしゃぐ生徒の声。なぜか遠く聞こえる。
三階の階段をのぼっていた時だった。
ふいに視界が暗くなった。二段上のところに立つ、誰かの靴が見えた。
顔をあげる。誰かが立っている。踊り場の窓から射し込む西日のせいで顔がよく見えない。しかし雰囲気から少年であることはわかった。
京吾はその少年に道をゆずるために、右によけようとした。するとその少年は京吾の前に立ちふさがるように、左に移動した。
京吾が左によけようとすると少年は右へ、京吾が右へ行くと少年は左へ移動する。少年は明らかに悪意を持って京吾の行く手をふさいでいた。
京吾はうつむく。頭上から、ぷっと吹きだす声が聞こえた。
濡れたランドセルの肩紐を握りしめる。
どけよ、と京吾は思った。そこをどけ。お前らの望み通り死んでやるから。
けれど少年は右に左に移動して京吾の前に立ちふさがる。
その遊びが終わったのは、別の少年が下りてきた時だった。
二宮金次郎みたいに、図書室で借りた本を読みながら階段をゆっくり下りてくる、色白の少年。
それが慧だった。
慧は何も言わずに、京吾の行く手を阻んでいた少年の左隣に立った。視線は手の中にある本に注がれている。京吾の方はもちろん、少年の方にすら顔を向けない。まるでとても面白いシーンがあって、思わず立ち止まってしまったような感じだった。
京吾は驚いて慧を見た。少年も虚をつかれた顔で慧を見ていた。
本のページをめくる音。
それで京吾は我に返った。慧の左脇をすり抜けて階段を駆け上がる。慧が立っていたせいで少年は京吾の邪魔をすることができなかった。
踊り場を曲がる直前、京吾はうしろを振り返った。
ゆっくりと階段を下りる慧の背中が見えた。恩着せがましく京吾を見ることも、正義ぶって少年を責めることもせず、ただ本を読みながら去っていく背中。
京吾はまた上を向くと、一段飛ばしで階段を駆け上がった。
扉を開けて屋上に出る。
フェンスの前に立ってグラウンドを見下ろした。鬼ごっこをしている生徒、一輪車に乗っている生徒、ドッジボールをしている生徒。みんな笑っている。
階下の音楽室からはグッデーグッバイの合唱が聞こえてくる。
あなたと会えて ほんとによかった
やさしい心 ありがとう
やさしい心 ありがとう
グッデー グッバイ
グッデー
グッバイ マイフレンド
しばらくすると校舎から出てくる慧の姿が見えた。本を読みながら校門に向かって歩いている。なんの本を読んでいるのだろう。フェンスに額をくっつけて目を凝らすが、ここからでは見えない。
涼しい風が頬をなでる。
明日、と京吾は思った。明日、話しかけてみよう。
遠ざかる慧の背中を目で追う。
あの階段で、慧は京吾に優しい言葉をかけることはおろか、目を合わせることすらしなかった。ただ本に視線を落として、そこに立っていただけだ。
けれど恋におちるには十分だった。
