楽園へ 第17話

 誰かの叫び声を聞いた気がした。
 頭痛をこらえて目を開ける。嗅ぎ慣れない匂い。顔の前でくるくる円を描く大きな掌。その間から見える、見慣れない天井。
 「京吾!」
 突然、視界にぬっと幸生の顔が現れた。驚きと喜びに大きく見開いた目には涙が浮かんでいる。
 「兄貴…?」京吾はそう言ってから、勢いよく起きあがった。
 周囲を見回す。知らない家のソファに寝かされていたようだ。窓がわずかに開いており、そこから吹き込んだ風がヒュウヒュウと鳴っている。自分はこれを悲鳴だと勘違いしたらしい。
 屋上から一緒に落ちたはずの慧の姿がない。
 「兄貴、慧は? 慧はどこだ?」
 幸生が窓を指さす。
 立ちあがって外を見ると、宮下が慧の首を絞めているのが見えた。
 うしろから慌ただしい物音がして京吾は振り返る。
 部屋の扉が開いて金助が入ってきた。左腕からは夥しい量の血が流れ出ている。しかし京吾には彼を心配している余裕などなかった。
 「幸生を頼む」
 京吾はそれだけ言うと、窓に向かって突進した。砕け散った窓ガラスが、青白い稲光を反射しながら落ちていく。
 地面に着地した京吾は、宮下に向かって駆けだした。力強く地面を蹴ると、二人の距離は一瞬で縮まった。
 気配を感じ取った宮下が顔をあげる。
 「京吾っ」宮下の真っ赤に焼けただれた顔が歪む。彼は笑っていた。いつもの口角だけをあげる不自然な笑い方ではなく、満面の笑みで。
 「慧に触るな」京吾は宮下の顔面に蹴りを入れた。
 宮下はうしろに吹っ飛び、堤防に背中からぶつかった。
 京吾は慧に肩を貸して立ちあがらせる。「大丈夫か?」
 「京吾、お前いま二階から…」
 「よくわからない。必死だったから」
 京吾は二階に目をやる。窓ガラスが割れて庇の上に散乱している。自分はあの窓から飛び降りて、驚くほどの速さで宮下のところまで走っていった。どう考えても人間業とは思えない。
 「慧、京吾、やばいよ! ゾンビが来た」
 銀次が軽トラの窓から上半身を乗り出して叫ぶ。
 軽トラのうしろで、こちらに走ってくるゾンビの影が見えた。十体以上はいるだろうか。音を聞きつけてやって来たのだ。
 「銀次、みんなを連れて逃げろ」京吾が言う。
 「で、でもよ…」銀次は金助と凜に意見を求めるようにバーバラの店内に目をやった。
 「いいから早く」
 金助と凜が入り口から飛び出してくる。ふたりは軽トラの荷台に飛び乗った。
 「慧も早く乗れ」と言って京吾が急かすが、慧は首を振った。
 「僕はいい。ここに残る。幸生もきっと残るよ」
 「慧、頼むから早く乗ってくれ!」
 しかし慧は強情に首を振った。「助けられてばかりはもう嫌なんだ。お前とここに残って死ねるなら本望だ」
 「銀次、さっさと車を出せ」金助が車体を叩く。「あいつらは置いていけばいいから」
 「本当にいいのかよ金ちゃん。本当に…見捨てるのか?」
 「いいから出せ」
 銀次はすこしだけ迷った様子を見せたが、うしろから迫ってくるゾンビの足音に恐怖を覚えたのか、「ちくしょう」と叫んでアクセルを踏んだ。
 「待ってくれ銀次」
 京吾が呼び止めるが、軽トラは無情にも走り去ってゆく。
 京吾は唸り声をあげた。
 「そんな顔するな。僕は自分の意思で残ったんだ」
 「美しい友情か。泣けるな」宮下が鼻で笑う。
 「羨ましいか宮下?」慧が訊く。彼は口角を上げ、心の底から馬鹿にした目で宮下を見る。「お前が一生かけても手に入らないものだよ」
 宮下の顔が歪む。頬が引きつって痙攣している。爆発寸前の顔だ。
 ゾンビがもうすぐそこまで迫っている。
 京吾は慧の体を抱えると、地面を蹴って跳びあがった。庇の上に着地して慧をおろし、窓から家の中に入るように背中を押す。「家の中にいろ。絶対に出てくるな」
 「僕も闘うって言っただろ」
 「あれだけの数を相手にできるわけないだろ」
 京吾は慧が何か言う前に地面に飛び降りた。十数体のゾンビが軽トラを追いかけて、目の前を走り抜けていく。
 京吾は宮下と二メートルほどの距離を空けてにらみ合った。
 雷鳴がとどろく。ふたりの体を大粒の雨が濡らしていく。
 この男だけは今、ここで殺す。


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